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【連作短編】婚姻局、本日も不備はございません

白い結婚を終えに来たら夫が「初夜は済ませた」と言い張るので、背中のほくろの数を伺いました

作者: ま
掲載日:2026/10/11



「君を愛することはない。この結婚は形だけだ。……悪く思うなよ」



結婚式の夜、寝室の扉の前で夫はそう言った。



「……形だけ、ですか?」


「そうだ。君の家の持参金が要る。それだけの結婚なんだよ。期待はしないでくれ」



扉は私の目の前で閉まった。

花嫁衣装のまま廊下に取り残され、私は閉じた扉の木目を眺めていた。


は?

今それ言う? 式が終わった後に?

言うなら式の前に言いなさいよ、と腹の底で毒づいたものの、声には出せなかった。

二十一歳の私はまだ、怒るより先に悔しさで喉が詰まってしまう娘だったのだ。


あれから三年。

夫のジェラルド・ハートレイ伯爵は一度も寝室の扉を開けなかった。

私に触れたことも名前をきちんと呼んだことも、片手で数える程度。


この国には白い結婚という決まりがある。

婚姻から三年、夫婦の契りが一度も無ければ、妻の申立で婚姻を初めから無かったことにできるのだ。


そして今日がちょうど三年目。




◇




二時の鐘が鳴ってしばらく経った頃、私は大神殿の北翼にある婚姻局の扉を押した。


入口で取った番号札は「十」。

広間の長椅子は思ったより混雑している。

ちょうど第一窓口を離れた黒髪の上品な奥様が、最前列の金髪の令嬢に黒いペンを返し、「助かりました」と頭を下げているところだった。


離縁届を出し終えた人の顔だ、とすぐに分かった。

背筋は伸びているのに目の縁だけが赤い。

いいなあ。素直に羨ましい。

私もあと一歩であの顔になれる。



「十番の方。こちらへどうぞ」



最前列の令嬢より先に呼ばれて首をかしげると、係官は令嬢に「照合の使いはまだ戻りません。今しばらくお待ちを」と声をかけていた。

何かの確認待ちらしい。厳格な順番があるようで無いようで、役所というのは複雑だ。


第一窓口の係官は白髪に銀縁の眼鏡をかけた年配の男性である。

申立書を差し出すと係官は一行ずつ丁寧に目を通していく。



「白い結婚による婚姻無効の申立でございますね。婚姻の日付は三年前の本日。確かに承りました」


「今日で三年ちょうどよ。一日だって早くないはずだわ」


「左様でございます。規定により、これから夫君を局にお呼び出しいたします。異議があれば、その場で述べていただくことになりますが、よろしいですか?」


「ええ、分かってるわよ。屋敷はすぐそこだから、一時間もかからないんじゃないかしら」


「では、こちらの欄に申立人のご署名を」



窓口のペンをインク壺に浸してみたが、ペン先は紙をかすかすと引っかくばかりで線にならない。



「ちょっとぉ。ここのペン、インクが無いじゃない」


「これは失礼を。本日は朝から混んでおりまして」


「混んでるのは見れば分かるわよ。もう、困ったわね、ここに署名が要るのに」



係官が替えを取りに立とうとした時だった。

最前列の長椅子で、さっきの金髪の令嬢が勢いよく起立した。



「よろしければ、こちらをっ!」



差し出されたのは黒檀の軸のペンで、軸には金の百合が象嵌してある。

……金の百合? それ、王家の紋じゃない?



「あら。いいの? ありがと、助かるわ」



遠慮なく借りて、署名の欄に名前を書く。

アニエス・ハートレイ。

この家名を名乗るのも恐らく今日が最後。


ペンを返しに行くと令嬢はにこにこして受け取った。



「いいペンね。書き心地がいいわ」


「でしょう? 王――」



令嬢はそこで慌てて口を押さえた。

王?

王、何?


