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緑園都市

「今の、沼津ナンバー」

右折する間際に、前に停まっていた車を指して彼はそう言った。「沼津だから静岡だね」父親が答える。


「静岡のどの辺?」


「手前のほうだよ。港で有名なんだ」


「この前行ったところ?」


「あれは桐生だ。県が違う」


「群馬県」

と彼の右隣に座る次男がぼそっと呟いた。


「そうだ。あれは群馬のどの辺だったかなあ」


「大川美術館!」


「よく覚えているなあ」


父親から感心の声がもれる。大通りを走る車は、戸建の密集する細い路地へ入り、そこから緩い坂道を上っていった。シルバーカーを押す老婆が窓の外に見えた。


「小さい頃よく行ったんだよ、草津とか伊香保とか。みんな温泉が好きだからね」


母親は助手席でデジカメを覗いている。まだ外が明るい時は、観光雑誌を読んだり、手帳に日記をつけたりして過ごしていたが、すっかり陽の暮れた車内は暗く、母親はもう何度めだろう彼ら兄弟の写真を見るともなしに眺めては、時おり車窓を流れる夜の街に目を向けていた。


「今日だって蜜柑のお湯に入れたじゃないか」


「みかん!」


「あれはなかなか入れないぞぉ。柚じゃないんだから」


つい先ほど彼らの行ってきた浴場は、都市から少し離れた場所にあるスーパー銭湯で、そこはワイン湯やリンゴ湯などの様々なお湯が楽しめ、それは月末のイベント日でないと入れないから、彼らはそれを珍しがって、いつまでもそこに浸かっていた。高学年になった長男は、もうそれほど興味を示さなかったが、小学校に上がったばかりの彼や、一つ歳が上の次男などは、まだそのお湯が楽しいのか、何度もプカプカと浮かぶミカンを船に見立てて遊んだり、左へ右へ転がしたり、時には手に取って鼻先に近づけ、酸っぱい香りを存分に味わったりしてはしゃいでいた。温泉に行く日は、毎週決まって日曜の夜と決まっていたから、彼と次男は昼食が済むと、勉強の時間にもかかわらず、祖母が病院から帰ってこないかうずうずしていた。そして五時ごろになってようやく祖母が帰ってき、母親がタオルや化粧水の入ったカバンをいじくりだすと、それがなんのためかわかっているのに「ねえねえどこへ行くの」と聞かずにはいられなかった。


「おんせん」


「どこの?」


「横浜の」


「前に行ったことある?」


「あったっけ……いろんなお湯があるところ」

母親は鏡台に向かって化粧をしはじめる。彼はパウダーやコンシーラーにまとう乳臭い香りがあまり好きではなかった。


「黒いお湯のところ?」


「それは先週いったところ」


「じゃあ屋台がいっぱいあったところ?」


「それは去年の夏にいったやつ、ってよく覚えてるね」

母は一瞬彼を見て笑ったが、すぐまた美容液のボトルを注視していた。


「行けばわかるよ」

彼は祖母の元へ駆け寄った。リビングにいた祖母は、椅子に腰かけて薬の整理をしていた。いつも祖母の椅子の下には、薬箱に収まらない処方箋が溢れて、彼は時々それを掃除してあげたりするのだった。

祖母は彼に気づくと「なあに」と身体を向けてにこやかにほほ笑んだ。


「またくすり?」

「そうだよ」ビニール袋に入った薬をハンドバックにしまい、彼の右手を掴んで立ち上がった。


「さあ、着替えの準備しましょ、パンツは持った?急がないと、お義父さんに怒られるから」



 車は住宅地をのろのろと走っていた。お湯に浸かった後、近くのレストランで夕食を済ませた彼らは、そのまま真っすぐ家に帰らずに、少し遠回りする道を選んでいた。次男が「ドライブして」と言って聞かなかったからだ。


 辺りはもう真っ暗で、道沿いに電灯の明かりがほの白く浮かんでいる他に見えるものはなかった。彼らの住む都市は、新築マンションの建ち並ぶベッドタウンだったから、一軒家の目立つ郊外の風景が、殊に珍しく見えるのかもしれなかった。彼は次第に濃くなる闇の中に目を凝らした。同じように見える建物でも、ひとつひとつに違った人が住んでいて、お風呂に入ったり、遅い夕食をしていたり、もうベッドに入ってウトウトしていたりするのだろうかと、そんなことをぼんやり考えていると、胸の中が不思議と温かくなるような気がした。昼間の喧騒から離れ、刻々と深まっていく夜の街並みが、彼の昂っていた気持ちを抑え、濃い空気の中に飲み込まれていくような、幻想的な空想を浮かび上がらせているのかもしれな肩。


