第三十五話 冷汗三斗
2日目。
戦況は順調である。昨日の兄様の陽動が上手くいった。あとは…フェリは近くにいたトルメンタ卿を見る。
「ムスケルイディオ譲」
無視してもいいだろうか。このタヌキ親父が、と毒を心中で吐きながら「はい」と微笑んで、その名を呼んだバックレン・ピチノの方に顔を向ける。…譲呼びなんかもう二度と出来ないようにしてやる。
「昨日に引き続き、ディアーブル氏が貸した兵が殿下の護衛として良き働きをしてくれているな。」
「えぇ…とても助かってます。」
だから何よ。いや、言いたいことはわかってるけど。
「我が兵が殿下の御身を守ることに役立ってるなら、それは良かったです。バックレン氏の助言のお陰で。」
ここまで来ると滑稽ね。フェリは冷たい目でその様子を伺っていた。名前の”氏”の呼び合い。これは貴族間では仲が良いことを外的にアピールしているのだ。氏呼びに抜け目なくピチノ領主を持ち上げた。
「…秘書官殿すいません。」
「いえ…気にしておりません。」
思った以上に食えない男だ。ピチノ領主を持ち上げた上でこっちにもフォローを入れて来ている。
「何を謝ってるんだ。我々が助けてるんだ。」
「そんな」
「はは!ディアーブル氏の謙虚な所は我は好きだが…謙虚過ぎるのも困り物だ。」
馬鹿タヌキ。思わず暴言を吐きそうになるのをグッと我慢する。そう我慢だ。ここで自分の感情を優先する訳にはいかない。本当…ヴァイゼ様がいないから私に嫌味言いたい放題ね。今も心底ムカつくニヤリ顔でこちらを見ながら言ってるし。謙虚になって、大人しく引き下がれと私に言いたいんだろう。…さて、どうしようか。
「そうですね。今回は協力ありがとうございます。」
「ひ、秘書官殿」
「騎士団を貸して下さるなんて、身を削るような貢献。お陰で殿下の御身をしっかりと守れます。これで何があっても殿下をお守りすることが出来ますから。」
「…えぇ」
「ムスケルイディオ譲もわかってるじゃないか。」
はは、と機嫌良く声を張り上げるバックレンを絶対零度の視線で様子を見る。ここにカイやヴァイゼが居たらきっと「ひひぃぃ」と情けない声で言っただろう。微笑みながら全然目が笑っていない…フェリの完全ブチギレモードなのだから。しかし、そんな事を露も知らぬ彼等はフェリに笑顔を向けた。異様な空気が醸し出す。
「…では、私はあちらに行きますので。また。」
「えぇ」
機嫌良く笑うバックレンの隣でディアブールは笑顔をフェリに向けた。全て上手く行ってる。バックレンを上手く隠れ蓑にし、ヴァイゼ殿下の護衛に付けた。今回の目的はヴァイゼ殿下の暗殺ではない。王族を今殺すのはよくない。ここで戦争になるのもこっちとしても都合が悪い。…あくまでも、狙いは彼女フェリシテ・ムスケルイディオ。彼女を筆頭秘書官から引き摺り下ろす。今回殿下が怪我を負えば彼女や北部大領主は確実に責任を取らなければならない。ギリギリの所で我の騎士が殿下を助けたら…王族の信頼を一気に勝ち得る。そう、これは私を殿下の懐に入れる作戦。全て思惑通り…なのに何だろう。この拭えない不安感は。あの小娘だって、こちらの手の平だ。なのに。あの小娘の笑顔を思い出す度に喉に刃を当てたられたような冷気を感じるような気がする。
後に彼はこのときの事を後悔する事になる。
あのときの感覚は気の所為ではなかったんだと。
__ 一方、見晴らし台では。
「良し。山場に追い込んだ。」
あそこなら、我が軍を掻い潜って殿下の軍の背後に上手く付けられる。フェリは望遠鏡を覗き込みながらニヤリと笑みを溢す。動くならここだ。さて、動くなら今日の夜に少数で動かし…明日にタイミングを見て指すだろう。タイミングは勿論…私達が指す直前だろう。
「カイ、ヴァイゼ様を頼んだわよ。」
今回の作戦のポイントは兄様とカイだ。兄様が戦況を掻き乱す役割。カイはそれを上手く纏める役割。…ヴァイゼ様を守るのはカイが率いる王衛だ。
「本当に優秀ね…北部の騎士団は。」
兄のめちゃくちゃなリードにしっかり付く所か、先手でこちらの考えを読みサポートを上手くやってくれている。お陰で戦況がいい感じに分かれてきている。
「敵に上手く追い込みながら分けて一部の軍だけ逃げ場を作ってる。お陰で的が搾りやすい。」
動かすなら西側の山場の兵の可能性が高い。あそこなら裏に一番最短で周り込める。今追い詰められている兵なら形成逆転の一手に見えるだろう。
「フェリシテ秘書官。」
「レヒト大領主。」
フェリが振り返るとそこには後ろで手を組んだ屈強な男がいた。これで現役を退いているというのから凄い。フェリは武の面は知識しか持たない素人たが、それでも彼がどれだけ別格なのかはわかる。北部の領主の鏡ような人という印象がある。個の武力で人を纏め、武だけなく知でもこの地を愛し守り続けている。
「小熊払いをお主や殿下に任せてしまい、すまない。」
小熊、ですか。先程の譲呼びで沸いていた怒りが少し落ち着く。中央の言い方するなら、小蝿という意味だ。
「いいですよ。払いも仕事の内です。」
「そうか、我も責任を取らなければならない。」
「…黙って身を賭けてくれただけで十分です。」
「何、それこそ気にするな。我の身一つでこの地に安寧を下ろすことができるのなら。後悔せん。」
何も言わずにその身を賭けてくれたのだ。彼は本当にここの民達を大切にしている。いや、知っていた。それをわかってて…こうなるのを予想してこの作戦を立てた。つくづく自分はなんて性格が悪いんだろうと思う。
「仕掛けるなら明日です。」
「そうか…死者を出さず明日で終わらせるつもりか。」
「えぇ、それが今回の戦いでの最低限条件です。」
この紛争は死者が出た時点でゲームオーバーだ。味方敵関係なしに死者を出さずに紛争を終わらせる。それでしか、今の私達に勝ち筋はない。ここで死者が出ようものなら…戦争になり、今の倍は覚悟して戦況に挑まないとならない。戦争になったら…戦争なんて私だって経験したことがない。紛争レベルは何度もあるものの…戦争…しかも大戦レベルになると考えられる戦争は今までにない規模と犠牲を生み出す事になるだろう。それだけは。
「紛争でも死者は出る…皆命賭けなのだ。」
「そうですね…わかっております。」
私が言ってる事は無理難題も甚だしい程の夢物語だ。
「だが、お主が言うと説得力があるな。」
「…」
「軍師姫」
「…お兄様ですか?」
「はは、違うぞ。軍事界隈でも結構有名人だぞ。」
その小恥ずかしい呼び名を何故…と思いつつ、フェリは恥ずかしさを誤魔化す為に望遠鏡を再度覗き込んだ。




