(2)
真ん中に、微妙な空間を残したまま、ふたりになってしまった。
そんな機会があれば、とは思っていたけれど、まさかこんなに唐突にやってくるとは思ってなくて。なんだか、胸がむずがゆい。
ナギ・ユズリハがこの状況をどう思っているかはわからなかった。だけど、この夏、わたしたちはこうやってふたりでいることが多かったのだから、特になにも感じていないかもしれない。
おおきな、花火が咲いた。赤くて、ちらちらと消えていく花火だった。
「お兄さん、いるんだってな」
その音が静まって、次の破裂音が聞こえるあいだ。ナギ・ユズリハがちいさく、こぼした。
だけどどうしてか、わたしにはその音ひとつひとつがはっきり聞こえた。
「うん。ヒノエに聞いた?」
「いや……ほんとうは、ずっと前から知ってた」
しゅるしゅる。そう音をあげて花火は確実に空を昇り、花びらを散らす。その鼓膜をゆらす音に混じっているのに、クリアに聞こえる声。
「イチイ・アマハネ」
ナギ・ユズリハが兄の名を発する。なんだかまるで、別人みたいに。
「ずっと、その名は聞かされてきたから」
そうしてすうっと、息を吐いた。
「でもよくわかったね」
たぶん公表されてないのに。公表っていうのもおかしいけれど。単に誰にも言ってないし、誰もそうと思わないだけ。
「アマハネってめずらしいから」
「そう? ああ、こっちじゃたまにあるんだけど、そうかもね」
「うん、だけどそうじゃなくても」
今度は金色の枝垂れが空を彩った。
「たぶん、わかる」
どうして。そのことばが掠れてしまった。わかる、だなんて。兄も妹もジーンリッチで、あの両親の遺伝子なんてまったく受け継いでない、どこの誰のものとも知らない遺伝子が親だっていうのに。
「似てる」まるで息を夜空にとかすみたいに吐く。「うちら」続いたことばは、花火と共に弾けて落ちた。
わたしと兄、ではなく、うちら。ナギ・ユズリハに兄弟はいないのに。
先日出逢ったおじいさんを思い出す。わたしは、聞いてしかいないから、彼のことをわかるとは言えないけれど。
でもそう、もしそうならば、わたしたちはもっと近づけるのかもしれない。
もしそんな予感をわたしの本能ってやつが感じて、名前に恋をしたのならば、これって運命ってものなんだろうか。ウンメイ。そんなもの、物語のなかだけだと思っていた。
それに、やっぱりなんだか似合わない。だって名前だけで、そんなことが感じとれるのなら――いいや、頭のなかなんて見たことがないんだから、わからないか。
ああ、そうだ。それにわたしは彼の名前だけに惹かれたわけじゃない。きっと、あの絵があったからだ。瑠璃色の、羊。
「ねえ、ゲームしよう」
花火は長く続かない。終わる前に、話がしたかった。
わたしの申し出に、ナギ・ユズリハは首を傾げてから「わかった」と頷いてくれる。
「次に上がる花火の色、当てるの」
「ふたりとも外れたら?」
「もう一回」
「当たったら?」
「外したほうに願いごとをひとつ、聞いてもらう」
体温がすこしあがった気がするのは、たぶん暑さのせいじゃない。
「わかった」
そのことばに安堵の息をもらして、わたしは「じゃあ、青で」と告げる。
ナギ・ユズリハは「赤」とだけ答えた。
ひゅうっ、とタイミングよく次の花火があがる。わたしはすこしの期待を持って、その行方を見守る。
開いた火花は、青色だった。
自分でもびっくりして、思わず隣を見る。ナギ・ユズリハはほんのすこしだけ口角を上げていた。花火が消えていくのと一緒に、顔も暗闇にとけてゆく。
「なに?」ナギ・ユズリハがそっと聞いてくる。
わたしは、ゆっくり自分の右手を伸ばした。ヒノエが座っていた空間に。
その手を、次の花火が浮かびあがらせる。
「手、握って」
わたしの手を。黒い痣のある、欠陥品の手を。