その時、突然次男が、「クリスマス」と静まった車内に突き刺すように、無邪気な声を出した。


「来月だね」父がミラー越しに次男をのぞくのが見えた。


「サンタさん来るかなあ」


「そりゃあ聞いてみないとわからないよ」


「そりに乗って」


「うん」


「トナカイ連れて」


「うん」


「プレゼント持ってくるのかなあ」


「いい子のところにしか来ないわよ」

珍しく母親が口を挟んだ。未だに視線はデジカメから離れないので、手元だけ白い光を放っているように見えた。


「ボクはいつもいい子だよ」

次男は不貞腐れた豹所をつくって、すぐに窓の外を見ていた。



 彼は次男が、次のクリスマスに色鉛筆をお願いするだろうと、秘かに予想していた。それはスイミングクラブの帰り道、ふと次男がデパートの雑貨売り場に立ち寄って、ショーウィンドウを飽きずに眺めていたことがあり、それは黒い木箱に収められた英国製の、水に浸けると絵の具に変わる珍しい色鉛筆だった。その特殊な性能もさることながら、端然と並べられた一本一本は、一瞬それがお菓子かと見間違うほど、鮮やかな色を持って見るものを魅了していた。彼はショーウィンドを覗く次男に、わざと大きな声で「なにしてるの」と尋ねるまで、次男は彼に気づいていないようだった。そしてビクッと身体を震わせて、気まずそうに左右に目を動かすと、すぐエスカレータ―に乗って逃げてしまった。帰りのバスの中で、そのことを問いただすと「キレイだから見ていただけ」とむっつりしていたが、週明けに再びトイレに行くと言って、彼をバス停に残した時、またあの鉛筆を眺めにいくのだろうと確信した。次男は生まれつき運動神経が良く、スイミングの外にも、剣道にサッカーと、色々なスポーツを習っていて、休み時間や放課後も外で遊んでばかりいたから、絵に興味がないものとばかり思っていたが、こう何度もデパートに立ち寄って、小学生では到底手の届かないだろう高級色鉛筆を、憧れるように眺めているのは、一体どういうわけなのだろうと、彼は不思議でたまらなかった。けれど、そんな次男を、物陰からそっと盗み見るように覗いていると、何か心臓の端をぎゅっと掴まれたような悲しい気持ちが起こって、再び声をかけようとは思えないのだった。だから次男のせいで帰りのバスに乗り遅れ、門限を破ることになっても、彼はこのことを誰にも告げようとはしなかったし、そのことについて問いただすことも止めて、ただ帰りのバス停で、次男が頭の中で何を思い描いているのだろうか、あの鉛筆を使って、どんな絵を描くのだろうかと、そんなことばかり考えていた。


「クリスマスツリー!」

 再び次男が外を指差した。玄関に置かれた小規模のクリスマスツリーは、枝のあちこちに巻かれた光ケーブルが、吊るされた装飾を照らしてパチパチと一斉に点滅している。駅前に近づくにつれ、建ち並ぶ住宅は規模が大きくなり、クリスマスはまだ一か月も先にかかわらず、庭先や道にはみ出すようにして、華やかな装飾のされた植木が臨まれた。青や緑、白のネオンライトが屋根を包み、垂れ下がった屋根の庇にサンタクロースをかたどったライトが赤々と灯って、洋画のワンシーンのようだった。


「ちょっと降りてみようか」

父親は緩い坂の中腹に車を止めると、迷いもせずに坂道を上がっていった。助手席の母がそれに続き、次男、彼、祖母、そして一番後ろの席で眠そうにしていた長男も、渋い顔をして出てきた。

「あっちに、すごい家があったよ」

「大金持ちの家だ!」


 一帯は静かな住宅地で、斜面に沿って構えられた家々はどれも大きく、頂上にはより一層格式高い邸宅が、その外観を現していた。父親は歩きながら、昔から大物ミュージシャンや政治家が、この辺りに住んでいるのだと得意そうに話していたが、母親はもう何度もその話を聞かされているのか、退屈そうにデジカメを覗いては、どこか絵になるようポイントを探しているようだった。つまらなそうにしていた長男も、坂を駆けのぼっていく次男に触発されたのか、すぐに彼の前からいなくなった。彼は両親の少し後ろから、祖母に付き添うようにしてゆっくりゆっくり上がっていた。


「おばあちゃん遅いから、先に行っていいのよ」

と、いつも祖母は言うが、彼は「ううんいい」と首を横に振って、はしゃぎまわる長男と次男の背が、街灯にさらされるのを見ていた。小豆色のジャンパーを着た次男の、飛び回るように揺れるフードに光が当たって、奇怪な生き物がフワフワと闇に浮かんでいるように見える。その前で後ろに手を組み、ややガニ股で坂をのぼる長男は、デジカメを持つ母親にぴったり寄り添って、それだけでもう別の家族のように思えた。彼は祖母の手を握る。冷たく骨ばった甲は血管の周りに柔らかい皮膚が張り付いてゴムのようだ。


