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第46話 契約者の特典

――あくる日の訓練室。


 協会研究棟の一角にある実験区画は、内部の魔素濃度だけがわずかに高められている。床に走る白線は安全域と観察域の境界、天井には記録用ドローンが静かな羽音を奏でながら漂っていた。


 榊が前に出て、候補者の一人に視線を向ける。


「では“風”から。前方に低圧域、後方に高圧域――その“差”をどう作るか、頭で順番にイメージを組み立ててください。温度差、密度差、圧力差、なんでもいいです」


 青年がこくりと頷き、両手を胸の前に上げる。指先は震えているが、目は真剣だ。彼の意識がイメージの奥に沈み込み、室温、湿度、呼気の流速まで数えるように集中していく。わずかに空気がうねり、前方の書類がはらりと浮いた。


「……いい流れだね。もう半拍、押して」


 榊の助言に合わせ、青年はさらに圧力差を強めた。

 風は細い糸から紐へ、紐から帯へ。机上の紙片が踊り、周囲から小さな感嘆が漏れる。だが、その瞬間――境界の白線に踵が触れ、体勢が崩れた。


「危な――!」


 胸の奥で、何かが鼓動した。次の瞬間、目に見えない薄膜がぱん、と張る。青年の肩は机の角にぶつかる寸前で弾かれ、柔らかい壁に押し返されたみたいに姿勢が立て直る。空気が波紋を作り、風は暴発せずに静かに解けた。


「……えっ?」


 青年は自分の肩をさすり、驚いたように腕を回した。


「痛く……ない。今、確かに当たったのに……」


 観察域にいた候補者たちがざわめく。榊は計測器を一瞥し、すぐ莉理香へ視線を移した。彼女自身は、両手を見つめて固まっている。


(――私、今なにもしてないはず、意識してないのに“守った”?)


 のどが乾く。竜核が勝手に反応した。いつもは自分の意思で展開する結界が、ほんの一拍先に、勝手に前へ出ていた。


『反射だな』


 胸奥にラギルの声が落ちた。


『お前の中で、守りの回路が一段深い層へ繋がった。莉理香、お前は自分の力を“竜神”の力として自覚した。契約者の危機には主の意志に先回りもするだろうさ』


(……先回り、ね。勝手に優秀な秘書みたいなことをしないでほしいな。これじゃ本当に神様じゃないですか)


 ラギルはくぐもった笑いを返した。


『我もかつて祈られたときは同じだった。守護と癒やしは竜神の常套。……莉理香よ、もう後戻りはできぬぞ』


 返す言葉が見つからない。青年が何度も頭を下げるのを見て、莉理香はとっさに笑みを作った。


「大丈夫。次は安全域から離れないこと。風の構築は良かったんじゃないかな、綺麗に組めてたよ」


 休憩を挟んで、次の候補者。今度は熱制御の基礎――火傷をしやすい課題だ。

 手元で小さな発熱反応を起こし、目標温度に達したら即座に放熱へ切り替える。

 彼女は落ち着いてステップを踏み、温度計の針は理想値できれいに止まった。


「よし。では放熱に移行――」


 次の瞬間、焦りから指先の操作が乱れ、温度が一気に跳ねる。じゅっ、と皮膚が鳴り、浅い火傷が走った。


「冷却! 氷嚢!」


 救護員が走り出す――より早く、傷口がふっと淡く光った。筋肉の緊張がほどけ、赤みが引いていく。本人がぽかんと目を丸くし、榊が計測器のグラフを覗き込んだ。


「……自然治癒速度、上方にシフト。炎症マーカーも即時低下……これは“自動回復”の挙動に近い」


 室内の空気が一斉に揺れた。期待と驚きと、少しの怖さ。視線が集まる。莉理香は胸の内側に小さく問いかけた。


(ラギル、これも今の“反射”?)