言わなくても通じる、なんて甘いことは考えていない。言わなければ通じないことのほうが多かった。それは幾度となくヒノエにも言われたこと。口に出さずに伝わるんなら、世の中正常に動いてないだろうね。お前も勝手に理解されてるなんて思わないことだよ。そう、冷たい視線を投げかけられながら。
だからわたしは言わなければいけない。その手は、この目は、わたしは。
ナギ・ユズリハはわたしの手をしっかり見て、それからまるで絵筆を握るように、つかんでくれた。つながった両手が冷たい地面の上へと落ちる。
黒い模様の手と、白い包帯が巻かれた手。欠陥品と烙印を押されたものと、欠陥品になりたかったもの。
その指先がとても冷たく感じるのは、きっとわたしの体温が高いせいだろう。細い指は思った以上に肉が感じられず、ごつごつとしていた。
それからいくつかの花火を見送った。言いたいことは喉まで出かけているのに、ことばになってはくれなかった。
手をつないだことに満足? 違う。
反応が怖くなった? 違う。
わたしは、ただいつまでもこの時間が続けばいいなと、思ってしまったんだ。
「あのさ」
だけどそれは、絶対にありえない。いつかは花火も、夏も、休みも終わる。
ナギ・ユズリハの声に横を向く。彼は空を見上げたままだった。
「学園には、たぶんもう戻らない」
それはとてもクリアな声で、淀みなんてすこしも感じられなくって。
周りの音を、一気に制してしまった。
「やめるの?」
そんななか、わたしのことばはただの雑音だった。なんと反応していいのかもわからず、戸惑いだけが音になって発せられる。
ナギ・ユズリハは静かに顔をさげてわたしを見る仕草。「ああ」という声。すべてがスローモーション。
わからなかった。わたしはどう言うべきなのか。
やめないで。それはわたしの身勝手。そしてわがまま。
わかった。それはわたしの思い上がり。そして自己満足。
わたしは引き留めることもできないし、見送ることもできない。せっかくこうやって会話を交わせるひとができたのに、あの学園にひとり戻されるのはとてもさみしい。だけどあの学園がどんな場所かはよく知っている。だからこそ、無理に戻れとも言えない。
あの場所は、ひどく閉塞的で、他人と比べられるのに、関わらなきゃいけないところで。毎日変わらない生活を強いられ、番号で管理され、逸脱すればすぐに呆れられる。
だからナギ・ユズリハは手首を切った。ほんとうのところは本人にしかわからない。だけど彼がわたしたちを似ていると言うのならば、たぶん遠くはないだろう。わたしと違ったのは、期待の有無だった。もし逆だったら、わたしも同じ結果を選択したかもしれない。
「逃げるみたいだけど」
そう言う彼の顔を花火が縁取った。その表情はどこか悲しげにも見えたし、微笑んでいるようにも見えた。
わたしは頷くことはしないで、右手でその指を強くにぎり返した。
逃げる。それだってひとつの選択。彼はきちんと選択をしたのだ。自分の意思で。他人に言われてのことなら、きっとこんな顔にも声にもならないだろう。
それに比べてわたしは。ただ現実の窮屈さに辟易し、それでも繰り返し呼吸をしてきただけ。未来を選ぶどころか、選択肢だって思い描いてはいない。わたしには逃げる勇気だってないのだ。
「そっか。そうなんだ」
わたしの右手は、それ以上強くはにぎってもらえなかった。ただわたしのことばにナギ・ユズリハは「ああ」とだけ頷いて、また花火へと視線を移してくれた。
ひゅうっと花火は昇り、空高く咲く。鼓膜とお腹の底を揺らす音。はかなく散ってゆく火花。夏の風が頬を撫で、祭の空気がひとびとの熱をはらむ。
もう、次の花火が上がることはなかった。だけどナギ・ユズリハはそのままずっと、空を見ていてくれた。
わたしはそのやさしさに感謝して、そっと泣く。
夏が、終わってしまった。
だけどこの夏で、ナギ・ユズリハは決着をつけられるのかもしれない。