彼はそれを指先で引っ張りながら、おぼつかない足取りで足を進める祖母に

「トイレに行きたい」

祖母は立ち止まって彼を見下ろした。もともと青白い顔が、街灯のない住宅地ではより凄みを帯びていた。お化けみたいだ、と、いつか祖母に見せてもらった歌舞伎座のポスターに写る、女形の役者を彼は思いだしていた。白塗りをした人間の顔は、まだ幼い彼にしてみれば女に見えるはずもなく、人の温かみを失くした妖怪のように見えていた。



 坂の下に私鉄の駅があって、人のいない改札から青白い光が放たれていた。終電はまだ二時間も先なのに、ホームで待っているのは数人ほどで、空気の震えすら感じられないほど、辺りはシンとしていた。彼は駅前ロータリーに併設された公衆トイレに入って用を足した。そこは清潔で高級感漂う街の雰囲気とは違い、ひどく陰気で澱んだ空気を発していた。数十年前の再開発から一度も改装されていない古びたもので、個室も和式しか空いていなかった。彼は仕方なくそこにまたがって静かに息をはく。さっきまであれほどお腹が痛かったのに、いざ力んでみると綿菓子の残りのような、小さな欠片しか出てこなくて、煮え切らない気分のままレバーを押した。水の流れと同時に、上り電車がホームに舞い込む車体と風の音がした。


 外に出ると祖母の姿がなかった。入口で待っていると言っていたはずなのに、目の前に彼女はいない。どこかで歩いているのではないかと、トイレの後ろの植え込みや、ロータリーの先のバス停に目を向けるが、辺りは祖母どころか、人の気配すらなく、ひっそりとしている。彼は風の冷たさとは別の寒さに一瞬襲われた。おばあちゃんはどこへ行ったんだろう。ボクひとりを残して……彼は辺りをうかがいながら、もう一度駅前を一周した。そうしていると、かけっこが苦手なはずなのに、なぜだが自然と足が速まって、風に追われるように走り出していた。


 もしこれが、彼の家の近所や、人通りの多い街中のことだったら、すぐにでも周囲の人間に助けを求めるのだが、今日初めて訪れた、土地勘もない深夜の駅前は、人の流れを閉ざしたように無機質で、時おり道を這う風の音だけが響いて、心細さは冷えた身体をズキズキと痛ませた。母親や兄のいる坂に戻ろうかと思ったが、それだと祖母との約束を破ることになるし、さっきまでいた場所がどの辺りなのかも、もうわからなかった。仕方なく駅の周りをぐるぐると周っていた。


 歩き疲れると、彼は唯一光っていた赤い自販機にもたれて目をつむった。かじかむ両手をポケットに入れ身を縮ませると、背中の自販機から流れる電気の温みがしっかり伝わって、少しだけ寒さが和らいだような気がした。こうしていつまでもここに立っていれば、やがて誰かが自分に気づき、助けてくれるだろう。幸いにもここは駅前なのだから、人が来ることは確実で、次の電車に望みを託して、今は少しでもこの寒さをしのごうと、広がる熱に意識を集中しながら思った。


 けれど、辺りは一向に静かなままで、頭上からは到着アナウンスも、電車の訪れる風の気配もなく、痺れを切らした彼は目を開けてホームを見上げた。


 全ての電気が消えていた。蛍光灯だけでなく、案内板や駅名標の明かりも消えて、改札に繋がる駅舎にはシャッターが下げられ、駅員も乗客も姿を見せなかった。


 目の前に広がった夜は、すっぽりと彼を包んでいた。誰もいなくなってしまった。その時彼は、自分の味方が後ろの自販機だけで、それ以外の全ては、自分を脅かす敵のように感じられた。「おばあちゃん……」と自然とつぶやいていた。乾いた口から吐き出される言葉が、白い吐息に混じって空に吸い込まれていくと、彼の鼻から目尻にかけて、熱いものが込み上げてきた。


 おばあちゃんはどこへ行っちゃったんだろう。そしてなぜ、自分を探しに来ないのだろう。もしかしたらもう、みんなのところに戻ったのだろうか。彼の心に膨らむその問いは、やがて両親や兄弟にまで及んで、どうして自分をひとりぼっちにさせるのだろうかと、不安と孤独だけがいっそう強まって、このまま自分はひとりで生きていくしかないのだろうか。完全に別の子どもとして、他人の家に引き取られてしまうのかと、そんな考えにまで及んだ。風の強くなるロータリーに立ち尽くしていた。


