第47話 世界に広がる祈願の輪
日本での受験祈願ブームが定着しはじめてから、そう間を置くことなくその大きな波は海を越えていった。きっかけは、あるアメリカの高校生のSNS投稿だった。
大学進学適性試験――SATの前夜。彼女はふざけ半分に友人へ動画を送った。
「みんなやってるんでしょ? じゃあ私も――桐嶋先生、お願い!私を助けて!」
両手を合わせて机に突っ伏す姿が、数秒のクリップとしてSNSに投稿された。
軽い冗談のつもりだった。だが翌朝、その投稿には数十万のいいねが付いていた。
コメント欄は《Me too!》《Tomorrow is my math test!》《Ririka-sensei, save me!》と祈願のコピーで埋め尽くされ、真似をする動画が次々と投下されていった。
フランスの学生たちは、バカロレアの試験直前にハッシュタグを揃えた。
《#RirikaPrayer》。
「日本の探索者の女医さんにお願いすると集中力が上がるらしい」という真偽不明の噂が翻訳されて広まり、受験前に友人同士で祈る光景が街角に現れた。
「桐嶋先生、お願い!」
そう叫んでから答案用紙を開く生徒たちの動画は、どこか微笑ましく、教師さえ苦笑して黙認するほどだった。フランス語、英語、日本語が入り混じったコメントがタイムラインを踊る。
スポーツの世界では当初は少し毛色が違った。
サッカーの試合前、選手たちが円陣を組むとき、チームの誰かが冗談めかして声を上げた。
「今日もお願いしようぜ――リリカ先生!」
実況席は一瞬ざわついた。だが試合が劇的な逆転勝利で終わると、すぐに拡散された。
#RirikaPrayer はスポーツ分野でも使われはじめ、翌週には「試合前にお願いしたらゴールを決めた」という体験談が相次いだ。祈願の対象は試験からスポーツへ、そして面接やオーディションにまで広がっていった。
アジアの都市圏でも同じ現象が見られた。
韓国では大学修学能力試験の受験生たちが、塾の前で「桐嶋先生、ファイティン!」と唱えて動画を撮影。台湾の若者たちは夜市で、屋台の唐揚げを掲げて「リリカ先生パワー!」と笑い合い、その映像が拡散された。
彼らにとって、それは宗教儀式ではない。むしろ「お守りアプリ」や「ラッキーアイテム」と同じ、軽いノリの“共有文化”に近かった。
――一方、その頃。
救護課の休憩室。莉理香はソファに腰を沈め、スマホを覗き込んでいた。
画面は海外からの祈願動画で埋まっている。英語、フランス語、アラビア語、ハングル……。字幕を追わなくても、誰もが同じように手を合わせ、自分の名前を呼んでいるのがわかった。
「……いやいやいや、私そんなサービスした覚えないんですけど!」
頭を抱える彼女の横で、三浦が吹き出した。
「もう完全に学問の神様扱いね。ほら、こっちはスポーツの守護神って」
山崎もスマホを掲げて見せる。サッカー選手がゴールを決めて「サンキュー、リリカ!」と叫ぶ動画が流れていた。
「やめてくださいよ……! 私、医者で、救護員で……神様じゃ……」
苦悶する声に、胸奥でラギルの低い笑いが響いた。
『莉理香、人は昔から都合の良いものを“神”と呼ぶのだ。そして今はインターネットがある。祈りは容易に距離を超える』
「……私、ただの人間ですよ……」
『人間がどう思おうと、祈りは核に届く。祈る者が笑いながらであろうと、真剣であろうと、力は積み重なるのだ』
ぞっとして、莉理香はスマホを伏せた。
世界中で「桐嶋先生お願い!」と笑いながら唱えられるその軽い祈願が、自分の竜核に確かな力を与えていることには気づいていた。
努力も戦闘もしていないのに、魂の力が“信仰”という形で加算されていく感覚。
それは甘美であると同時に、恐ろしくもあった。
「……ほんとに、どうなっちゃうんですか……私」
休憩室のテレビが、ちょうど国際ニュースを流す。
