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第二話 この砦は、倉庫から死んでいる

グレイン砦へ向かう馬車は、よく揺れた。


 道が悪い。


 それが最初の感想だった。


 王都を出て二日目までは、まだよかった。


 石畳の街道が続き、途中の宿場町にも商人の馬車が並んでいた。積み荷の種類も多く、麦袋、干し肉、布、酒樽、鍛冶道具、薬草束などが雑然と行き交っていた。


 問題は三日目からだった。


 街道は細くなり、石畳は途切れ、雨水で削れた轍が道の中央を走っていた。


 馬車の車輪が何度も跳ねる。


 荷台に積まれた木箱が、がたがたと音を立てる。


 セイ・タナカ――田中誠一は、荷台の隅に腰を下ろしながら、自然と積み荷の状態を目で追っていた。


 固定が甘い。


 重い箱が上にある。


 壊れやすそうな薬草箱の上に、鉄具の入った箱が乗っている。


 雨除けの布も薄い。


 このまま山道を進めば、少なくとも二箱は中身が傷む。


「……ひどい積み方だな」


 思わず呟くと、御者台にいた兵士が振り返った。


「あん? 何か言ったか、数え役」


 数え役。


 王都補給局で笑われた呼び名は、どうやらもう荷馬車の兵士にも伝わっているらしい。


「荷物の積み方が悪いと言いました」


「はっ。外れスキル持ちが偉そうに。積めりゃいいんだよ、荷物なんざ」


「積めても、届く前に壊れたら意味がありません」


「壊れたら壊れたで、また運べばいい」


 兵士は笑った。


 セイはそれ以上、言い返さなかった。


 また運べばいい。


 その考え方が一番高くつく。


 だが、ここで口論しても意味はない。


 この馬車の管理責任者は自分ではない。


 自分の仕事場は、この先にある。


 北東の最果て。


 グレイン砦。


 補給もまともに届かない、捨て砦。


 王都でそう言われていた場所だ。


 日が傾く頃、山道の先に石造りの砦が見えた。


 灰色の城壁。


 ところどころ崩れた外壁。


 補修跡の目立つ見張り台。


 門の前には、痩せた馬が二頭つながれている。


 風が冷たい。


 王都よりも空気が乾いていて、土と獣の匂いがした。


「あれがグレイン砦だ」


 御者の兵士が顎で示した。


「北の魔物除けだの、国境の盾だの、王都の連中は立派なことを言うがな。実際は、面倒な奴を放り込む場所だ」


「なるほど」


「お前には似合いだろ、数え役」


 セイは門を見上げた。


 似合いかどうかは知らない。


 ただ、荷馬車が門前で止まった時、彼にはすでにいくつかの問題が見えていた。


 門の脇に、空の木箱が積まれている。


 雨ざらしだ。


 車輪置き場には、割れた車輪と使える車輪が混ざっている。


 干し草の束は壁際に寄せられているが、下が湿っている。


 入口近くの荷下ろし場は狭く、馬車が二台並ぶと詰まる。


 砦の中に入る前から、よくない。


 こういう場所は、中に入るともっと悪い。


「おい、新入りか」


 門の内側から、年配の兵士が出てきた。


 片目に古傷があり、無精髭を生やしている。


 腰の剣は古いが、手入れはされていた。


 目だけは妙に鋭い。


「王都補給局から来ました。セイ・タナカです。グレイン砦の倉庫係として配属されました」


「倉庫係?」


 年配の兵士は、セイを上から下まで眺めた。


「お前みたいな若造が?」


「そういう命令です」


「ふん。俺はバルクだ。この砦の司令をやってる」


 グスタフ・バルク。


 セイは心の中で名前を刻んだ。


 司令官が直接門まで来るということは、人手が足りないか、王都からの荷に期待していたか、その両方だろう。


「荷は?」


「王都からの補給物資です」


 御者の兵士が気の抜けた声で答える。


 バルクは荷台を一目見て、眉間に皺を寄せた。


「少ないな」


「王都の判断です」


「毎回それだ」


 バルクは吐き捨てた。


「まあいい。倉庫へ運べ。おい、誰か手を貸せ!」


 中庭にいた兵士たちが、だるそうに近づいてくる。


 顔色が悪い。


 鎧はところどころ錆び、靴は泥で固まっている。


 頬がこけている者もいた。


 セイは自然と視線を走らせた。


 兵士の人数。


 荷馬車の台数。


 薪置き場。


 水桶。


 食堂らしき建物。


 倉庫の位置。


 人の流れ。


 すべてが滞っている。


 動線が悪い。


 物の置き場が決まっていない。


 何より、兵士の動きが重い。


 疲労というより、慢性的な栄養不足に近い。


「倉庫はどちらですか」


 セイが聞くと、バルクが顎で奥を示した。


「あの石造りの建物だ。見りゃわかる。ろくでもないぞ」


「見ます」


「先に飯にするか?」


「いえ。倉庫を見ます」


 バルクは片眉を上げた。


「変わった奴だな」


「仕事場ですから」


 セイはそう答えて、倉庫へ向かった。


 扉を開けた瞬間、酸っぱい臭いが鼻を突いた。


 王都補給局の倉庫でも似た臭いはした。


 だが、ここはさらに悪い。


 湿気。


 腐敗。


 カビ。


 虫。


 古い革。


 煤。


 倉庫というより、物を詰め込んだだけの石室だった。


 セイは立ち止まり、目を細めた。


 半透明の文字が視界に浮かぶ。


 小麦袋:三十四。


 うち劣化:十一。


 干し肉:九。


 うち虫害:三。


 塩:二袋。


 薪:二日分。


 矢束:十二。


 帳簿記載との差異:五束不足。


 薬草:五束。


 効力低下:四束。


 飼葉:一・五日分。


 腐りかけの小麦袋が赤く縁取られる。


 虫に食われた干し肉の箱が暗い斑点を帯びる。


 矢束の棚には青白い空白がある。


 奥へ向かう光の線は、あちこちで途切れていた。


「……これは」


 セイは思わず息を吐いた。


「思ったより悪いな」


「言ったろうが。ろくでもないって」


 後ろからバルクの声がした。


 司令官は扉のそばに立ち、腕を組んでいた。


「王都からまともな荷は来ねえ。来ても途中で減る。こっちの倉庫番は帳簿をつけるだけで精いっぱいだ。前任の補給官は、先月から腹を壊したとか言って、半分寝込んでる。まあ、酒を飲む元気はあるようだがな」