聞きたいのはやまやまである。

しかし令嬢の顔に「聞かないでください」と大きく書いてあったので、私は追及せずに長椅子の端に腰を下ろした。

人には事情がある。

私にだって、三年分の事情があるのだから。




◇




三時の鐘が鳴ってすぐ、扉が乱暴に開いた。



「ルシール! どこだ、ルシールっ!」



立派な身なりの男が広間に怒鳴り込んできた。

後ろに白髪の家令らしき老人と、目の覚めるような赤いドレスの女を連れている。

男が一直線に向かった先は、さっき離縁届を出し終えた黒髪の奥様。

奥様は別の窓口の順番を待って、まだ長椅子に残っていたのだ。


あー。

これ、あれだ。旦那が後から追いかけてきたやつだ。


私はなるべくそちらを見ないようにして、膝の上で申立書の写しを広げた。

人の修羅場をじろじろ眺めるのは趣味じゃない。

三年前の私だって、あんな姿は誰にも見られたくなかった。


それでも声は否応なく聞こえてくる。

広間に響くのは男の怒鳴り声ばかり。「無効だ!」とか「読んでない!」とか。


係官が分厚い本を開いて淡々と何かを読み上げると広間がしんとして、次にざわついた。

係官は男を「侯爵閣下」と呼んでいた。侯爵様と侯爵夫人の離縁、ということらしい。


男は終始大声。

対して奥様は一度も声を荒げない。

最後に家令の老人が何か答えた途端、広間のあちこちで忍び笑いが漏れ、男の顔面が蒼白になっていくのが、見ないようにしていた私の目の端にもはっきり映った。


やがて男は誰とも目を合わせずに退場し、赤いドレスの女が「屋敷はどうなるのよ!」と叫びながら追いかけていった。


何があったのかは分からない。

でも黒髪の奥様の横顔を見れば分かる。


勝ったんだ、あの人。



「ありゃあ、旦那の方が悪いね」



隣に座っていた白髪のおばあさんが、編み物の手を止めずにぼそりと言った。



「あ、やっぱりそう思います?」


「声の大きい男は、だいたい分が悪いのさ。あんたも気をつけな」


「あはは、ご忠告どうも。うちのは声が小さい方ですけど」


「そういうのはねえ、もっと始末が悪いんだよ」



思わず噴き出しかけて、慌てて口元を押さえた。

おばあさんの言うとおりかもしれない。


窓口の前に立つ奥様の背中に心の中で盛大に拍手を送る。

すごい。

私もあんなふうに終わらせたい。




◇




待っている間、私は長椅子で何度も深呼吸をして、冷静になれと自分に言い聞かせていた。


屋敷はすぐそこなのに呼び出しの使いが出てから一時間以上経っている。

どこにいたのかなんて、聞かなくても分かる。


考えないようにしても頭は勝手に別のことを考え始める。

実家の葡萄畑。秋の収穫の頃の、甘酸っぱい樽の匂い。

それに、結婚式の前の日に畑の端で私を呼び止めて、口を開きかけては閉じ、結局「おめでとう」としか言わなかった幼馴染の顔。


……いや、なんで今ジャンが出てくるのよ。

私は頭を振って、日に焼けたぶっきらぼうな顔を追い払った。


四時の鐘が鳴る少し前、ようやく夫が現れた。



「アニエス」



ジェラルドはいつもの完璧な伯爵の顔で私の前に立った。

人前だと名前を呼べるのね、この人。

上等な外套に整えた金茶色の髪、少しも乱れていない襟元。

三年間、私の前ではいつもこの顔だった。


その後ろから一人の女性が遅れて入ってくる。

黒い喪服風のドレスを着た、しっとりした美人。

子爵家の未亡人、ヴィヴィアン・モア様である。


は?

連れてきたの? ここに?

私の婚姻無効の申立の場に?



