表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

十二月のボート・トレイン

 冬は落ち着かない。クリスマスに大晦日にお正月に……行事が盛りだくさんで、いつも通り過ごしているだけなのに、なぜだが全てが慌ただしく思えてくる。町を彩る装飾が、日ごとに変わっていく様子を見ても、なんだか一年の締めくくりとしては、妙に落ち着きがなく、忙しない感じがした。けれどそんな煩わしさが、どこか気持ちを高ぶらせているのも事実で、耳を引きちぎるように吹き荒れる真冬の風や、肌の表面を乾燥させズキズキと痛ませる空気も、今年はなんだか大人しく、それどころか身体に馴染むような心地よさが湧きたつ。今年の夏がことさら暑かったこともそうだけれど、それだってこんなに気持ちのいい冬ははじめてで、見るもの、触るもの、感じるもの全てが優しく僕を包んで離さないような、大げさだけど。そんな素晴らしい冬が今年もやってきた。


 急用ができたから、今日はもう上がっていいと顧問から言われたのは、今から一時間ほど前のことで、その時、僕たちバレー部は、横浜の坂の上にある古い公立高校の、今にも剥がれ落ちそうな屋根を持つ体育館の控室で、わいわい弁当を食べていた。昼食が終われば、午前中と同様、他校と練習試合を行う予定だった。


「よっしゃ上がりだ!」

 最初に叫んだのは池田だった。僕と同じクラスでリベロを任されている、童顔でお調子者の、けれど決して練習の手は抜かない真面目なチームメイトだ。


「先週みたいに八時まで練習だったら、ボク絶対逃げてたよ」


「大げさだなぁ。遠征なんだから、そんなに長くはならないだろう」


「ううん。アイツの事だから、どんなこと言いだすかわかったもんじゃないよ」

 談笑しながら帰り支度を進めていると、同じレフトの寺井が僕に声をかけてきた。


「暇だろ?どこか行かないか」

「心霊スポットなら間に合ってる」

 学年きってのオカルトマニアの寺井は、先週もひとりで心スポに行ってきたようで、クラスメイトと都市伝説の話題で盛り上がっているところをよく見かけた。シリアスな印象とは裏腹に、性格はおおらかでのっぺりとしていた。けれど、二人きりになるといつもふざけ出すので、彼の怖い話はいつも緊張感がなく、肝心なところがいつも面白くなってしまうので、残念だった。


「今日はロマンチックにいこうぜ。たまにはいいだろう?」


「また海か?あんなところ、冬に行っても面白くないよ」


「違うな。まあ海も見える場所だけど」


「じゃあ山?それとも展望台とか、見晴らしのいいところ?」


「確かに、展望台も近くにあるな」

僕は着替えの手を止めて、寺井を呆れたように見返した。


「おい、もったいぶるなよ」

 バックを持って階段を下りていると、後ろから池田が首を伸ばして、僕らの会話を聞いていた。顧問の号令が終わり、それぞれの部員が門を出始めたころ、白を切っていた寺井が突然

「スケートしにいくぞ、赤レンガ倉庫のな」

 と自信たっぷりの笑みでバス停へと歩いていった。



 車窓から臨める港は、いつものように凪いでいて、コンテナを積んだ貨物船が、東京湾へ向かっていくのが見えた。税関前のバス停で降り、工事中の開発地区を横切って大通りへ出ると、西洋風の屋根がからっと晴れた空の下に端然と並んでいた。


「五年ぶりか、懐かしいなあ」

寺井は赤茶けた外観に顔を綻ばせた。赤レンガ倉庫は一年を通して様々なイベントを行っているけれど、毎年冬になると隣の空き地にスケートリンクを設営して、年明けまで野外でスケートを楽しめる人気のテーマパークに変わる。そのためこの時期になると、冬休みを控えた学生が多くやってくるのだった。