 ぼんやりと意識が遠くなり、夢と現実の区別がつかないような視界の端に、突然黒い影が浮かんだ。ようやく誰か来たのだなと、彼は安心して目を開いた。

「そんなところに立ってたら、風邪、ひくわよ」

髪をお下げにした制服姿の少女が、覗き込むようにして彼を見下ろしていた。



 新興住宅地である駅前一帯は、ロータリーから続く緩い坂のあたりまでで、反対側は畑地の目立つ丘陵が、まだ鬱蒼と木々を繁らせて広がっていた。この辺りに交番はないから、ひとまず丘の上にある私の家に来るよう、少女は彼の腕をしっかりと握りながら、ところどころ石の欠けている階段をゆっくり上っていった。


「子どもをひとりにするなんて、ひどい親ね」


彼から経緯いきさつを聞き終えた少女は、壊れた石段を蹴飛ばすように足を上げていたが、彼を掴む腕はやさしく、みちびく様にして前へ進んでいた。


「そりゃあ赤ちゃんじゃないんだから、何も四六時中監視しろとは言わないけれど、それだって夜道に子どもひとりにするなんて、考えられない」


「親じゃないよ」


「え?」

少女は思わず振り返った。


「おばあちゃんだから、親じゃない」

「ふん」少女は鼻で笑うように顔を上げた。そして「いい?」と人差し指を彼の鼻の上に持っていった。


「あなたのおばあちゃんはいつも、あなたの面倒を見てくれているんでしょう?世間はそれを親というの。お父さんやお母さんじゃなくても、自分を愛してくれる人はみんな親なのよ」


「親?」


「そうよ」


「愛す?」


「そう、愛しているのよ」

少女を彼を見た。湖畔のように澄んだ瞳は大きく、眉に届きそうな睫毛がキレイに並んでいた。


「常に気にかけているってことよ」


少女は力強くそう言ってから、ハッとしたように顔を上げて、しばらく固まった。真剣な表情だった。彼が心配そうに背後から覗き込むと、梢からこぼれるように、数多の星が空に広がっていた。


「キレイでしょ」少女が放心した彼に囁く。


「目が悪くなっちゃったから、昔みたいに見れないけど、一等星の位置を見ればだいたいわかるの」


プロキオンを中心とするこいぬ座、シリウスのおおいぬ座、そして赤く輝いているベテルギウスを繋ぐと、冬の大三角になる。空に指をさしながら、少女はそう語っていた。明るく、はしゃぐように説明する少女は、先ほどの思いつめた表情と違い、自由で伸び伸びとしていた。彼はそんな少女の横で空を見上げたまま、自然と笑みをこぼしていた。


 階段を上り切った先はさらに道が狭まり、道の両側から背の高い雑草が首を垂らして伸びていた。山を崩して切り開いた道なのだろう、横をかすめる木々は空を隠し、歩いても歩いても代わり映えのしない夜道が、都会暮らしの彼にはどこか懐かしかった。


少女は彼の手を握ったまま真っ直ぐ歩き続け、道のりが険しくなっても、一向にペースを落とさなかった。少女は彼に家族の事を聞いた。祖母だけでなく、父や母、さらにはふたりの兄弟まで、少女は興味深く彼に尋ねていた。それは彼という人間を直接ではなく、家族を通して探ろうとしているような口ぶりで、彼が母親の話をしている時も、「その時、お兄さんは何をしていたの」とか「お父さんは次兄さんに甘いのね」と言って、時々表情を覗く仕草が、彼には少し可笑しかった。


緩い下り坂に差しかかっていた。広く伸びた常緑樹の梢から月明かりが差す。退屈を感じたからなのか、それとも不意にこぼれでたのか、隣で歩く少女がポツリと

「消えちゃえばいいのに」


彼は聞かなかった振りをしてそのまま歩き続けた。心なしか少女の手に力が入っているような気がした。


「わたしの親ってね、本当にひどいの。小さい時から怒ってばっかりで、習い事なんかも、全部自分で決めちゃって……わたしの好きなこと一度だってさせてくれたことがないの。それで褒めてくれるんならいいけど、そんな時なんて滅多になくて、ちょっと指を間違えたり、帰る時間が遅れたりしたら、もう鬼のような顔になってね、ご飯もろくに食べさせてくれない。あーあ、嫌んなっちゃう」


少女はスクールバッグの中から楽譜帳を取り出すと、細かい赤字がびっしりと埋められたページを彼に見せ、先生より母のコメントの方が多いと、少し笑った。そして挟まっていたノートの切れ端を、恥かしそうに彼に見せた。