「帳簿を見ても?」


「読めるならな」


 バルクは壁際の木板を指した。


 そこには木炭で雑に数字が書かれていた。


 小麦四十五。


 干し肉十五。


 塩三。


 矢十七。


 薬草九。


 薪七日。


 セイは板と倉庫を見比べた。


 合っていない。


 かなり合っていない。


「帳簿上の薪は七日分ですが、実在庫は二日分です」


「あ?」


「小麦は四十五袋とありますが、使えるのは二十三袋ほどです。劣化が十一袋。うち数袋は、食用に回さない方がいい」


「見ただけでわかるのか」


「見えます」


 バルクは目を細めた。


「王都で聞いたぞ。外れスキルだそうだな」


「そう言われました」


「で、その外れスキルで、これはどれくらいまずい」


 セイは倉庫の中をもう一度見た。


 小麦。


 干し肉。


 塩。


 薪。


 矢。


 薬草。


 飼葉。


 兵士の人数は、ざっと八十前後。


 馬が五頭。


 厨房の煙は薄かった。


 つまり、食事量も削られている。


「この砦は、敵に攻められる前に倉庫で負けています」


 倉庫の中が、少し静かになった。


 荷下ろしに来ていた兵士たちが、顔を上げる。


 バルクはしばらくセイを見ていた。


 やがて、喉の奥で低く笑った。


「いい度胸だ。着いた初日に、砦が負けてると言いやがった」


「事実です」


「原因は?」


「保管状態、帳簿差異、消費予測の欠如、動線の悪さ、優先順位の不在。あと、腐敗品が混ざっています」


「一気に言うな。わからん」


「簡単に言うと、何がどれだけあって、何日持つか、誰もわかっていません」


 バルクの顔から笑みが消えた。


 その言葉だけは通じたらしい。


「……それは、まずいのか」


「はい」


「どれくらい」


「このままなら、三日以内に食中毒が出ます。五日以内に飼葉が尽きます。次の魔物討伐があれば、矢も不足します」


 倉庫内の兵士たちがざわついた。


「食中毒?」


「また腹を壊すのかよ」


「昨日の粥も酸っぱかったぞ」


 バルクが兵士たちを睨む。


「黙れ」


 兵士たちは口を閉じた。


 だが、不安は消えていない。


 セイは小麦袋の前にしゃがみ、袋の口を開いた。


 中身を少量取り、指で潰す。


 湿っている。


 色も悪い。


 鼻を近づけると、酸っぱい臭いがした。


「これは使わない方がいい」


 セイが言うと、倉庫の奥から不機嫌な声が飛んだ。


「何を勝手に決めてやがる」


 振り返ると、腹の出た中年男が立っていた。


 くすんだ軍服。


 脂ぎった髪。


 手には木製の杯。


 顔は赤い。


 酒の臭いがした。


 腹を壊して寝込んでいると聞いたが、少なくとも酒を飲む元気はあるらしい。


「お前が王都から来た数え役か」


「セイ・タナカです」


「俺はダラス。この砦の補給を任されている。倉庫の中身に口を出すなら、まず俺に挨拶するのが筋だろう」


 前任補給官。


 いや、正確には、まだこの砦の補給官なのだろう。


 セイは立ち上がり、軽く頭を下げた。


「失礼しました。ですが、この小麦は食用に回さない方がいいです」


「食える」


「腹を壊します」


「兵士は腹が丈夫だ」


「食中毒に丈夫も弱いもありません」


 ダラスは鼻で笑った。


「王都の数え役は、ずいぶん贅沢だな。ここはグレイン砦だ。食えるものは食う。捨てる余裕なんざない」


「捨てるとは言っていません。食用から外すと言っています」


「同じだろうが」


「違います。状態の悪い小麦は、家畜用や発酵飼料に回せる可能性があります。完全に腐敗したものは廃棄。残りは先入れ先出しで、劣化の軽いものから消費します」


 ダラスは眉をひそめた。


「何を言ってるのかわからん」


「食べて腹を壊すよりは安く済む、という話です」


 倉庫の兵士の一人が、小さく笑った。


 ダラスが睨むと、すぐに黙る。


「偉そうに。着いたばかりの若造が、この砦の何を知っている」


「倉庫は見ました」


「見ただけで何がわかる」


「少なくとも、帳簿と実在庫が合っていないことはわかります」


 ダラスの顔がわずかに固まった。


 バルクの目が細くなる。


「ほう」


 セイは木板の帳簿を指した。


「矢束は帳簿上十七。実在庫は十二。五束不足しています。塩は三袋とありますが、実在庫は二袋。薪は七日分とありますが、実際は二日分。薬草は九束の記載ですが、使えるものは一束程度です」