「コロナ前は毎年行ってたんだけど、中三は受験だし、高校は練習で忙しいし、最近行けてなかったんだ」


「ボクは去年行ったよ」と入場口を指しながら、池田が言った。


「池田の姉ちゃんはランドマークタワーで働いてるんだってな」


「この時期はいつも混むから、何時くらいが一番空いているのか、教えてくれるんだ」


 入場口に並んでいると、横に広がったスケートリンクを眺めることができた。クリスマスシーズンということもあって、リンクには僕たちと同い年くらいの学生が多く、手すりにつかまり、重い足取りで滑る少年や、男につかまって滑るカップル、さらには両手を後ろに組み、やや上を見上げながら優雅に人の間をすり抜けている上達者など。もう何年も滑っていない僕は、こうして外から眺めているだけでも、十分その和やかな雰囲気を感じることができた。


 入場券を買い、いざ列の前まで来ると、並んでいる人が少ないのにもかかわらず、九十分待ちだと告げられた。なんでも、団体の予約がこの後入っているらしい。仕方なく列を後にして、三人は顔を見合わせた。

「どうする、今日はよそうか?」

 待つことが苦手な寺井は、不満を露わにして、ソワソワと苛立たしそうにリンクを睨んでいた。三人くらい、今すぐにでも入れそうなものだが、想定より多く入れると、滑るのに苦労するし、事故に繋がる危険もあるから、スタッフは心配しているのだろう。


「それならマーケットを周ろうよ。こんなに屋台が並んでるんだから」


 切り替えの早い池田は、メインストリートに並ぶ屋台に、さっきから目を奪われているようで、自然と脚がテントの方へ向いていた。昼食時に特大のおにぎりを頬張っていたのにもう腹が減ったのか。彼はドイツの家庭料理を出す店に並び、特大のソーセージを注文していた。寺井はというと、拳大くらいもある小麦のお菓子に、チョコレートまでトッピングしている。ふたりとも大食いだ。僕は満足そうに頬張るふたりの横で、温かいコーヒーを注文した。お弁当を食べたばかりだったし、最近ちょっと太り気味で、間食を控えているのだ。それに部活以外に、こうして身体を動かす機会などめったにないから、お腹の溜まっていない状態で思い切り滑りたい気もした。ランタンの垂れた屋台通りを歩く僕らの背後に、赤レンガ倉庫が建っている。洋風のレンガ造りの倉庫は、その鮮やかな朱色が青空に映えて、そこだけが現在から切り離されているように見える。やっぱり綺麗だ。周りが海だから、背景はどこまでも透き通って、今日のような天気の冬の空は、レンガの美しさを淡い光で迎えているようだった。



 小学生の頃、母と一緒に赤レンガ倉庫に訪れたことがあった。それもクリスマスに近い週末の、寒い夜のことだった。学校で貰ってきたチラシに、赤レンガのスケートのことが書かれていて、星空の下に張られた真っ白な氷に心を奪われた。あんな場所で滑ってみたいなと、夕食の席で口にこぼすと、次の休みに母が連れて行ってくれた。


 夕方過ぎ、母の運転するママチャリで赤レンガを目指して走った。小学校に上がっても自転車に乗れない僕は、母の背中に必死につかまっていた。港の風は冷たく、鼻をツンと差す痛みが、向かい風の度におとずれて、マフラーからこぼれた耳や鼻先を赤くした。


 冬休み前ということもあって、赤レンガは空いていた。スケートリンクも人が少なく、待ち時間なしで入ることができた。はじめて履く靴の感覚に不安になりながら、ゆっくり氷に立つと、ツルツルと足が宙に浮いて、慌てて手すりに寄り掛かる。こんどは別の足を前に出すが、こちらもツルツル。意思とは関係のない方に足が向いて、なかなか平衡が取れずしゃがでしまう。隣の母を見上げると、最初こそ手こずっていたものの、もう見事に氷上を優雅に舞っていて、その姿がはるか遠くに見えた。あの細いブレードの上で、どうしてこうも自由自在に動くことができるのだろう。僕は母に感心しながら、滑りたいと言ったにもかかわらず、一向に上達しない自分の運動神経を恨んだ。手すりにつかまっていないと、歩くどころか、立っていることも厳しかった。


