第3話:滅びの森の遭遇(第1編/全5編)
【視点:ノエル(ハーフエルフの姫)】
【1】
「ノエル様、少し休まれよ。朝露を吸った森の空気は清々しいが、姫様の御身には毒となり兼ねん」
低く重厚な声が、朝の静寂を破った。
声の主は、私の少し前方を歩く大柄の男性——シバリアだ。
背丈の倍近くあろうかという武骨な大剣を背負い、かつて盗賊として荒波を潜り抜けてきた彼の鋭い眼光は、いまや私の護衛として周囲の警戒を片時も怠らない。
「大丈夫です、シバリア。私なら平気ですよ。それに、早くこの『滅びの森』を抜けなければ……」
私は衣服の裾についた泥を払いながら、柔らかい笑みを返した。
風が吹くたび、私の耳元で跳ねる特徴的な長耳が微かに揺れる。
ハーフエルフ——人間とエルフの間に生まれた私は、双方の種族から忌み嫌われ、やがて故郷の王国を追われる身となった。身寄りを失った私に最後まで忠義を尽くし、こうして旅に付き従ってくれているのがシバリアだった。
私たちが目指しているのは、東にそびえる「黒竜の山脈」の麓に位置する交易都市だ。 追手を逃れ、新天新地を求めての過酷な旅路。 だが、この森は数日前から異様な空気を纏っていた。
(……魔気の匂いが、強くなっている……?)
私はそっと胸元に手を当てた。 ハーフエルフである私は、生まれつき大気中に満ちる「精霊の囁き」や「魔気の乱れ」を感じ取る力に長けている。
今、この森を吹き抜ける風には、焦土の煙と、下級魔族が放つ不快な血の臭いが濃密に混ざり合っていた。
「ノエル様、前方に馬車が見えますぞ。……いや、様子がおかしい」
シバリアが歩みを止め、背中の大剣の柄に巨大な手をかけた。 彼の視線の先、森の街道がゆるやかにカーブする開けた場所で、一台の商隊馬車が横転していた。
【2】
「これは……ひどいな」
馬車の周囲には、荒らされた荷物が散乱し、車輪は叩き折られていた。
幸いにして御者や商人たちの姿はなく、命からがら逃げ出した後なのか、それとも魔族の手によって連れ去られたのか。木々には巨大な爪痕が残され、地面には黒い魔力の焦げ跡がこびりついている。
「下級魔族の仕業か。……ノエル様、お下がりくだされ。まだ近くに潜んでいるやもしれん」
「はい……気を付けてください、シバリア」
私は静かに頷き、木々の影へと身を潜めた。 シバリアは背中から巨大な大剣を引き抜くと、身構えることなく静かに馬車の残骸へと近づいていく。元盗賊としての身のこなしは、巨体に似合わず滑らかで、一切の隙が存在しない。
その時だった。
「……ん?」
馬車の陰から、ガサリと草木を揺らす音が響いた。 シバリアが大剣を身構え、私は息を呑む。 てっきり生き残ったインプや害獣が飛び出してくるものと身を固くしたのだが——
「……助けて……くれ……」
擦れた声とともに、瓦礫の隙間から這い出てきたのは、血と泥に塗れた一人の「人間」の青年だった。
「待たれよ、人間か!?」
シバリアが剣先を向けつつも、声を上げた。 現れた青年は、あまりにも惨痛な姿をしていた。
頭部からだらりと流れる血液が頬を黒く染め、着ている服は焦げ跡と泥で破れている。
そして何より痛々しいのは、その右腕だった。
右腕は手首から先が痛痛しく破砕され、布切れで強引に胸と胴体に縛り付けられていた。動くはずもない、完全に機能を失った死に腕。
青年は死に物狂いで泥に左手を立て、這い進もうとしていた。
しかし、全身の限界を超えていたのだろう。私たちの存在に気づくと同時に、彼の瞳から光が消え、そのままドサリと冷たい土の上に倒れ込んでしまった。
「シバリア! 急いで!」
私は身を隠していた木陰から飛び出し、倒れた青年のもとへと駆け寄せた。
【3】
「ノエル様、無闇に近づいては危険ですぞ! 魔族の罠かもしれん!」
「いいえ、シバリア! この方は人間です……それに、全身に酷い怪我を負っています!」
青年の傍らにひざづき、私はそっと彼の身体を抱き起こした。 触れた肌は冷たく、息は途切れ途切れで、いまにも脈が途絶えてしまいそうだ。
(なんて深い傷……! 右腕の手首は骨まで潰れている……みぞおちにも強い打撃の痕が……)
一体、どんな恐ろしい目に行き遭えば、これほどの傷を負うというのだろう。
村が魔族に襲われたのだろうか。それとも、この先にある危険な領域へと足を踏み入れてしまったのだろうか。
青年の左手には、血と泥に塗れた「一振りの鉄の剣」が固く握られていた。
指先が真っ白になるほど強く握りしめられたその柄。
意識を失ってなお、この青年は剣を手放そうとしていなかった。
その手に込められた強烈なまでの「執念」が、私に強く訴えかけてくるようだった。
「……シバリア、この方を治療します。手を貸してください」
私は懐から聖印を取り出し、青年の胸元にかざした。
「……はぁ、ノエル様の優しさには頭が下がる。しかし、お優しいのもほどほどにくだされよ」
シバリアは困り顔で溜息をつきながらも、背中の大剣を鞘に納め、青年の手からそっと鉄の剣を外そうとした。 だが——
「……む?」
シバリアの動きが止まった。 力任せに引っ張っても、青年の左手から剣が離れないのだ。 気を失っているはずなのに、彼の指先はまるで鉄の万力のように柄を握りしめている。
「気絶しているというのに、なんという握力だ……。ただの村人ではないのか?」
「シバリア、無理に外さないで。痛んでしまいます」
私はそっと青年の胸元に手を置き、自身の体内に眠る風と生命の精霊に語りかけた。
「傷つきし者に、風の加護を……『ル・ヒール』」
私の手のひらから、柔らかな緑色の光が溢れ出し、青年の傷ついた身体を包み込んでいく。
後頭部の血が止まり、荒かった呼吸が次第に静かなものへと落ち着いていく。
だが、潰された右腕の骨までは、私の簡易的な回復魔法では癒やしきれない。
「う……ぅ……っ」
かすかな呻き声とともに、青年の長い睫毛が微かに震えた。 ゆっくりと開かれた彼の前髪の隙間から、深い茶色の瞳が覗く。
「あ……気がつきましたか? 無理をしてはダメですよ」
私が優しく声をかけると、青年——ルシフェルは、ぼやけた視界の中で私とシバリアを交互に見つめた。
その瞳に宿っていたのは、命を救われたことへの安堵などではなかった。
静まり返った池の水面のような冷徹さと、何ひとつ諦めていない凄惨なまでの「狂気の熱」。
その眼光に触れた瞬間、私とシバリアの背筋に、冷たい走熱が駆け抜けた。