「ごきげんよう、アニエス様。わたくしは付き添いですの。どうぞお気になさらないで」


「まあ。何のお付き添いかしら?」


「ジェラルド様が、お一人では心細いとおっしゃるものですから。ねえ?」


「そう。お優しいのね」



私はにっこり微笑み返した。

顔は完璧な伯爵夫人のまま、腹の中では最大級の悪態をついていた。


腹立つ。

本当に腹が立つ。

三年間、夫がどこで夜を過ごしているか私が知らないとでも思っていたのかしら。



「呼び出しを受けて驚いたよ、アニエス。こんな大事なことを、なぜ私に相談しなかった?」


「申立に夫の同意は要りませんもの。係官様、そうですわよね?」


「はい。規定上、同意は不要でございます」



窓口の向こうから係官が律儀に答えてくれた。



「だとしても、夫婦の問題だろう」


「はぁ? 相談? 旦那様、私と最後に話をなさったのがいつか、覚えていらっしゃいます?」


「話ならいつでもしているだろう」


「先月、廊下ですれ違った時に『ああ』っておっしゃったのが最後ですわ。あれを会話と呼ぶなら、ですけど」



ジェラルドの口元が痙攣した。

長椅子のどこかで誰かが咳払いをした。



「十番、ハートレイ伯爵ご夫妻。こちらへどうぞ」



係官に呼ばれて、私とジェラルドは第一窓口の前に並んだ。

三年間で一番の至近距離。



「伯爵閣下。奥方より、白い結婚による婚姻無効の申立が出ております。異議はございますか?」


「ある」



ジェラルドは即答した。



「異議の理由を伺ってもよろしいですか?」


「無効などあり得ない。私たちは夫婦だ! 初夜は済ませている」



広間がざわっと揺れた。


私はジェラルドの横顔を見上げた。

本気で言ってる?

この人、本気でそれを言ってるの?


