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瑠璃の羊  作者: 八谷紬
第三章 天翔けるけもの
14/18

(5)

 次の日は仕事がお休みだった。さすがに夏休みに毎日働いていてはつらいだろうという配慮からだ。わたしとしては平気だけれど、コチヤ家の面々によけいな気遣いをさせてもいけないから、おとなしく休むことにしている。

 休みだからといって、他にしたいことがあるわけでもない。ヒノエとナギ・ユズリハは今日も仕事だから、一緒にあそんだりすることはできない。あいにく父も仕事が休みで家にいるようなので、のんびりと朝食を摂ってから、散歩に出ることにした。

 ひとりだし、と手袋とコンタクトレンズは家に置いてくる。


 広すぎる田舎の土の道は、誰かとすれ違うことなんかめったにない。ここらの畑は全部コチヤ家のもので、でも収穫にはまだ早いから人はいない。遠くに別の家の田んぼもあるけれど、そこもまだ収穫期ではないので人影は見当たらない。

 つまりわたしは、この大自然をひとり占めして、のんびりと歩けるはずだった。

 ということはすなわち、めずらしいことに出会ってしまったのだ。こんな田舎道を走る、ちょっとさびれたクラシックカーに。

 そのクラシックカーは道に停車していて、運転席に座る人間は窓の外を見たり地図らしきものを見ていたりしていた。道に迷ったのだろうか。あやしい雰囲気はないものの、今時見ないクラシックカーと、誰もいない道に迷うことがセットになって、気づかれる前に退散しようかな、と考える。やっかいごとに巻き込まれるのはごめんだ。


 ただ、こんなだだっぴろい田舎。わたしの姿は何に隠れるわけでもない。そう考えたときには既に、運転席の男と目が合ってしまった。その上、ドアを開けて降りてきて、手を挙げられたのだから、もはやしかたがない。

 まっすぐの道をいつものスピードで歩く。初老の男性はにこやかに「すみません」とわたしに小さく頭を垂れた。

「コチヤさん、という方の家を探しているのですが」

 その声はとても丁寧で、やわらかかった。品の良さそうなひとだ。クラシックカーの中もよけいなものがなく、きれいなままだった。

「コチヤなら知っていますが……」

 ヒノエの家ならあながち間違ってはいない。案内も楽に済みそうだ。そう思いつつ答えるとわたしの声になにを感じとったのか「ああ、失礼しました」と男性はにっこり笑う。

「ユズリハと言います。孫がそちらにお世話になっているようでして」

 その名に思わず顔をあげる。まったく似ていない。そう思ってから、ナギ・ユズリハはジーンリッチなのだから当たり前だと気づく。


「おじいさんですか」

 なにを言っていいかわからず、困ったわたしに、彼はやわらかく微笑んでくれた。

「はい。同じ学校の生徒さんですか?」

「あ、はい。ナギ……さんのクラスメートのコチヤの幼馴染です」

「そうですか」と微笑みは満面の笑みへと変わる。ほんとうにナギ・ユズリハとは似ていない。表情のかけらも、仕草のひとつも。

「孫がお世話になっております」

「いえ、わたしは……」そこまで言って、こんな田舎につれてきたのはわたしだったということを考える。ナギ・ユズリハ本人は、特に帰る気もなさそうだったから誘ってみたけれど、おじいさんとしては良かったのだろうか。こんなところまでわざわざ訪ねてくるということは、やはり帰ってきて欲しかったのではないだろうか。


「あの、すいません。わたしが誘ったんです」

 わたしのことばにおじいさんは目を丸くして、それから「いえいえ」とやさしい声を出した。

「あやまることはないですよ。寧ろ感謝するぐらいです」

 そうして「すこしお話をしても良いですか?」と切り出してきた。太陽をさえぎるものがない場所で、わたしはゆっくりと頷いた。

 じりじりと、日差しがわたしのうなじを焼いてゆく。


「あの子は、素直な子でしてね」

 夏の風が吹きぬけてゆく、田舎の一本道でおじいさんの話ははじまった。

「あの子の父、つまり私の息子は、私のようになろうと必死でした。周りの期待に応えて、私の期待に応えて。でもどんなに頑張っても自分に才能はないのだと、砕けてしまったのです。そこで」