『守りの延長だな。組織破壊の進行を抑え、修復側に偏らせた。お前がいつもやっている処置を、核が最短経路に置き換えている。……誇れ。だが慢心するな』


(誇りたいけど、怖いのも本音だよ)


 候補者のひとりが手を挙げ、遠慮がちに言った。


「桐嶋さんの“風”、あの……どうやって考えるんですか? どうも具体的なイメージがしにくくて」


「順番です。何を変えたいか決める――熱か、圧か、電荷か。次に、どこから奪ってどこへ逃がすか。最後に、途中で暴れないように流路を設計する。理屈が間違ってなければ、現象はちゃんと動く。……万能じゃないけど、誤魔化しはできない」


 榊が嬉しそうに頷いた。


「はい、その通り。精霊が自動補助する術とは根本から違う。理論を理解して現象を組む、分子の完全なマニュアル操作と考えればいい」


 候補者たちの目に、戸惑いと同じだけの希望が灯る。記録ドローンが静かに旋回し、透明な結界は何事もなかったように澄んでいた。


(――これは、誰かを救う力。なら、怖がってる暇はない)


 莉理香はその日、もう一歩だけ前に進んだことを自覚した。


***


 その日の夕刻、救護課の課長室。

 扉をノックすると、すぐに「入れ」と低い声が返ってきた。その一言だけで、部屋に漂う緊張の気配が伝わってくる。


 扉を開けると、机に山積みになった書類に目を落としていた高村が顔を上げた。視線が莉理香をとらえた瞬間、眉間に皺が寄る。


「……お前の顔を見ると、また何かあったんだなと思ってしまうな」


 皮肉混じりの口調だったが、その奥にあるのは呆れとも心配ともつかない複雑な色だった。


「そ、その……すみません。あの、やっぱり課長にはお話ししておかないと」


 緊張で手のひらが汗ばむのを感じながら、莉理香は勧められるまま椅子に腰を下ろした。呼吸を整え、言葉を選ぶように一つひとつ説明していく。

 昨日の契約実験のこと。そして――契約者に自動的に「防御」と「回復」が発動してしまったことを。候補者たちが体験し、証言できる以上、隠し通すのは不可能だった。


 高村は報告を最後まで黙って聞いていた。机の上で両手を組み、しばらく沈黙を守ったまま。やがて深く息を吐き、低く呟いた。


「……つまり、“契約者”にはお前の力の“加護”が働く。攻撃を受ければ防御、傷を負えば回復……そういうことか」


「はい。私が意識していなくても、勝手に。……精霊の加護に似ているようで……」


「……お前、精霊じゃないだろう」


 淡々とした言葉が突き刺さり、莉理香の胸がきゅっと締め付けられる。


「だから困ってるんです!」


 声が裏返ってしまい、慌てて口を押さえる。課長室に緊張が走り、自分の鼓動がやけに大きく響いていた。


 やがて高村は長い沈黙を破り、渋い顔のまま言葉を続けた。


「……外交カードとしては百点満点なんだよな。だが、救護課としては頭が痛い話だ」


「えっ……」


「加護は人を救う力になるが、同時に人を甘やかす。自分の命をお前に預ける連中が必ず出てくる。……桐嶋、その重さを背負えるのか」


 突きつけられた問いに、莉理香は返す言葉を失った。胸奥にある竜核が、ずしりと重く脈動する。自分が抱え込んでいるものの大きさが、あらためて現実の重みとしてのしかかる。


 重苦しい空気を破ったのは、高村の深い溜息だった。


「……だが、報告したのは偉い。隠すほうがよほど危ういからな。

 桐嶋、これからも“全部を背負うな”。貸す相手、救う相手はお前が選べ。わかったな」


 莉理香は唇を噛み、ぐっと息を飲み込む。そして力強く頷いた。


「……はい」


 短い返事に込められた決意を読み取ったのか、高村の表情がほんのわずかに緩んだ。


「よし。それでいい。お前は救護課員なんだ。それを忘れるな」


 課長室を後にし、長い廊下へ出ると、莉理香は大きく深呼吸をした。固まっていた肩の力が抜け、ようやく自分が現実に戻ってきた気がする。


 そのとき、胸奥からラギルの声が響いた。


『……人の上に立つ者はよく見ているな。あの男の言葉は、竜神であるお前にも必要だろう』


(……はい。でも、“背負いすぎない”って……難しいですね)


『だから選べと言ったのだ。お前の意志で』


 莉理香は小さく頷き、足を進めた。

 ――竜神である前に、一人の救護課員として。

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