罫線を無視するように、ボールペンで小さく描かれたそれは、中世ヨーロッパの王妃を思わせる、髪の長い目の大きな女のイラストだった。


「家にマンガがないから、いつも借りたやつを写してるの。自分で描いたりもしてるんだけど、前に見つかった時全部捨てられちゃったから、こうやって隠しているの」


三枚の紙に、女性のイラストが埋め尽くされていた。王族風のものから、セーラー服、日本髪に結ったもの。薄い下書きに、色鉛筆や絵の具が重なり、肌や目に色を宿した人物はどれも、書店に並ばれているマンガに決して劣らない、プロの絵描きのような出来栄えだった。彼は思わず「すごい」と口にしていた。


「ううん、全然。こんなの、ちょっと練習すれば誰でも描ける」


「そんなことない」と彼は口に端に出しかけて、やめた。街灯に当たっていない少女の顔がひどく暗く、見えなかった。


少女は楽譜帳をしまうと、再び彼の手を握って歩き出した。


「ほんとうはね、今のままじゃダメだって、わかってるの。ちゃんとした先生の下に弟子入りして、修業しないといけないって。それでもっともっと絵に費やす時間を増やして、色々な場所に行って。でもそうなったら、ピアノを辞めなきゃいけなくなるし、進学だってどうなるか……」


暖色の電灯が珍しく立っていた。少女はそこで突然足を止めると、バックからハンカチを取り出して、涙を拭いた。彼は林に視線を置いたまま、少女がすすり泣くのを聞いていた。なぜ少女は絵の道に進まないのだろうか。彼は母親にはむかわない少女を不思議に感じて、ただ静かに泣いている少女を見下ろしていた。電灯にさらされたその背は、妙に大人びて見えたが、声を抑えずに泣く様子は、まだ垢抜け切れていない、未熟な少女だった。けれどその華奢な身体の奥深く、誰にも侵入できない未知の部分に、固い信念みたいなものがぐっと根を張って、少女の周りを包んでいるようにも思えた。


少女は何も言わず見下ろしている彼に気がつくと、キッと鋭い眼を光らせて、

「あんたもツラいけど、わたしだってツラいのよ。ううん、わたしとあんただけじゃない、みんなよ。みんなみんなツラいの。でもそんなことおくびにも出さずに、みんな普通に生活しているのよ。みんな同じようにツラいのに、背伸びして、虚勢を張って、平気な顔をして働いている。可笑しいわよね。自分たちがどれだけ弱くて、ちっぽけな存在だって知っているのに、それを隠して生きなきゃいないんだから」


泣いていた少女の顔に、いつしか強気な笑みが浮かんでいた。それは全てを吐き出して勝ち誇っているうような、清々しい表情だった。彼は家族の事をふと考えていた。普段は無口なのに、家族が集まる時はいつも饒舌になる父、反対に家ではうるさいのに、外に出ると人が変わったように大人しくなる母、自分の思い通りにならないと、弟たちに手を出す長男、反対に学校では威張っているのに、家では長男の顔色ばかりうかがっている次男。みんなみんな、本当はツラいだけなのではないか、と思ったが、すぐにまだおばあちゃんがいることを思いだした。そうだ、まだおばあちゃんがいた。ボクのおばあちゃん。いつも優しくて、ひとりぼっちのボクを気にして、何も言わずに寄り添ってくれるおばあちゃんが……



 二年前、まだ彼が保育園の年長の頃、飼っていた犬が死んだ。ホワイトのゴールデンレトリバーだった。彼はそれを、家族では祖母の次に知った。次男と長男は、母親の弟の結婚式で、二日後に帰ることになっていたから、その時家にいたのは、留守番を頼まれた彼と祖母だけだった。


 保育園の帰り道に、祖母は唐突にそう言った。坂の真ん中あたりにある保育園から、彼は祖母と手を繋ぎながら帰っていた。背に当たる夕陽のぬくもりが、下になるにつれ薄くなった。物心つく前から家にいて、家族同然のように扱ってきた生き物が、もうこの世界にいないと思うと、それだけでどこか無慈悲でやりきれない気持ちが、彼の中にわだかまっていた。いつかまた会いたいと思っても、そうすることのできない残酷な死という終わりは、現実しか目を向けてこなかった彼には戸惑うばかりで、それでも胸に押し広がる悲しみは、彼と犬との想い出の全てだった。彼はわけもわからず泣いていた。祖母は彼から手を放さなかった。


 小さな商店の続く小路を、家路とは反対の方へしばらく進んでいき、買い物でもするようにある店の前で足をとめた。


そこは小さな焼き鳥屋だった。彼のまだ来たことのない、ショーケースが油で汚れているそこで、店主とふたことみこと言葉を交わしていた祖母は、隣でぼんやりしている彼を見下ろすと

「ねぎま、食べたことあるでしょう?この前美味しいっていってたやつ」


「うん」


炭火の煙が道まで押し寄せてきそうな狭い焼き場で、赤い炎がパチパチと弾けるのを、彼は神妙な面持ちで眺めていた。空を囲っていたピンク色の光が、もう夜の深い藍色に垂れこめて、通常でも人通りの少ない小路を、より一層哀しいものにさせていた。