 気がつけば、リンクの上で僕だけが滑れずにいた。広くはないリンクの隅々に人が散らばって、互いの身体が当たらないよう華麗に身をかわしながら、気持ちよさそうに滑っていた。僕は手すりにつかまりながら、なんだか泣きたい気分だった。


 ふと顔を上げると、すっかり暗くなった薄暮の下に、がっしりとした赤レンガ倉庫が見えた。近代的な尖った屋根と、長屋のように伸びた洋館は、下からの光によって陰影をより際立たせ、威厳に満ちたたたずまいは、まったく古さを感じさせなかった。


 その時僕は、なぜだか先週兄に聞かされた、マヤ文明の予言のことを思いだしていた。はるか昔に使われていたマヤ文明の暦が、今年のクリスマスでちょうど途切れるので、人類滅亡の予言なのではないかと、巷で噂されていた。兄はどこからかその話を聞きつけて、得意満面に僕に話してくれた。今年のクリスマスは人生で最後になる、だから今のうちに、好きな物を買ってもらうんだ。兄はそう言って、母にプレゼントを三つも四つもせがんでいたが、僕は何だか懐疑的で、予言の信憑性がどのくらいなのかわからなかった。だから兄の話にも、終始首を傾けて、不審げに表情を曇らせていた。


 今となっては、そんな噂など嘘っぱちで、予言は外れるものだと割り切ってしまえるのだが、当時の僕はそうではなかった。もちろん、家族のいる前では、そんなことはありえない、地球滅亡なんてあるはずがないと、強気でいたが、いざ寝る時になると、途端に心細くなって、布団の中で小さく丸くなっていた。自分の周りの人間が全て消えてしまうような、孤独な気持ちになって、もしかすると明日を迎えられないんじゃないか、自分は死んでしまうのではないかと、不安でたまらなかった。


 地球滅亡を考えていた僕は、スケートリンクの手すりにつかまり、港の海風にさらされた赤レンガ倉庫を見つめていた。十二月下旬の冷え切った空気の中に、二棟の倉庫は端然とそこに建っていた。僕の生まれるずっと前に建てられたそれは、オレンジ色の照明を受けてどこか暖かく見えた。世界が終われば、この景色を二度と見ることができないのかと思うと、なぜだか哀しくなってきた。


 僕は足に力を入れなおして、母の背を追った。どうせ最後になるのだから、もうどうなってもいいんだと、投げやりな気持ちが働いていた。氷上に穴がつくくらい、強引にスケート靴を踏み、転んでもかまうもんかと進んでいった。何度も人とぶつかり、背中を打ちつけて、尻はヒリヒリ痛んだが、何かさっきとは違う痺れが全身を支配していた。乾いた口の中から。白い息が何度もこぼれ、冷えた足先の感覚が、いやに鮮明に視野を広げてくれた。


 その日のスケートで僕ができたことと言えば、リンクの半周を手を使わず進めたことくらいで、方向転換も、加速も、なにひとつ習得できなかったけれど、倒れた身体を起こす一瞬、何かこれまでと違う感覚がして、ひょいと簡単にその場に立つことができた。それが今日の僕の全てだった。帰りの自転車で、僕はぐっすり眠っていたと後に母から聞かされた。初めてのスケートであれだけ転げ回れば、疲労も尋常ではなかったはずだ。あの時母の背に顔を押しつけて、ぬくもりを感じながら寝息を立てていた僕は、数日後に地球が滅亡するなんて、微塵も考えていなかっただろう。母の後ろでゆるみきった顔を満面に湛えて、深い眠りに沈んでいた僕は、あの時確かに幸せだった。


 寺井がグヤーシュを食べたいと言ったので、マーケットの真ん中まで進んでいた。両側に並ぶ店は、「ヒュッテ」と呼ばれる小屋のような木造りの外観で、どの店もクリスマス仕様のライトが、店先に並ぶ品を色とりどりに光らせる。ヨーロッパの食べ物を売る店が多く、マグカップやキャンドルを扱う伝統の店や、サンタクロースや雪だるまの描かれたランタンが並ぶ雑貨店、大手メーカーの出すビールブースには、コップを持った大人が大勢並んでいた。