 セイの視界では、帳簿の数字と実在庫の数字が重なっていた。


 合わない数字だけが、赤く滲む。


 矢束、五。


 塩、一。


 薪、五日分。


 足りないものには、必ず理由がある。


 物は勝手に消えない。


 消えたなら、消えた先がある。


「数え間違いだろ」


 ダラスが言った。


「数え直しますか」


「必要ない」


「必要あります」


 セイは静かに言った。


「今わからない不足は、必要になった時にはもう手遅れです」


 ダラスが顔を赤くした。


「おい、数え役。誰に向かって――」


「やめろ、ダラス」


 バルクが低く言った。


 その一声で、倉庫の空気が変わった。


 ダラスは口を閉じたが、目だけは怒っている。


 バルクはセイを見た。


「今すぐできることは何だ」


「まず、食用に回せる小麦と回せない小麦を分けます。次に、今日の夕食を変更します」


「夕食?」


「はい。今のまま劣化小麦を使えば、明日には腹を壊す兵が増えます」


「今日の飯は粥だ」


 兵士の一人がぼそりと言った。


「毎日だ」


「酸っぱい粥な」


 別の兵士が呟く。


 誰も笑わなかった。


 セイは倉庫内の在庫を見た。


 小麦、使えるもの二十三袋。


 干し肉、使えるもの六箱。


 塩、二袋。


 乾燥豆らしき袋が三つ、奥にある。


 帳簿には記載なし。


 野菜は少ない。


 乾燥した根菜が一箱。


 薪は少ないが、調理一回分なら足りる。


「粥ではなく、豆と根菜を入れた薄いスープにしましょう。小麦は状態の良いものを少量だけ使う。干し肉も虫害のない部分を選別して刻む。塩は控えめに。腐敗臭のあるものは入れない」


