第43話 精霊なしで、風は吹く。
会議室の空気がようやく落ち着きを取り戻した頃、莉理香は椅子から立ち上がり、集まった候補者たちに向き直った。
誰もが期待と不安を抱え、背筋を伸ばして彼女の言葉を待っていた。
「……まず最初に、ちゃんとお伝えしておきます」
莉理香は両手を前に差し出し、ゆっくりと指を開く。
その所作だけで緊張が走り、息を呑む音が重なった。
「私の力は、精霊とは違います。精霊が契約者を守るときのように、自動で“補助”をしてくれるわけじゃありません。
理論を理解して、現象を頭で組み立てないと、何も起こらないんです」
候補者たちが顔を見合わせる中、榊は横で満足げに頷いていた。
「たとえば“冷気”を作るなら――熱をどこから奪って、どこに逃がすのか。
“雷”を撃つなら――電荷をどの経路で流すのか。
……それを理解して、はっきりイメージしないと、力は動いてくれません」
莉理香は掌に小さな冷気の核を生み出して見せた。
白い霜が机上に広がり、置かれていた水滴が瞬時に凍る。
「私の場合は、もう身体に染みついているから、ほとんど反射でできます。
でもみなさんは……ちゃんと“理屈”を積み上げてやらないと、発動しないと思います」
一人の眼鏡をかけた青年が小さく手を挙げた。
唇を震わせながら、それでも勇気を振り絞るように。
「……ということは、物理化学をきっちり理解すれば、私たちにも……?」
「はい」
莉理香ははっきりと頷いた。
「勉強すれば必ず届きます。才能や相性に振り回されずに――“理解した人”なら誰でも。だから、これは明確な希望と言えます」
その一言で、会議室の空気が揺れた。
長く塞がれていた扉が開き、差し込む光を見たかのように。
胸奥でラギルが低く唸る。
『……理屈を理解せねば扱えぬ、か。骨の折れる仕組みだが……人間には合っているのだろう』
(そう。だからこそ“努力が報われる”。今まで精霊に振られてきた人たちが、努力次第で力を得られるなら……それってすごく公平じゃない?)
ラギルは鼻を鳴らした。
『ふん……お前は相変わらず甘い。だが、理に適っている。学べば開かれる道――竜の理としても悪くはない』
莉理香は両手を下ろし、全員を見渡した。
「……だから、全員に今すぐできるとは言えません。でも、道はあります。
私は――その道を開く手助けをしたい」
静かな宣言に、候補者たちは一斉に頭を下げた。
涙ぐむ者もいれば、拳を握り締める者もいた。
榊の瞳は研究者としての興奮に燃え、声を弾ませた。
「……これでようやく、“契約できなかった者たち”に光を示せますね」
莉理香は小さく息を吐き、苦笑を浮かべた。
「ただ、私を便利な道具だと思ったら、怒りますから」
候補者たちは慌てて首を横に振る。
胸奥でラギルが「フフ……」と愉快そうに笑った。
――そこで榊が、わずかに眼鏡を押し上げながら声を落とした。
「……それと、大事なことを一つ追加しておきます」
室内が再び静まる。
「契約を結ぶことで、桐嶋さん――桐嶋先生からも積極的に力を送れるようになります。
ただし……私はそれで一度、身体が破裂しかけました」
候補者たちが息を呑む。榊は淡々と続けた。
「つまりもし、力を悪用しようとすれば……桐嶋先生の意思ひとつで、あなたたちの身体を自由に“爆散”させることだって可能です」
空気が凍りついた。
誰もが顔を強張らせ、恐怖に飲み込まれる。
「……えっ」
莉理香は思わず素で声を漏らした。
「ちょ、榊さん!? そんな脅し方しなくてもいいじゃないですか! ……いや、確かにできちゃいますけど! 人を爆散させるとか、絶対にやりたくないですよ!?」
彼女の叫びに、候補者たちは苦笑とも安堵ともつかぬ息を吐いた。
榊は真剣そのものの顔で「抑止力です」と答え、ラギルは胸奥で声を殺して笑い転げていた。
――こうして、桐嶋莉理香を媒介とした“新たな契約”は、希望と緊張、そして妙な脅し文句に包まれながら幕を開けたのだった。