『日本の女性探索者・桐嶋莉理香氏に対する“祈願ブーム”が、世界的な広がりを見せています――』
アナウンサーの声が、頭の奥まで響く。
絶え間なく世界中から流れてくる「祈願」の力。
そして胸奥に流れ込む、淡い光の糸。
(これ、どんどん増えてる……)
「……やめてくださいよ。私、本当に神様になっちゃうじゃないですか」
呟きは震え混じりだった。
胸奥で、ラギルが冷静に応じる。
『莉理香よ、我もかつて“竜神”と呼ばれ、祈りを受けて力を増していた。
だがな……あの頃は一つの村、一つの国がせいぜいだった。
祈りの声は篝火のように細く、届くのに時間もかかった』
低く唸り、続ける。
『だが今は違う。インターネットとやらがある。世界中の祈りが瞬時に集まり、網の目のように広がる。お前の核に流れ込む信仰の効率は――我が時代の比ではない』
ラギルの声には畏怖すら滲んでいた。
『……科学とは恐ろしいものよ。信仰の増幅器となり、竜神をも凌駕する規模で力を注ぐのだからな』
莉理香は毛布に顔を埋め、呻いた。
「……インターネットで神様になるなんて、誰が想像しましたか……」
世界中の人々が笑いながら、あるいは真剣に祈る。
そのたびに、竜核は確かに力を受け取り、脈動を強めていく。
――桐嶋莉理香という一人の若い女性は、望まずして“世界の竜神”になりつつあった。
***
霞が関の会議室。
外務省、防衛省、内閣官房――各省庁の幹部たちが居並び、険しい表情を交わしていた。彼らの視線は一つのスクリーンに注がれている。そこに映し出されたのは、色とりどりの文字で埋め尽くされたSNSの画面だった。
「……今度は海外です」
外務省の担当官が、モニターに映された画面を指差した。
そこには英語、フランス語、アラビア語……世界各国の言語で書かれたタグが踊っていた。
『#RirikaPrayer』
『#DragonGoddess』
『#ExamBlessing』
会議室の空気が重く沈む。
「受験祈願どころか、資格試験、就職面接、スポーツの試合前――あらゆる場面で“桐嶋莉理香に祈る”という行為が拡散しています」
防衛省の幹部が低く唸る。
「日本の一探索者にすぎないはずの人間が、世界規模の“信仰現象”の中心にいる……。これでは統制などできん」
首相補佐官が苦渋をにじませる。
「外交カードどころか、国際的な宗教問題に発展しかねない……」
会議室は重苦しい沈黙に包まれた。
壁一面のスクリーンには、最新の報告書が映し出されていた。
《アジア圏では受験祈願、欧州では試合やコンサート前の成功祈願、アフリカでは“女神の加護”として祈りを捧げる例が急増》――その文字は生々しく、現実味を持って迫ってくる。
「……結論から申し上げます」
防衛省の幹部がゆっくりと口を開いた。
「桐嶋莉理香は、もはや人類が管理できる存在ではないのかもしれません」
その一言に、室内の空気が大きく揺れた。
別の官僚が苦い声を絞り出す。
「人質も意味がない……。彼女の“加護”が常に契約者を守るなら、交渉のカードにはならない」
「そうだ。脅しも拘束も無意味だ。力を封じる手段がない以上、我々は共存の道を探るしかない」
短い言葉が突き刺さるように飛び交い、誰も反論できなかった。
首相補佐官は額を押さえ、静かに告げた。
「……つまり、国家すら彼女を従わせることはできない、ということか」
その場にいた全員が黙り込んだ。
外の世界では「女神」として祈りを受け、ネットでは熱狂と嘲笑が渦を巻いている。だが、この霞が関の会議室だけは静まり返っていた。
――一人の若い女性をどう扱うか。
どのような地位や待遇があれば彼女が満足するのか。
それが、国家の命運すら左右する問題になっていた。
だがそこに結論は出ない。なぜなら、当の本人は――
「帰ったらまた近所の神社にお参りにでも行こうかなぁ」
……そんな、拍子抜けするほど普通の顔で笑っているのだから。