甘いタレのかかったねぎまを、彼は噛みしめるように口の中に入れていった。熱い肉汁と、香ばしい隅の香りが、見上げた祖母の眼鏡を白く曇らせた。

「熱いからおいしいでしょ」


「うん」


「メイのぶんも買ったからね」

祖母は彼の食べなかったネギを、入れ歯になった前歯で器用に串から離していた。



 暗い木々の道を抜け、立派な垣根を露わにした一軒家の目立つ通りに出ると、少女の足取りは明らかに重くなった。それは山道を上ってきた疲れからくるものではなく、誰かに見られていないかと、慎重に辺りを見渡しているもので、少女は注意深く道を進んでいた。夜も深まった山の中では、さっきより星のきらめきが目立ち、近くで野鳥が飛び立つ音が、深い静寂を破っていた。


少女は立派な門を構えた屋敷の一画で足をとめると、しばらく深くうなだれて、やがて何かを決心したような面持ちで彼を見た。


「そこで待ってて。何か食べるもの、持ってきてあげるから」


 少女は彼を残して門の中へ入っていった。一瞬だけ扉が開いた際に、中を見ることができて、それは彼が今まで見たどの家よりも広く、造りの凝った、厳かな雰囲気のする庭と玄関だった。


少女が戻ってくる間。彼は少女から借りた黒のオーバーを首まで寄せて、ジッと寒さに耐えていた。おばあちゃんは今ごろ何をしているのだろうか。ボクがいないことがわかって、母さんや父さんに連絡して、あっちこっち探し回っているのだろうか。今ごろお巡りさんに頼んで、色々な人がボクを探しているのだろうか。いやでも、本当にはぐれたのはボクではなく、おばあちゃんが先にどこかへ行ってしまったのだから、この場合探されているのはおばあちゃんの方で、ボクがいないことは、まだ誰も知らないんじゃないか。母さんはおばあちゃんの携帯を知っているから、ボクとおばちゃんは一緒にいると思って、探しているのではないだろうか……彼はそこまで考えると頭を抱えてうずくまった。現状の自分が何なのか、よくわからなくなってきていた。そして今見知らぬ少女に頼り、家まで来てしまったことが、言いようもなく不思議なことに思えてきて、ただ空に輝く無数の星の広がりを一心に見上げていた。そうしていると、車の中で想った哀しいイメージや、深い闇の恐ろしい印象が、スッと胸の内から引いていくような、心休まるような気がした。いつもこの星たちが、頭上から自分の事を見守っていると思うと、もうそれだけで寂しくもなんともないような気がして、一人ぼっちも怖くないように思えた。


 十五分ほどしても少女は戻ってこなかった。彼はじっとしていられなくなり、垣根の周りを歩いてみることにした。しかし、なんと立派な家だろう。彼は首を伸ばして家をのぞいた。母屋と離れを囲うよう広がる庭は、小さな駐車場くらいあるだろう。その中に何本もの巨木が連なり、垣根の上から枝葉を道にこぼしていた。形よく刈り込まれた垣根は、定期的に剪定されているのだろう、丸みを帯びた外側は夜風が吹くたびに、ひとつの大きな生き物のように波をつくっていた。


 一周して戻っても少女はまだ現れなかった。いったい、どうしてしまったんだろう。こんなに待っても現れないなんて、もうボクの事を見捨ててしまったのだろうか。彼は急に不安になって、また周囲をぐるぐると周りだした。そうしていると門のちょうど裏、やや垣根が低くなって、離れに通じる庭木戸が目の前に見える場所から、母屋の明かりがガラス越しに、うっすら外を照らしているのがわかった。少女は部屋の中にいるのだ。彼は垣根の植わったレンガの上によじ登って、ぐっと首を伸ばして中を覗く。さっきより漏れた光が鮮明に見えるが、少女の姿は見えない。一分ほど待って、仕方なく降りようとした時

「何度言ったらわかるのよ」


耳をつんざくような叫びが部屋の中から聞こえた。彼は驚いて、垣根から落ちそうになったが、しっかりとレンガを掴みなおし、再び葉の間から目を細めるてみると、居間から張り出された木張りの板敷の上で、膝を曲げた少女が、睨むように声の発する人物を見上げているのが見えた。


「自分が何を言っているのか、本当にわかって言ってるの、ねえ、あなたはまだ高校生なの。子どもなのよ。それだのに親に楯突いて、約束も守らないで、ねえ、聞いてるの。そんな風に育てた覚えはないわ」