 兵士たちが顔を見合わせる。


「スープ?」


「肉が入るのか?」


「干し肉ってまだ使えるのか?」


 ダラスが舌打ちした。


「面倒なことを。粥でいいだろうが」


「粥で腹を壊しているなら、よくありません」


「お前は料理番か」


「いいえ。倉庫係です」


 セイは答えた。


「だから、使っていいものと、使ってはいけないものを分けます」


 バルクが口元を歪めた。


「よし。やれ」


「司令!」


 ダラスが声を上げる。


「こんな数え役の言うことを聞くのですか!」


「腹を壊してる兵がいるのは事実だ。飯を変えて悪くなるなら、その時はお前が責任を取れ」


「それは……」


「黙って見てろ」


 バルクの声に、ダラスは黙った。


 セイはすぐに動いた。


「まず、この小麦袋を入口側へ。赤い紐か何かありますか」


「赤い紐?」


「食用不可の目印です。なければ布切れで」


 近くの兵士が慌てて布を探しに走る。


「そこの干し肉箱は開けてください。虫害のあるものとないものを分けます。直接床に置かないで。板を敷いてください」


「お、おう」


「薬草は触らないでください。後で確認します。薪は今日使う分だけ厨房へ。全部出さない。湿ります」


 指示を出しながら、セイは倉庫内を歩いた。


 兵士たちは最初こそ戸惑っていたが、作業が具体的になると動き始めた。


 何をすればいいかわかると、人は動ける。


 問題は、何をすればいいかわからない状態で「気合いを出せ」と言われることだ。


 それでは現場が死ぬ。


 セイは干し肉の箱を確認し、使える部分を選別した。


 虫害のある部分は除く。


 臭いの強いものは外す。


 根菜は傷みの少ないものを選ぶ。


 乾燥豆は水戻しが足りないが、細かく砕けば多少は使える。


 完璧ではない。


 だが、今夜腹を壊す粥を出すよりはましだ。


 厨房へ向かうと、そこには疲れた顔の料理番がいた。


 痩せた中年女で、腕まくりをして大鍋をかき回している。


「誰だい、あんた」


「新しい倉庫係のセイです。今日の夕食を変えます」


「は?」


 料理番は露骨に嫌そうな顔をした。


「勝手なこと言わないでおくれ。こっちは毎日、あるもので作ってるんだ。文句があるなら王都に言いな」


「文句ではありません。食材の状態が悪いので、使うものを変えます」


「状態が悪い? そんなの見ればわかるよ。でも他にないんだよ」


「使えるものを選びました」


 セイは兵士に運ばせた干し肉、根菜、豆、小麦を見せた。


 料理番は目を細める。


「……干し肉、まだ使えるところがあったのかい」


「虫害のない部分だけです。小さく刻んでください。根菜は傷んだ部分を厚めに落とす。豆は砕いて煮る。小麦は少量だけ。とろみ付けに使います」


「ずいぶん細かいね」


「腹を壊すよりはいいです」


 料理番はしばらくセイを見ていた。


 やがて、ふっと鼻を鳴らした。


「いいよ。やってみな。どうせいつもの酸っぱい粥よりはましだろ」


「ありがとうございます」


「礼はいい。手を動かしな」


 セイは頷いた。


 厨房の兵士たちにも手順を伝える。


 水は一度沸かす。


 鍋の底の焦げを落とす。


 傷んだ食材は混ぜない。


 塩は最後に調整する。


 根菜は薄く切る。


 干し肉は細かく刻む。


 火を強くしすぎない。


 当たり前のことばかりだった。


 だが、その当たり前が抜けている場所では、当たり前を戻すだけで改善する。


 しばらくすると、厨房に湯気が立ち始めた。


