前編
暇を持て余した休日。友達の誘いで、俺は特に興味もない、企画をやっている美術館へ足を運んだ。北欧神話を題材にした展示物を扱った美術館。
美術学校の学生だった俺だけど、北欧神話の事は全く知らず、それに飾られている物も、ほとんどはレプリカばかり。だから俺はここに飾られている絵や、彫刻には全く興味が無かった。
それに、特に珍しい技法を使った物もなく、俺はそういった物を特に見るでもなく、飾られている物の前を、ただ通り過ぎていくだけだった。
しかし、そんな美術館で出会ってしまった。そう、彼女に……
最初に彼女を見たときの衝撃は、古い言い回しだが、まるで雷に撃たれたかのような感じだった。赤毛でそれと同じような赤い瞳には、少し薄紅色が混ざる。俺はその瞳を、彼女の事をもっと間近で見たいとも思ったが、友達と一緒に来ていた事もあり、気恥ずかしさから、遠くから見つめるだけしかできなかった。
「おい、どうした?」
彼女に心を奪われ、ぼーっとしている所に、突然友達が声を掛けてくる。
「え? ああ、何でもない」
慌てて意識をそちらに戻すが、どうしても彼女の事が気になってしょうがない。友達は北欧神話が好きなのか、俺を引き連れて、展示されている様々な絵画や、彫刻の説明をそいつに聞かされた。だが、そんな説明など俺には全く頭に入ってこない。もう、俺の頭の中では、彼女の事がぐるぐると回り続け、気がつくと彼女の事を眼で追っていた。
それからと言うもの、俺は毎日のようにその美術館に行き、彼女の事を見つめるようになった。そして、瞼の裏に焼き付け、何度も何度も、気が遠くなるくらい何度も彼女の絵を書き続けた。
しかし、どうしても彼女のあの優しい微笑みを描ききる事は、俺にはできなかった。でも、それでも俺は彼女を書き続けた。いつしか俺の部屋は彼女の絵で溢れた。それでも思うとおりの彼女を書く事が出来なかった。
もうほとんどノイローゼになりそうなほど、俺は彼女に心を奪われてしまった。
そしてそんなある日。いつもの通り美術館に足を運ぶ俺。しかし、その日、美術館の展示は一切合財が変わってしまっていた。
「なんで……? そんな、ウソだろ?」
俺は慌てて館員に展示の事を聞いた。
「え? 『北欧神話の神々展』ですか? あれなら昨日で終わりましたよ」
俺は耳を疑った。
「今……なんて?」
「いえ、ですから『北欧神話の神々展』は昨日で終了しました。もう国内での展覧はこの美術館が最後だったので、国内ではどこに行っても…………」
館員の声はもう俺の耳には届いてこなかった。
「ロキ……」
俺は、それ以上言葉を出すことも出来ず、俯いたまま美術館の外に出る。そして出てすぐの所にあるベンチに腰掛け、ただただ俯いている事しかできなかった。俺はいまだこの事態が理解できず、頭を抱えていた。
「あら、あなた確か……」
その時俺に突然声を掛けてくる人物。今は声を掛けられたくない、うっとしく思いながらも顔を上げる。
「ロ……キ?」
思わず声に出してしまう。そう、そこに立っていたのはロキにそっくりの人物だった。
「ロキ? ああ、確か展示されてた絵に『微笑むロキ』があったわね。あの絵私も好きだったけど……私はロキじゃないわよ。確かにちょっと似てるかもしれないけどね」
俺は改めて目の前の人物の顔を見る。確かに似てはいる。でも、違う人物であることは間違いない。どこか面影があるのは確かだし。同じような赤毛、顔立ちもどこかロキに似ている。だが、ロキとは眼の色が違った。『微笑むロキ』の眼は赤く燃えるような眼をしていたが、目の前の人物の眼は赤色だが、少しオレンジ色に染まっていた。
しかし、俺はロキに似ている、彼女に興味を持った。
「ああ、確かにそうですね。御免なさい。でも・・・・・・何で俺に声を?」
彼女は少し微笑み、そして答える。