少女はひざまずくようにして無言を貫いていた。垂れた首筋から長い髪が光に揺れていた。


「今日だってこんな遅くに帰ってきて、また補導でもされたらどうするの?前に明宏が、『お前の姉さんは不良の恋人なんだろ』って、クラスメイトに言われたのよ、わたし顔から火が出るほど恥ずかしかったわ。ご近所さんは何も言ってこなかったけど、きっと陰で私たちのこと囁いているのよ、不良の家だって。ねえ、少しは私の身にもなってみてよ。貴方のために私がどれほど苦労しているのか、あなたわからないでしょう?時間だって、お金だって、無限にあるわけじゃないのよ?明宏の受験で忙しいのに、それでもあなたのためを思って、いつもこうして必死になって……」


「もうわかったから」


 少女の強く張った声の底に、諦めとも失望ともつかない悲哀の響きがあった。彼は母親と少女が居間の奥へ戻るのを待って、静かに垣根を下りた。少女は母親が部屋へ戻ってからも、しばらく板張りの上で固まって、静まった外の空気に身をさらしているようだったが、突如吹き降りた震えるほどの夜風に、後ろ髪が躍るように一瞬間舞うと、それを期にハッと現実に引き戻されたのか、重い腰を上げて居間へ戻っていった。


 彼は道を歩きながら、叱られていた少女のことを考えていた。少女の母親は、彼女の帰りが遅いと怒鳴っていたが、それは迷子になったボクを保護したからで、変な人間とつるんで悪事を働いているわけでは決してない。それどころか、見ず知らずのボクに優しく声をかけ、寒さから救ってくれた恩人なのだ。それをあの母親は不良少女だ、なんだと決めつけて……まったく、彼女が嫌になるのももっともだ。彼が少女に同情した。そしてこの煮え切らない気持ちを、どうのように解消したらいいのか考えて、いつのまにか垣根を一周して門の前に戻っていた。


 彼は立派な門柱の前で、しばらく黙って立っていた。どこかの茶室を思わせるような、落ち着いた印象の門扉は、襖のように左右対称で、垣根より少し高い位置についた電気照明が、彼の立つ場所を白く照らしていた。右側に表札と郵便受けがあり、その横に庭師用の立水栓、蛇口の下に水を張ったバケツが、ちょうど真上に来た月を水面に映していた。


 もし、少女の母親がボクのおばあちゃんだったらと、彼はバケツに映る月を眺めながら思った。ボクのおばあちゃんだったら、まず遅くなったことを心配して、優しく気づかってくれるだろう。そして遅れた理由を落ち着いた口調で尋ねながら、どこか怪我はしていないか、気分は悪くないかと、身体のあちこちを見て、温かい手でさすってくれるだろう。どうしたの、大丈夫だった?それは自分を思ってくれているからこそ、自然と出てくる言葉であり、優しさだった。彼は再び母親の怒気に満ちた溢れた声を浮かべながら、手を繋いでくれた少女の事を思った。十一月の深夜は、秋とは思えぬほど寒々としていて、チクチクと素肌を差す冷気が、服の上からでも感じられた。それなのにあの少女は、そんなことお構いなしに、彼の右手をギュッと自分の左手に包んで、いつまでもそれを放さなかった。まだ幼くて冷たい手のひらを、少女のやや厚みのある柔らかな肌が、優しく包み込んでくれたのだ。彼はその血の通った温かさの中で、少女が自分を気にかけてくれていることを、言葉にしなくても十分に理解することができた。少女の思いやりが、自分のためであることが、何よりも強く、彼の胸を打っていた。


彼は居住まいを正すと、すぐにインターホンを鳴らした。

「はい」

「道に迷っているんです。寒いです。助けてください」


彼はなるべく弱々しく、絞り出すようにそう言った。

すぐに玄関が開く音がして、スリッパを鳴らしながら門に近づいてくる人影がわかった。


「どうかなさいましたか」


出てきた少女の母親は、彼の母親より少しだけ若い、小柄な女性だった。髪を後ろに結び、夜中だと言うのにまだ化粧を施していて、薄く伸びた眉が穏やかな全体の印象をより強めていた。先ほど少女を怒鳴っていたとは思えない、柔和でおしとやかな女性の印象は、目の前に立つ彼を怯ませ、しどろもどろにさせた。声からは想像もつかない、上品で丁寧な動作に、彼は焦点を合わせることができなかった。


「あの……あの……」


「そこに立っていても寒いでしょう。どうぞ中へ入ってください」


彼が俯いたまま動揺を隠せないでいると、母親の後ろから先ほどの少女が、きまりの悪そうに俯いて、懐中電灯の光を向けて近づいてきた。赤い眼をした少女は、申し訳なさそうに、彼を見た。