済ませてない。

済ませてないわよ。

寝室の扉の前で「君を愛することはない」って言って、自分で扉を閉めたのは誰よ。



「旦那様? ご自分で何をおっしゃっているか、お分かりですの?」


「もちろんだ。……いや、妻が混乱しているようで、皆様には申し訳ない」



混乱してるのはどっちよ。


理由は分かっている。

お金だ。


私の実家のラヴァル家は、葡萄酒の商いで財を成して男爵位を買った家だ。

その私の持参金でハートレイ伯爵家は先代の借金を完済した。

屋根を修繕し、領地の水路を整備し、傾きかけた伯爵家を立て直したのは、全部私の持参金である。


婚姻が無効になれば、持参金は全額返還しなければならない。

婚姻が初めから無かったことになるのだから、当然の理屈だ。

そしてジェラルドにはそれを返すお金が無い。


だから嘘をつく。

妻の前で、窓口の前で、愛人の前で、平然と。




◇




「異議を承りました」



係官は表情一つ変えずに言った。



「規定により、異議がある場合は神殿での確認に回ります。神殿の女性神官による確認を経て、決着までにおよそ数か月を要します」



数か月。

冗談じゃない。

その数か月の間、私はまだ伯爵夫人で、持参金はまだ伯爵家の金庫にあり、ジェラルドはその間にどんな手を打ってくるか分からない。


何より、私はもう一日だってこの人の妻でいたくなかった。


ジェラルドの視線がこちらに落ちてきた。

勝利を確信している顔。

数か月あればどうとでもできる、という顔。


……ふうん。

そう。そう来るのね。



「係官様。一つ、よろしいかしら?」


「何でございましょう」


「夫婦なら当然知ってることを、夫に尋ねてもいいかしら? 答えるかどうかは夫の自由で構わないわ」



係官は眼鏡の奥で一瞬だけ目を細めた。



「……申立人の任意のお尋ねとして、記録いたします。お答えになるかどうかは、閣下のご自由でございます」



私はジェラルドに向き直った。

三年間で初めて、真正面からこの人の目を見た。



「旦那様。初夜を済ませたとおっしゃるなら、もちろんご存じですわよね?」



ジェラルドの眉がぴくりと動く。



「――背中のほくろの数を、係官にお答えくださいませ」




◇




広間が静まり返った。


ジェラルドは一瞬だけ言葉に詰まり、すぐに鼻を鳴らした。

余裕たっぷりの、傲慢な表情。

こういう時のこの人は本当に自信満々の顔をする。



「なんだ、そんなことか。もちろん知っているとも」



そして、迷いなく答えた。



「左肩の下に三つ。星のように並んでいる」



一拍。


次の瞬間、広間がどっと沸いた。


口火を切ったのは、長椅子の二列目の恰幅のいい奥様。

続いて代理人らしい男が肩を震わせ、年配の夫婦が互いの腕を叩きながら噴き出して、あとはもう誰にも止められない。


だって、みんな知っているのだ。

社交界で背中の大きく開いた夜会服を着て、左肩の下に並んだ三つのほくろを見せびらかしている人を。

その人が、何と呼ばれているかを。



「星の未亡人」。



広間中の目が入口の脇に立っているヴィヴィアン様に向いた。

ヴィヴィアン様の白い顔が、見る見る真っ赤に染まっていく。


ジェラルドはまだ分かっていなかった。

きょとんとした顔で騒然とする広間を見回して、ようやく自分が何を口走ったのかに気づいたらしい。

顔から血の気が引いていく音が聞こえそうだった。



「残念ですわ、旦那様。私の背中には、ほくろなんて一つもございませんの」



私はできるだけ穏やかな声で言った。



「なんなら、神殿の女性神官様にお確かめいただいても結構ですわよ?」



付け加えると広間がまたどよめいた。


笑われているのは私じゃない。

それは分かっている。

分かっているのに胸の奥がちくりと痛んだ。


三年間、この人は私の背中を一度も見なかった。

ほくろがあるかどうかも知らないくらいに。


知ってたわよ、そんなこと。最初の夜から全部知ってた。

……なのに、なんで今さら喉の奥が熱くなってるの、私。

悔しいの? 寂しいの? どっちよ。両方? 最悪。



「伯爵閣下」



係官の声が笑いを断ち切るように響いた。



「異議を維持なさいますか? 維持なさるなら、神殿での確認に回します。その際、ただいま閣下がお答えになった内容も、記録に添えることになりますが」



ジェラルドの顔が引きつった。


神殿の確認に回れば、私が白い結婚だったことは必ず明らかになる。

その時、記録には伯爵が妻の背中を問われて別の女のほくろを答えた事実が、公式に残るのだ。

数か月後にもう一度王都中の笑い者になるだけだろう。



「ジェラルド様」



入口から低く冷たい声がした。

ヴィヴィアン様だ。



「初夜は済ませた……ですって?」



ジェラルドが振り返る。

ヴィヴィアン様はつかつかと歩み寄ると、その頬をぱしんと打った。

今度ばかりは広間中が息を呑んで静まった。



「わたくしには、妻とは一度も、っておっしゃいましたわよね? ねえ、どちらが嘘ですの?」


「ヴィヴィアン、ち、違う、これは――」


「結構です。もう、どちらでも」



答えを待たずにヴィヴィアン様は踵を返して出ていった。

喪服風のドレスの裾が扉の向こうに消える。


残されたジェラルドは片頬を赤くしたまま、長いこと窓口の前に立ち尽くしていた。

