第三十二章
第三十二章
グッタリと車椅子の背に躰を預けた加夏子が運ばれてきた時、恵美子は丁度ベットを整えている所であった。
「カナちゃん…」
振り向いた恵美子が言葉を詰まらせる。
「だぁ〜いじょうぶだって、少しヤンチャが過ぎてたんで、コレでオネンネしてもらっただけだから」
九十九は白衣のポケットから拳銃型の注射器を取り出して、フゥ〜っと息をかけた。
「また医局に内緒で持ち出しましたね、鎮静剤は麻薬扱いなんですよ! いい加減ちゃんと申請して頂けませんか?」
怖い目で恵美子が睨む。
「だぁ〜ってさぁ〜、ウチの病院ってメンドクサイじゃん、そーいう手続きっていうのさ〜」
「どこも同じデス」
だらしなくモジモジする九十九の姿はユーモラスを通り越し滑稽ですらあったが、恵美子は堅い表情を崩さなかった。
「兎に角、この娘をベットへ」
しぶしぶ恵美子に協力して加夏子をベットに移す九十九の動きを、観るともなく恵美子は観察した。
見事だった。
抱え方。
恵美子とのタイミングの合わせ方。
横たえる際の細心の心配り。
なまなかの看護師では及ばぬ程の繊細な動きが、ダラけた所作に隠れていた。
「ホヘェ〜、ケッコウ重いな〜ウチのお姫サマは〜…」
相変わらずおどけた顔をして九十九が言う。
このヒト、どういう人なんだ…
じっと睨んで動かない恵美子に気付いた九十九が声を発した。
「どしたのぉ〜? エミちゃん、顔がコワいねぇ〜」
「…注射器の事は伏せておきます」
「そりゃド〜モ」
大袈裟に両手を拡げてみせる。
「ここ暫く、先生の機転でカナちゃんの感情の爆発から難を逃れた看護師は何人も居ます。彼女が統合失調症のような症状をみせているのは、私達の間では有名な話です」
「ホゥ…」
九十九が目を細めた。
「だから、先生のなさっている事をとやかく言うつもりはありません、ただ…」
「ただ?」
「貴方の考えている事が判りません。一体、この娘を使って何をしようとしているのですか?」
普段は冷静な恵美子の声が大きくなる。
九十九が、不意にニヤリと笑った。
怖い…
首筋に鳥肌がたつのを、恵美子は抑えられなかった。
(続く)