 おじいさんはいったん息を止め、眉尻を下げてわたしの顔を見る。

「自分の子どもには、そんなことを感じさせないようにと、決断しました。そしてジーンリッチという選択をしたのです」

 その顔はどこかさみしそうに感じた。もしかしたらおじいさんは、そのことに反対をしたのかもしれない。でもナギ・ユズリハは実際にジーンリッチとして生まれてきた。


「だけど息子は、すこしだけ、間違いを起こしました。息子は確かに才能がなかったことを悔やみました。ですが私にとっては才能なんてどうでも良かった。他人と違うところがあるのなら、それが才能です。息子はそのことではなく、周りのプレッシャーに潰れてしまったのです。そこに気づいてくれれば、同じことは繰り返さなかったでしょう」

 ああ。おじいさんの悲しみがわたしにすこし滲みてくる。だけど、ジーンリッチという選択をしたのならば、そこに既に答えは出ていたようなもの。

「息子は、あの子に自分が受けた以上に強い期待をかけました。お前はジーンリッチなのだ、遺伝子的に優れた才能を持って生まれてきたんだ。だからお前は祖父のようになれ、祖父を越えるんだ」

 ふう、とつめたいため息がもれた。反対にわたしの息はつまる。


 期待されて生まれてきた。期待したとおりに生まれてきた。だからきっとできるはずだ。そうナギ・ユズリハは思われてきた。

 そこにはわたしの知らない世界がある。期待されて生まれてきた。だけど期待したとおりに生まれなかった。だけど私たちは見捨てない。あなたは私たちの大切な子。それはナギ・ユズリハは知らない世界。


「私が気づいたときには、あの子の身体は傷だらけでした。絵を描くたびに、描くのに迷うたびに、かきむしっていたようです。なかなか会わせてもらえなかった孫でしたが、これは駄目だと、無理矢理ひきとってきました」

 両親は海外にいると聞いた。だからおじいさんが保護者なのだと。だけど実際にはこんなことがあったなんて。

 知らない過去を、その本人がいないところで聞いてしまうのは、とても気持ちが悪い。でもわたしは聞いてしまうし、きっと忘れることができないだろう。


「それでもあの子は、絵を描くことをやめません。自分は描かなければならないのだ、と思っているようです。私も最初はいろいろ言いました。無理に描かなくてもいい、ほかにしたいことはないのか。だけどあの子はいつもなにも言わずキャンバスに向かってしまう」

 そのうち、言うのも憚られてね、とおじいさんは乾いた笑いをこぼす。

「いずれ、もしやめる日がきたとしたら、そのときは受けとめてあげよう。それまではこの子に任せよう。決着をつけさせてやろう、と思いました」


 決着。その単語が頭にのこった。

 そうか、ナギ・ユズリハは自分で選んだのかもしれない。最初は強制的に描かされていたとしても、いずれかの段階でそれを選択した。

 かなしいのは、それが本当に本人の意思なのか、それとも造られた遺伝子によるものなのかはわからいこと。話を聞く限りきっと彼は「絵を描く才能」を特化して生まれてきたのだろう。

 もっとも、遺伝子的なものと本人の意思のつながりなんてわたしにはわからない。だって、わたしは一体どうしてジーンリッチとして生まれてきたのか知らないから。わたしの意思のなにが遺伝子の影響を受けているかなんて、想像すらできない。

 でも、いずれ決着がつくときがくるのだろうか。もし決着がついたらそのときはどうなってしまうのだろうか。


「そんな子が、自分から夏休みはアルバイトをしにいく、と言い出したのだから驚きました。ほんとうに、ありがとう」

 あいまいで気持ちのよくない感情を抱えて俯きそうになると、おじいさんは目を細めてわたしの手を握る。黒い痣が、その手に半分隠れる。しわの深い手は、やわらかくてあたたかかった。