やがて、蚊の鳴くような声が漏れた。



「……異議は、取り下げる」


「承りました」



係官は申立書に判を押した。



「書類に不備はございません。白い結婚による婚姻無効の申立、受理いたしました」



四時の鐘は、とっくに鳴り終わっていた。




◇




ジェラルドが出ていった後も私はしばらく窓口の前から動けなかった。


終わった。

三年間が本当に終わったのだ。


嬉しい。

嬉しいはずなのに足がふわふわして、床に着いている気がしない。

勝ったのに、何かを失くしてしまったような妙な気分だった。

失くしたものなんて、最初から何も持っていなかったはずなのに。



「アニエス・ラヴァル様」



係官に旧姓で呼ばれて、我に返った。



「持参金のご返還の手続きは、第二窓口にて承ります。ご実家への返還の期日は、規定により三十日以内でございます」


「三十日ぃ? ……あの人、払えるのかしら?」


「払えなければ、伯爵家の財産から差し押さえることになります。これも規定でございます」



係官は淡々と言った。

淡々としているのに不思議と慰められた気がした。



「ありがとう。……ねえ、あなた、いい係官ね」


「恐れ入ります。窓口の者は、届に不備が無いかを見るだけでございます」


「えー、その割には、さっき助け舟を出してくれたじゃない」


「規定をご説明しただけでございます。……まあ、少々、出過ぎた真似だったかもしれませんが」



係官は真面目な顔のまま、眼鏡を押し上げた。

頑固で誠実な人だ。

こういう人が窓口にいてくれるのなら、この国の制度もまだ捨てたものじゃないらしい。


第二窓口に向かう途中で最前列の長椅子の前を通りかかった。

さっきペンを貸してくれた金髪の令嬢が、膝の上でペンを握りしめて座っている。

どこか緊張した顔だ。


何の届かは知らないが、王家の紋のペンを持って、私が来る前からここで待ち続けている子である。

きっと何か大事なものを終わらせに来たのだろう。


私は足を止めて、令嬢に声をかけた。



「あのペン、縁起がいいわね。私も、さっきの侯爵夫人も勝ったもの」


「えっ、勝った……のですか? おふたりとも?」


「ええ、完勝よ。あなたも何か出しに来たんでしょ? 頑張ってね」



令嬢はきょとんとした顔で膝の上のペンを見下ろしていた。

可愛い子だな、と思う。

私にもあんなふうに何も疑わずにいられた頃があった。三年前の、結婚式の夜までは。




◇




持参金の書類をすべて書き終えた時には、四時半を回っていた。


これで本当におしまい。

長椅子の間を抜けて、出口の扉に手をかけた。


その瞬間、扉が外から勢いよく開いた。



「待て! 破棄するのは俺だ!」



金色の髪を振り乱した若い男が、薄桃色のドレスの令嬢を連れて飛び込んできた。

すれ違いざまに見えた上着には王家の紋の刺繍がある。


は?

破棄? 何を?

今日ここ、どうなってるの?


男は一直線に第一窓口に突進していく。

その先にはさっきの金髪の令嬢が立っていた。


……ああ。

そういうことね。


王家の紋のペン。長い待ち時間。そして王家の紋の上着の男。

なんとなく分かった気がしたので私は見届けずに扉を出た。


大丈夫。あの子には縁起のいいペンがある。

それに、他人の修羅場はもうお腹いっぱい。




◇




大神殿の前の石段を下りると見慣れた荷馬車が待っていた。


ラヴァル家の葡萄酒の樽を運ぶ、古くて頑丈な荷馬車だ。

しかし御者台の人影は父でも兄でもない。



「……え、ジャン?」



醸造所の職人頭の息子で、子どもの頃は一緒に葡萄畑を走り回った幼馴染。

日に焼けたぶっきらぼうな顔が、手綱を握ったまま私を見下ろしている。さっき長椅子で追い払ったばかりの顔である。



「よう。旦那様に頼まれた。お嬢を迎えに行けって」


「ふうん。お父様、気が利くじゃない」


「……俺が、行かせてくれって頼んだんだけどな」



小さな声だったので聞こえなかったふりをしてもよかった。

でも、聞こえてしまった。


三年前の、あの葡萄畑の端。

飲み込まれた言葉の続きを私はまだ聞いていない。



「ねえ、ジャン」


「何だよ」


「帰り道、長いわよね?」


「……ああ。日が暮れる」


「じゃあ、のんびり帰りましょ。三年分、話したいことがあるの」


「三年分って、日が暮れるどころじゃないだろ」


「いいわよ。夜通しでも」



私は御者台の、ジャンの隣に乗り込んだ。

葡萄酒の樽の匂いがした。

三年ぶりに嗅ぐ、家の匂い。


背中に夕日が当たっている。

誰にも見られなかったほくろ一つない背中は、思っていたよりも温かかった。




明日は秋の夜会。その前日の午後、婚姻局の第一窓口に、三人の女性が届を出しに来た。

同じ日、同じ窓口、同じ一本のペン。どの話から読んでも楽しめる連作短編です。

https://ncode.syosetu.com/n4055mw/

https://ncode.syosetu.com/n4054mw/


↓番外編「滲んだ署名」(係官ベネディクト視点。窓口の内側から見た同じ一日)

https://note.com/wise_turtle184/n/nb4bd9a1179e4?magazine_key=m3153550f4b3b

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