 酸っぱい粥の臭いではない。


 薄いが、肉と根菜の匂いがする。


 兵士たちが食堂に集まってきた。


「今日は何だ?」


「粥じゃないのか」


「肉の匂いがするぞ」


 木の器に、薄いスープが注がれる。


 具は多くない。


 豪華でもない。


 味も薄い。


 だが、温かい。


 腐っていない。


 腹を壊す臭いもしない。


 兵士の一人が、恐る恐る口をつけた。


「……熱い」


「そりゃ熱いだろ」


「いや、ちゃんと熱い」


 別の兵士が、器を両手で包み込む。


「久しぶりだな。こういうの」


「酸っぱくない」


「腹、痛くならなさそうだ」


 その言葉に、何人かが笑った。


 小さな笑いだった。


 だが、砦に来てから初めて聞く種類の笑いだった。


 セイは食堂の隅から、それを見ていた。


 温かいスープ。


 たったそれだけ。


 だが、冷えた身体には届く。


 疲れた兵士には届く。


 腹を壊さずに眠れるなら、明日の足取りも少し変わる。


 補給とは、そういうものだ。


 剣を強くすることではない。


 魔法を派手にすることでもない。


 人間が、明日も立って動ける状態を保つことだ。


 バルクが、いつの間にか隣に立っていた。


 木の器を片手に持っている。


「薄いな」


「物資が足りません」


「だが、食える」


「それが第一段階です」


 バルクはスープをすすり、黙ってしばらく兵士たちを見ていた。


「お前、明日から倉庫を見ろ」


「今日から見るつもりです」


「好きにしろ。必要な人手は出す」


「ありがとうございます」


「ただし、ダラスとは揉めるぞ」


「すでに揉めています」


 バルクは喉の奥で笑った。


「だろうな」


 その時、食堂の入口で誰かが立ち止まった。


 若い女性騎士だった。


 銀色の短い髪。


 鋭い目。


 細身だが、立ち姿に隙がない。


 肩には小隊長らしき徽章がある。


 彼女は食堂の様子を見て、眉をひそめた。


「司令。これは何の騒ぎですか」


「飯だ」


「それは見ればわかります。なぜ兵たちが浮ついているのです」


「温かいスープが出たからだ」


 女性騎士は、セイを見た。


「あなたが、王都から来た新しい倉庫係ですか」


「セイ・タナカです」


「リリア・フォルン。第三小隊長です」


 彼女は名乗り、それから冷えた声で言った。


「倉庫係が食堂で何をしているのです」


「食材の選別と献立の変更です」


「兵に必要なのは、飯より鍛錬です。弱音を許せば、次に森で死ぬのはその兵です」


 セイはリリアを見た。


 まっすぐな目だった。


 悪意はない。


 本気でそう思っている目だ。


 兵士を強くしたい。


 砦を守りたい。


 だから鍛錬を重視する。


 その考え自体は、間違いではない。


 ただ、足りない。


「飯を食べない兵は、鍛錬できません」


 セイは静かに言った。


 リリアの眉が動いた。


「理屈はわかります。ですが、ここは前線です。甘やかせば兵は弱くなる」


「腐った小麦を食べさせることは、甘やかさないことではありません。ただの管理不備です」


 食堂が静かになった。


 兵士たちが器を持ったまま、二人を見ている。


 リリアの目が少し鋭くなった。


「……あなたは、着任初日でこの砦のやり方を批判するのですか」


「はい」


 セイは答えた。


「必要なら」


 リリアはしばらく黙っていた。


 怒るかと思った。