 ふと、その手首にある傷跡を見つけてしまう。

「おじいさんは」その手に包まれたまま、わたしの唇が動く。


「ナギさんが、自分になにを感じているのか、不安になったことがありますか」

 だけど気持ちはうまくフレーズになってくれず、まるで雰囲気だけをくるんだみたいになってしまった。

 おじいさんは瞬きを数回してから、笑った。

「わたしはジーンリッチでなく、普通の人間ですから、いつだって不安ですよ」

 それはたとえば、自分はどうせ普通だという卑下の気持ちとか、自分とは違うんだろうというジーンリッチへの僻みとかの混じりのない、純粋なことばに聞こえた。


 兄を思い浮かべる。兄はジーンリッチで、優秀で非の打ちどころがなくって、完璧な人間だ。おじいさんともまた違う。

 だけどおじいさんは、ナギ・ユズリハにとってずっと目の前に立ちはだかる人物なのだろう。本人の意思とは関係なしに。そこは、わたしと一緒かもしれない。

 そうだ、わたしはずっと気づいている。ヒノエにだってなんども言われてる。兄にはわたしへの憐れみも蔑みもなにもないのだ。わたしが勝手に、コンプレックスを感じているだけ。

 兄に、同じ質問をしたらどう答えるのだろう。想像して、泣きそうになって、やめた。


 おじいさんはそのまま帰ると言って、わたしに頭を下げて行ってしまった。会わないんですか? の問いにはやさしい声で「もともと様子を見にきただけでしたから。それにきっと今は会わないほうがいいでしょう」と答えてくれた。その表情にもくもりはなかったので、わたしはおじいさんを見送ることにした。

 きっと、このひとはナギがどうして手首を切ったか知っている。だから病院にも来なかったのだろう。そう漠然と思った。

 ちらりと見えた、手首の傷が、目に焼きついている。


 わたしはそのあと、散歩を再開して、すこし遠出した。なにをしにいくわけでも、見たいわけでもない。ただ誰にも会いたくなかった。家にはいたくなかった。

 知ってしまった、半端な気持ちにもやもやしながら、土のうえを歩く。


 こんなに空は青いのに、高いのに。雲は真っ白で、山は緑で、色とりどりの花が咲き、きれいな羽根をした鳥が飛んでゆくのに。

 ぬるい風にのって、耕したばかりの畑のにおいがやってくる。どこかであたらしい種を播くのかもしれない。

 夏休みが終われば、再開される生活がある。そこにたのしいものはなくとも、わたしの日常が戻ってくるというのに。

 わたしはいま、ゆらゆらとした不安定なものの上にいる。もしくは曖昧な境界のひかれたその真上。どちらに転ぶか、まだ決められなくて必死にバランスを取っている。


 ふるい小説にあった、こんなことば。

 所詮、この世界なんてすべてが造りもの。私の周りにあるのは全てが嘘つきで、私の目にするものはすべて偽もの。私にとって、ほんとうのものなんて、私しかない。

 それは造られた人間が、この場合はアンドロイドだったけれど、最後のほうで気づく世界の真理。

 だけどそれは彼の世界の話であって、この世界のものではない。彼は人間だと思いこんで生きていたのに、実は自分が機械だと知ってしまう。故にすべてのものが信じられなくなって、苦悩がはじまる。


 そしてそこでひとつ考える。私にも私以外の確かなものが欲しい。

 そうして機械の彼は、恋をすることを覚えるのだ。


 恋すること。

 恋愛は馬鹿がするものらしい。その作品が書かれた当時は、どう言われていたか知らないけれど。いったいいつからこんなことを言うようになったのかも、わからないけれど。


 わたしは、そうナギ・ユズリハに恋をした。彼が描いた絵に添えられたその名前に。

 なまえに?


 立ち止まって空を仰ぐ。青い空に白い雲のコントラストがうつくしい。もくもくと湧きたつ入道雲は、山のむこうにある。

 けして太陽には届かない入道雲。

 深呼吸、ひとつ。なぜか道の先に、彼がいる気がした。この一本道は、山のふもとに行きつくだけなのに。


 思い出すのは、あの瞳。病室で見せてくれた笑い声。そしてミントの香りと、テレピン油の匂い。

 ああ、案外わたしは、彼のことを記憶しているのかもしれない。


 そうだ、わたしは伝えよう。わたしのことを。

 悔しいぐらいにちっぽけで、みっともないぐらいに情けない自分を。

 だってわたしひとりだけが知ってしまっては、なんだか気持ちが悪い。

 そうしてひとつ提案しよう。


 恋をすることも、悪くないということを。

 

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