 グヤーシュを扱う店は、本場のドイツ料理が楽しめる人気の屋台で、僕たちの前にもう相当の人が並んでいた。

「他の店を見てくるよ。欲しいものはない?」

 池田が紅茶ブースで飲み物を買うと言うので、僕はカフェオレ、寺井はジンジャーエールを頼んだ。池田が行ってしまうと、寺井と二人きりになった。彼はさっき買ったブルストを頬張りながら、どこか遠くに視線を置いていた。スパイスの効いた香ばしい匂いが僕の鼻に流れてくる。周囲はどれも美味しそうな食べ物がずらりと並び、めまいがするくらい強い香りで溢れていた。


 すると突然、寺井は僕の肩に身を寄せて、

「あそこに立っている男、変じゃないか」

 彼の指の向こうに、色あせたカーキ色のダウンを羽織った老人が立っていているのが見えた。首を前に突き出し、曲がった腰を戻そうともせずに、じっとして動かない。通りの真ん中で立ち止まり、行き先を塞いでいるような、異様な目立ち方だった。ハンチング帽からこぼれた白髪と、ギンと見開かれた目はさらに不気味で、誰も老人に近づこうとしなかった。


「もうずっとあそこに突っ立っているけど、何をしてるんだろう」


「気にしなくていいよ。ああいうのは無視が一番さ」


 オカルト好きの寺井は、この手の人間に興味が湧くのか、不安より興奮が勝って、話し方に独特な節が生まれていた。僕はもうすぐ係員が来て、老人をどこかに連れていくだろうと話したが、寺井は納得いかない表情で、しばらく老人から視線を放さなかった。


「声をかけてみようか?」


「よせよ。マジでヤバい人だったらどうする」


「そうは思えないけどなあ。どっちかっていうと、何か見えないものに苦しんでいるような、怯えた表情をしていないか?」


 寺井の言う通り、老人はただ真ん中に立っているだけで、通り過ぎる人々に危害を加えたり、邪魔になる行動をしたりすることはなく、ただ銅像のようにそこに固まっているだけだった。なんのためにあそこに立っているのだろう。僕もしばらく老人を眺めていた。その皺だらけの顔には、たしかに怒りや興奮といった色は見えず、どちらかというと寂しげな印象だった。クリスマスの華やかな装飾が、老人をより一層哀れで、孤独に映していた。


「やっぱり気になるから行ってくるよ。ヤバそうならすぐ来てくれ」


 目を見開いてそう言った寺井は、ついに列からはなれると、足早に老人に近づいていった。こうならったらもう誰も彼を止められない。僕は恐る恐る彼を見守った。彼は丁寧に「すみません」と声をかけていたが、老人はピクリともしかなかった。


「ご気分が悪いですか?もし、手伝えることがあれば遠慮せず言ってください」


 動かなかった老人の顔が、少しだけ寺井の方へ向いた気がした。と思ったのも束の間、老人は倒れるように寺井の胸に寄りかかる。「あっ」と思わず声を出してしまったが、寺井は特別何かされたわけではなく、ただ震える老人の身体をしっかりと握り、様態を聞いているようだった。「すまんな」と、口元で言っているような気もした。左手のステッキを放し、そのままその場にしゃがみこんだ。「大丈夫ですか」寺井の声が響く。僕が慌てて駆け寄ろうとした時、息を整えていた老人は、首だけよじるように赤レンガに向けると、目をつむった。



「本当にありがとう。キミたちのおかげだ」

 設営されたテントに入り、奥のテーブルに四人で腰掛けると、イベントスタッフの動きを間近で見ることができて、なんだか自分も運営に回ったような気がしてくる。僕の前に座る老人は、カバンから錠剤を取り出すと、水も飲まずにそのまま口に入れた。


「よくこうなるんだ。懐かしい場所に来ると、昔の想い出がよみがえってくる。当時の様子だったり、喧騒が身に迫って、精気を失ったように立ち尽くしてしまうんだ。今年はこれで五回目だ。君たちが声をかけてくれなかったら、わたしはその場に倒れて、頭や首を打っていただろう。本当だよ」