 だが、彼女はセイではなく、兵士たちの器を見た。


 湯気。


 薄いスープ。


 少し緩んだ兵士たちの表情。


 それを見て、彼女は何かを飲み込むように息を吸った。


「……明朝、第三小隊は巡回に出ます」


「必要物資は?」


「通常装備で足ります」


「人数、距離、予定時間を教えてください」


「なぜ倉庫係にそこまで」


「矢と薬と携行食が足りるか確認します」


 リリアは一瞬、何か言いかけた。


 だが、バルクが口を挟んだ。


「答えてやれ、リリア」


「司令」


「こいつの言うことは、少なくとも今日の飯には役立った」


 リリアは不満そうに口を結んだ。


 だが、命令には逆らわなかった。


「第三小隊、十二名。巡回距離は北東の森まで。往復で半日。魔物と遭遇すれば延びます」


 セイの視界に、必要物資の概算が浮かぶ。


 携行食。


 水。


 矢。


 包帯。


 薬草。


 予備の弓弦。


 そして、靴。


 リリアの隊の何人かの靴底が、食堂の入口で湿った音を立てていた。


「予備の靴下はありますか」


「靴下?」


 リリアが怪訝な顔をする。


「足が濡れたまま森に入ると、動きが落ちます。半日ならなおさらです」


「兵はその程度で弱音を吐きません」


「弱音を吐かなくても、足は傷みます」


 リリアは黙った。


 バルクが笑いをこらえるような顔をしている。


 セイは続けた。


「倉庫を確認します。使える布があれば、簡易の替えを用意します」


「……好きにしてください」


 リリアはそう言って、踵を返した。


 好意的ではない。


 だが、完全な拒絶でもない。


 セイはそれで十分だった。


 最初から全員に理解される必要はない。


 必要なものを用意する。


 結果が出れば、現場は変わる。


 食堂の兵士たちは、まだスープを飲んでいた。


「なあ」


 一人の若い兵士が、器を見つめたまま言った。


「今日の飯、腹が痛くならねえといいな」


 別の兵士が笑う。


「それだけで十分だろ」


「確かにな」


 その言葉は、小さかった。


 だが、セイにははっきり届いた。


 腹が痛くならない。


 温かいものを食べられる。


 明日も立って歩ける。


 それだけで、人は少しだけ強くなれる。


 セイは空になりかけた鍋を見てから、倉庫の方へ視線を戻した。


 腐った小麦。


 足りない矢。


 湿った薪。


 期限切れの薬草。


 不足する飼葉。


 問題は山ほどある。


 けれど、仕事も山ほどある。


「悪くないな」


 誰にも聞こえない声で呟き、セイは次の棚を確認するため、倉庫へ向かった。

後書き


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


第二話は、セイがグレイン砦で最初の仕事をする回でした。

大きな戦果でも、派手な魔法でもありません。

腐った小麦を分けて、使える食材を選び、兵士たちに温かいスープを出すだけの話です。


でも、この作品ではそういう小さな改善を大事にしていきたいと思っています。

腹を壊さずに眠れる。

明日も立って歩ける。

それだけで、人は少しだけ強くなれる。


次回は、リリア率いる第三小隊の巡回準備と実地での補給の話です。

「弱音を吐かなくても、足は傷む」――そんな回になる予定です。


次回、

第三話 弱音を吐かなくても、足は傷む

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