「ああ、私も北欧神話が好きだから『北欧神話の神々展』よく見に来てたんだけど、私が見に来る時、いつもあなたがいたから、なんか顔覚えちゃったのよね」
彼女はそう俺に言うと、また話し出す。
「あなたいつも『微笑むロキ』を見てたわよね? そんなにあの絵が好きだったの?」
まさか誰かにそんな姿を見られているとは、俺は思ってもいなかった。
「そんなに俺、ロキの絵を見てたかな?」
明らかに俺の顔は赤くなっていただろう。その俺の顔を見てはにかむ彼女。
「ふふふ、あなた面白いね。ああ、そうそう、私はセシリア。あなたの名前は?」
「ああ、俺? 俺はゼロ」
「隣、座ってもいい?」
セシリアはそう言うと俺の隣を指差す。
「え? ああ、もちろん」
俺は自分が占有していたベンチを少しずれ、セシリアの為に席を開ける。
「ありがと」セシリアはそう言うとベンチに腰掛ける。
「ほんと、残念だったわよね。私も、もっと見てたかったんだけどね。次見れるのはいつになるやら……」
セシリアは本当にがっかりしながら俺にそう話す。だが、俺としてはあの展示自体はどうでもよかった。俺にとって重要だったのは、『微笑むロキ』だけだった。だが、隣でがっかりとしている彼女にはそんな事を言えるはずもなく、曖昧に頷くだけの俺。
俺とセシリアはその後少し話したが、彼女の北欧神話の話について行くことが出来ない俺に、セシリアは少しがっかりしたのか、会話が続かなくなってきた。でも、俺はそんな彼女にますます興味が湧いてきた。
俺の知らない北欧神話の話だったが、セシリアと話していて退屈はしなかった。知性的でそれに何より、ロキにそっくりだと言うことが・・・・・・
だが当の本人は俺があまり北欧神話に詳しくないとわかると、話を切り上げて帰ろうとする。
「じゃあ、私そろそろ帰ろうかな」
「あ、ちょっと。またさ……また北欧神話の話聞かせてくれないかな? セシリアの話聞いてると、なんだかちょっと興味が出て来た。だめかな?」
うーん……少し考え込む様子のセシリア。
「いいよ。でも、少しはゼロも勉強してきてよね! いい? わかった?」
「ああもちろん、次合う時にはもっとちゃんと話ができるようにしとくよ」
「じゃあ、また来週ここで会ってくれないかな?」
俺は柄にもなく少しドキドキとした鼓動を感じながらも、それを悟られないように言った。
「じゃあ、また来週この時間にここでね」
セシリアはそう言って、右手を少し上げると俺に背を向け歩いて行った。俺はセシリアの背中に手を振り、それを見送る。
セシリアと別れた後、俺も家路につくが、とりあえず家に帰る前に図書館にでもよって、北欧神話の本でも借りて行こう、そう思い少し遠回りして帰る事にする。
そこで何冊か北欧神話の本を物色し、その中にあの『微笑むロキ』の写真が載った本を見つけ、それも一緒に借りていく事にした。
今借りてきた本を読みながら家まで帰り、自分の部屋に入ると、また俺はロキの絵を描く。その日は不思議な事に、うまくロキの微笑んだ絵を描くことが出来た。しかし、やはりどこか違う。確かに微笑みは柔らかく、今までのような作り物のような微笑みではなくなった。しかし、これはどこか……
「これは、セシリアだな……」
思ったより自分の中に入り込んでしまったセシリアの笑顔が、今の俺の絵に影響を与えてしまったようだ。でも、俺が書きたいのはセシリアじゃない。俺が書きたいのは、あの優しく微笑んだロキなのだ。
「でも……セシリアをモデルに書き続ければ、いつかロキを書くことが出来るかもしれないな」
俺はそう言う思いでセシリアともっと近い関係になりたいと思ってしまった。もちろん、そんな関係が許されるわけでは無いだろう。でも、それでも俺はロキに少しでも近づきたい。その思いが、それが許されない事だとわかっていても、もう俺にはそれ以上は考えられなかった。