 老人は帽子をとってお辞儀すると、僕たちに硬い握手を交わした。角ばった手は思いの外熱く、しっかりしていた。老人は表情を崩し「この歳にもなって、情けないね」と呟いていた。この人は気を失うまで何を見ていたのだろう。僕はさっきから疑問に思っていたことを尋ねずにはいられなかった。


「あの場所でなにを見ていたんですか」

 顔色をうかがうように恐る恐るそう聞くと、一瞬、老人は僕を睨んだような気がした。


「倉庫を見ていたんだ」


「倉庫?」


「赤レンガ倉庫だよ。昔働いていたからね」

 老人は恥かしそうにそう言うと、視線を宙に向けた。


「今はすっかり観光地になってしまったがね、昔は大きな倉庫だったんだ。半世紀くらい前は、外国からやってきた品物を保管する場所として機能していたんだよ」


「だからあんなに大きいんですね」

 黙って聞いていた寺井がそうこぼすと、老人は昔話に興味があるとみたのか、得意そうに次々と語りだす。すっかり去り際を失った僕たちは、静かに老人の話を聞くしかなかった。それでも池田は隙を見て、「お手洗いに行ってきます」と席を立ち、寺井も大きなブルストを三本も食べたから、満腹から居眠りをしはじめる。そうなるともう残された僕が老人の聞き役になるしかなかった。老人は話し相手が僕だけになっても、同じ熱量のまま、気持ちよさそうに語り続けていた。


「今は駐車場になっているけど、倉庫の裏側に駅があってね、東京から船に乗る人のための路線が走っていたんだ。山下公園は知っているだろう?」


「氷川丸のところですね」


 老人は力強くうなずいた。赤レンガ倉庫から五分ほど歩いた場所に公園があって、そこから港に突き出た埠頭の辺りに、船が行き来していたのだと言った。


「豪華客船が毎月のように泊まるんだ。アメリカ行きの便に何百人と並んで、出港の時一斉に旗を振るんだ。圧巻だよ。汽笛と一緒に喚声が上がって、花吹雪が舞うんだ。綺麗だったなあ。もう二度と見れないよ」


「船に乗ったことがあるんですか?」


「わたしかい?わたしはないよ。ただね、見送ったことなら一度あるんだ」

 そう言ってしまうと、老人はテーブルの端を見つめたまま再び動かなくなった。固まってしまったのだ。それは懐かしい思い出に酔いしれているというより、重大な問題に直面して思いつめているような、真剣な表情だった。



 昭和二十年。大空襲を受けた横浜は一面焼け野原だった。栄えていた港は軍に接収され、荒地に残った市民は、貧しい生活を強いられた。食うのにも苦労する時代で、人だけが溢れていた。中学を卒業した彼は、駅前の闇市や土木作業の運搬員として市内を駆けまわり、働日々働いた。激動の時代で、どこも人手を要していたから、仕事は尽きなかった。彼はほとんど家に帰らず、仲間とともにバラック小屋に泊まり、朝早くから仕事に出、休みの日は安酒を飲んで過ごした。こんな生活がいつまで続くのかと、ぼんやりと考える隙暇もないほど、社会は急速に進んでいた。


 鶴見の建材会社で働いていた頃のこと、たまたま同僚に連れられ東京に遊びに行った帰り、蒲田のカフェに入って席に着いた時、彼ははじめて、自分が自分でないような心の動揺を覚えた。

 感じの良い丸顔、太く伸びた眉、白い肌にはめ込まれた、可憐に光る真っ黒な目。常にはにかんでいるように見える仕草が、甘酸っぱい香りを全身からみなぎらせている―彼は咥えていたタバコを皿の上に落とした。はじめて口にした珈琲の苦みなど忘れて、ただその女に見とれていた。


 その日から、彼は女のいる店に通い始めた。女は十時前に出勤して、五時に上がることもあれば、八時まで付き合ってくれることもあった。大森に住んでいて、塗装会社に勤める父と母の他に、二人の弟がいた。女学校に通いながら、昨年からここで働いているのだと、楽しそうに語ってくれた。