その時彼は何を思ったのか、隣にあったバケツを両手でつかむと、母親に向かって思い切りぶちまけていた。


「きゃああ」


飛沫を上げた水が、母親の下半身にかかる。彼は一目散に来た道を走っていた。


「ちょっと」


少女の声が、一瞬頭の後ろに聞こえ、すぐに消えた。そして少女から借りたオーバーを脱ぎ捨てて、首と腕を剥き出しにしながら、夢中で道を駆けていった。さっきまでまったく吹いてこなかった木枯らしが、また再び山の上を揺すぶるように強まりだして、彼の肌を突き離した。彼は振り返らずに走った。いつまでも足を止めずに、ただ前に広がる闇の中に、怯むことも怖がることもせずに、吸い込まれるように進んでいった。


 月と星だけが彼の目には見えていた。もう誰も追ってこないとわかっているのに、なぜだか足はさっきよりも速まって、白い息は荒くなった。彼は母親に水をかけた一瞬を思い返す。少女は驚いた表情を見せた後、直ぐに母に駆け寄り、心配そうな表情で足にしがみついていた。彼はその姿が目に入った瞬間、わけもわからず走り出していた。足が勝手に動いていたのだ。母を見る少女の目に、彼には見せない別のものが浮かんでいた。それはしばらく離れていたものが、ピタリと元の位置に戻るような、ある種の懐かしさを思わせるものだった。その瞬間彼の中にあった少女の姿は、ガラス細工のように音を立てて崩れていった。彼は居てもたっても居られず、淋しさが重いかたまりとなって身体に圧し掛かるのを、何とか感じまいと、必死に足を動かしていたのだ。


どこまでも深い夜の道を走っていた。彼は次第に、どこへ向かっているかもわからなくなって、足を止めて周りを見渡したい気分になってきた。


気がつくと、周りのものが何ひとつ見えなくなっていた。月も星も、全てのものがすっぽりと闇に隠れ、自分の息さえも白く見えず、ただ胸の音だけが耳に響いていた。



「どう」


「ちょっと熱があるわね」

柔らかい手が、彼の額を撫でていた。


「車の中でも元気なさそうだったし、速く戻ろうか」

母と祖母の声が、彼の頭上に流れる。


「ねえ、あっちにスゴイのがあるよ」

次男の声だ、と彼は思ったが、声を出す力がなかった。「写真撮るから、ジッとしてて」母の声に続き、長男と父親が側に集まってくるのがわかる。彼は気だるそうに首だけ動かして、声の方に視線を注いだ。


ヨーロッパの古城を模したベージュ色の豪邸が、クリスマス仕様に彩られていた。誰の家だろう?柵を巡らした庭に、二頭のトナカイを引き連れて橇に乗るサンタクロースが飾られ、帽子を被った雪だるまや、本物のモミの木で造ったような巨大なクリスマスツリー、そして壮大な外観の、至る所に巻き付けられた白のイルミネーションライトは、建物全体に雪が被ったように、暗闇の中で神秘的な輝きを放っていた。


「この町じゃ一番だな」


彼はその景色を、祖母の背中の上でぼんやり眺めていた。父を真ん中に、長男と次男がそれぞれポーズをとって、その邸宅の前で写真を撮っている。無邪気な顔でほほ笑む二人の顔は、強烈なライトの明かりによって、ぼやけた視界でも温かな雰囲気がわかった。


「誰が住んでるんだろう」

車に戻る道中、長男が言った、


「たしか、有名な作家だったと思う。ほら、何年か前に話題になった」


「女のひとでしょ?フランスかどっかで展覧会開いたっていう」


「そうだ、そうだ。こういうのはお母さんのほうが詳しいんだ」


「わたしじゃなくて、おばあちゃんが好きなのよ」

母親はそう言って振り向くと、祖母に担がれている彼を少し眺めた。


「寝ちゃってる?」


「さっきは少し起きてたみたいよ」


「もっとお湯につかりなって、言うべきだったね」


「疲れたんでしょう」


「でも、温泉に入って風邪ひくなんて……」


彼は薄目を開けながら、祖母と母親の会話に耳を傾けていた。身体は温泉に入ったぐらいでは拭えぬほど芯から冷え切って、今にも凍りそうだったが、胸の辺りに小さく広がる陽気は、いつまでも彼を照らしていた。それは祖母の少し曲がった背から発せられた、懐かしさと言ってよかった。彼は不思議なぬくもりを感じながら少女の事を考える。あの子は母親に本心を伝えられただろうか。そうして自分の望んだ道にすすめたのだろうか。そうしていると、ウトウトと身体が緩みはじめて、再び眠りの渦に落ちていった。


赤信号で止まっていた父親が、標識を見つめながら何気なく呟いた。

「雪が降るかもしれないね」

彼らを乗せた車は、未開発の森林公園を抜けて、見慣れた県道に出ていた。


(終わり)



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