 やがて彼は女と文通を交わすようになった。はじめは葉書のような短いものだったが、一枚、また一枚と、日が経つにつれ書くことは増えていった。仕事で店に来れない時は、便箋四枚に相当する文字を書きなぐって、静かに返事を待った。女は文を書くことが好きなのか、必ず丁寧な返事をくれた。内容は身の回りの事から始まり、家族や友人のこと、映画に読書、庭で育てているの海棠の成長を細かく書いてくれることもあった。そんな幅広い知識を豊かに吸収した女の文を読み進めていくに連れ、彼は胸の内で燃え盛っていた炎が、次第に小さな一点の灯に変わっていくのを、不思議な心地で認めていた。それは街娼と接している時よりも、明らかに澄んで、晴れやかな気持ちだった。


 文通を始めてから一年が経った夏の終わり、久しぶりに店に訪れた彼は、女が店を辞めたことを知って驚愕した。店主に聞くと父親の実家がある栃木に帰ったというのだ。手紙には引っ越しのことは書かれていず、またそんな気配も文からは見られなかったから、彼の落ち込みようは尋常ではなかった。女にとって自分はただの遊び相手だったのかと嘆き、三日も煩悶して寝付けなかった。


 それでも女からの手紙は届いた。女は相変わらず身の回りのことや草花について楽しそうにつづっていた。彼は数度、それとなく心情をほのめかす内容を送ってみたりもしたが、女がそれについて触れることはなく、またそれが原因で二人の仲が崩れるわけでもなかった。日が一日一日と過ぎ、文のみの会話が続くに連れ、彼は自分の想いが本物であるかどうか、真剣に考えるようになっていった。彼女にとって自分の存在とはなんだろう。もしかすると本当に、ただ退屈な毎日を紛らわす話し相手にすぎないのではないだろうか。封筒の下に小さく書かれた名前を見るたびに、胸が苦しくなった。


 そしてまた一年が過ぎた十一月の下旬、いつものように手紙を開いた彼は、「あっ」と思わず声を出したほど、その内容に驚いてしまった。それは女が横浜に来るというものだった。なんでも、隣家の長男がシアトルへ発つというので、家族全員で港に見送りに行くというのだ。


 彼は手紙を読み終えた時、座布団から飛び上がって外へ走り出したい気分だった。当時の彼の仕事場は税関の倉庫で、港から運ばれてきた荷物を一時的に倉庫に収める荷揚げ夫として雇われていたから、いつでも抜け出して女と落ち合うことができたのだ。


 十二月二十四日。倉庫の真裏に置かれた貨物駅に列車が止まった。東京と横浜を繋ぐボート・トレインは、見送りや出迎えの客を乗せた旅客列車で、午後一時に停まった車両から次々と乗客が降りてきた。事前に届いた手紙に、列車の到着時刻が記されていたから、彼は時間になると持ち場を飛び出し、裏の仮設駅へ走っていた。


 女は人混みの去った最後の方に姿を見せた。荷物はハンドバックのみの軽い装いで、深緑のセーターの上に紺色のトレンチコートを羽織り、小麦色のバケットハットは、ことに通行人の目を引いた。彼はなんとなく気恥ずかしい感じで、どこへ行きたいか女に尋ねた。


「海がみたい」

 女はそれしか言わなかった。


 倉庫から近い岸辺に女を案内した。歩いていると、仕事仲間に何度もすれ違い、その度に彼は顔を赤くして怒鳴り返した。彼が倉庫から見える港を選んだのは、毎日見慣れた景色を女にも共有したいと思ったからだった。


 上裸でタバコをふかしている荷揚げ夫から少し離れた場所で、足を放り出すようにしてふたりして岸に座ると、海風が全身を包むように感じられた。穏やかな波が岸を撫で、青空の下に浮かぶ何艘もの小舟が静かに時間を刻んでいた。女は黙って海を見ていた。青くにじんだ水面の、光が集まった垂直の線に目を向けているようにも思えた。


 やがて女は静かに口を開いた。「明日、ここを発つの」その言葉で彼は全てを理解することができた。


「そうか……」


「ごめんなさい」


「気にすることはない。誰も悪くないんだから」

 火を点けたタバコは風にあおられ、右へ左へ傾きながら消えていった。


 翌日の昼過ぎ、港湾の前は既に見送りの客でいっぱいだった。後方から首を伸ばして顔を向けると、今まさにテープが切られ、出港の汽笛が鳴らされたばかりだった。デッキに群がる船客の中から、米粒ほどの女を見つけると、彼は自然と手を振っていた。船が離れる瞬間、真っ黒な女の目が一瞬向いたと思うと、彼は膝から崩れるようにして地に頭をつけていた。胸を裂くような悲しみが、波のように押し寄せては引いていった。彼はこれほどまで運命がむごいと感じたことはなかった。



「戦争が終わってすぐ働きはじめたわたしにとって、あの頃は何もかもが美しく、自由に見えていた。新しい時代の到来を感じたんだよ。けれど実際は、そんな輝かしいものじゃなかった。想いは届いていなかったんだよ。わたしが思っている以上に、社会は残酷だった」

 もし、あの時一言でも、気持ちを伝えることができたなら……


 老人はステッキを持ち直すと、席から立ち上がった。トイレにでも行くのだろうかと、心配して後を追うと、吸い込まれるようにヒュッテを縫い、マーケットの奥へと進んでいった。


 すっかり茜色に変わった空に、薄く月が出ていた。突き当りで道が開け、人混みの中央に一本のモミの木が、金色の電飾をまとって立っている。メインエリアには、イベント用のステージの外に、毎年巨大なモミの木のクリスマスツリーが展示され、フォトスポットになっていた。老人はツリーの前で立ち止まると、「ここだ」と言って顔を上げた。


 色とりどりの装飾の施されたツリーの、その裏に横浜港の海が、生々しい光の線を伸ばして光っていた。向こうに見えるベイブリッジとその奥に広がる工業地帯の明かりは、老人の目にはことさら哀しく映っているのだろう。冬のほの白い光を透かした海に、穏やかな波の音だけが僕たちに届いていた。空と海の境も判別できない黒い広がりに、老人はだた視線を置いて固まっていた。別れのワンシーンのようだった。背筋を伸ばし、何かを噛みしめるようにそこに居続ける老人は、賑わうマーケットの観衆とは別の、異世界人のようにも思えた。


 モミの木に回されたイルミネーションが、全体をランプのように明るませ、昼間よるもはっきりと、その四肢に広がった枝の形や、葉の一枚一枚をくっきり浮かび上がらせていた。中心から放たれる光が、周囲で写真を撮る観光客に差す。おそろいのマフラーを巻く女性カップル、子どもを抱きかかえてベビーカーを引く家族、足の悪い主人に寄り添って歩く白髪の女性。学生、恋人、夫婦、子どもに外国人。みんな違っているようで、同じ光にさらされた横顔はどれも明るかった。抱えているものは様々だが、ツリーを前にした溢れんばかりの幸福と安堵が、光よりも大きい輝きを放っていた。僕は老人の隣へ行き、しばらく対照的な黒い海を見ながら、何気なくその動かない表情に向かって話しかけていた。


「スケートリンクの方へ行きませんか」

 細めがちな老人の眼と、僕の視線が重なった。


「ボク、全然滑れないんです。小さい頃に来て、何度も転んでビショビショになって。その時の借りを返したいとか、そういうのじゃないんですけど。とにかく今なら滑れるような気がするんです」


 老人は一瞬だけ視線を僕の方へ向けていた。その瞳は優しかった。しわくちゃで、前歯の欠けた、けれどどこか子どもっぽい無邪気さの漂う、そんな老人の無言のたたずまいが、静かに僕を包んでいた。その時僕は老人の心に触れたような気がした。言葉を交わさなくても、その温かさをじゅうぶん理解することができたのだ。


 赤レンガ倉庫から見渡せる港は、すっかり夜の空気をまとい、凪いだ海上に流れる木枯らしは、遠くからやってくるボート・トレインの音に似て、いつまでも僕の耳に流れていた。


 〈終わり〉



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