***
研修室の中央に、透明な結界が展開された。
机の上にはガラス板や計測器が並び、赤や緑のランプが規則的に点滅し、研修室全体に緊張感を与えていた。
候補者たちは一列に椅子へ腰掛け、息を詰めてその光景を見守っていた。
ここでの一瞬が、彼らの「精霊術師」への道が開かれるかを分けるかもしれない――そんな重みがあった。
榊が姿勢を正し、促すように手を掲げる。
「では――まずは“風”から試しましょう。最も単純で、危険も少ない」
名指しされたのは、眼鏡をかけた青年だった。
知識は豊富そうだが、実際に「術」を発動させた経験はない。彼の肩は小刻みに震え、握った拳は冷たく濡れていた。
「……桐嶋さん、その……お願いします」
か細い声。
緊張に押し潰されそうな青年に、莉理香は柔らかな笑みを浮かべて答えた。
「大丈夫。怖がらなくていいです。……少しだけ、私を通して力を使ってみてください」
そっと右手を差し伸べる。
青年は恐る恐るその掌に触れた。
次の瞬間、莉理香の竜核がわずかに脈動し、淡い熱の流れが青年の身体へと注ぎ込まれていく。
彼は深呼吸をし、額に浮かぶ汗を拭おうともせず、必死に頭の中で理屈を組み立てていった。
「……空気は分子の集まり。温度を上げれば分子は速く動き、下げれば遅くなる。
ここを温めて、こっちを冷やせば……圧力差が生まれる……」
声が震えるたび、結界の空気がかすかに揺らめいた。
そして――
がさり、と紙片が舞い上がる。
「……っ! で、できた……!?」
青年の瞳が大きく見開かれ、息が止まる。
榊は瞬時に計測器を確認し、目を輝かせて叫んだ。
「間違いありません、確かに空気の流れが発生しています!」
だが、その興奮に水を差すように、莉理香が首を傾げた。
「……いま温度差を使ったんですか?」
青年ははっとして、慌てて頷いた。
「は、はい。加熱と冷却をイメージして……」
「なるほど。でも、圧力差を直接作る方法でも同じ結果が出せますよ」
榊が前のめりに指摘する。声には研究者特有の熱が宿っていた。
青年は一瞬戸惑ったが、すぐに顔を上げ、理解の光を瞳に宿した。
「……そうか! 温度を変えなくても、直接“こっちを高圧、こっちを低圧”と定義すれば……」
呼吸を整え、再び意識を集中する。
今度は温度のイメージを捨て、圧力そのものを操る感覚を描き出す。
――ふわり。
結界内の紙片が再び宙を舞った。
先ほどよりも滑らかに、そして一定の流れを伴って。
「……っ、できた……! 二通りで……!」
自分の手を見つめる青年の頬を、驚愕と喜びが交互に染める。
莉理香はぱちりと瞬きをして、ふっと微笑んだ。
「なるほど、そういう風の動かし方でも良いんですね。理屈が通ってれば、ちゃんと現象になる」
榊も深く頷き、計測データを走り書きしながら言葉を重ねる。
「ええ。つまり――“理論の道筋さえ正しければ、複数の解法が成立する”ということです」
青年の肩はまだ震えていたが、その顔には確かな自信が芽生えていた。
「……自分でも……やれるんだ……!」
掠れる声に、他の候補者たちは息を呑んだ。
そして互いに視線を交わし、小さく頷き合う。
その目に宿ったのは、確かな希望の光だった。
胸奥で、ラギルがぼそりと呟く。
『……フン。人間も案外やるものだな。理解すれば、力は応える……確かに竜の理に似ている』
莉理香は心の中で小さく笑みを返した。
(でしょ? 努力がちゃんと報われるなら――この人たちに貸す価値、あるよね)
最初の成功に湧き立つ空気の中、次の候補者が静かに一歩前へ出た。
白衣の裾を思わせる淡い色のブラウスを着た、落ち着いた雰囲気の女性。榊の紹介によれば、医療関係の現場で働いているという。
人を救いたいという気持ちは人一倍強い――だがその瞳の奥には「私にできるのか」という不安の影も色濃かった。
彼女は深呼吸を繰り返し、ためらいながらも莉理香の掌にそっと手を重ねる。
――竜核が脈打ち、温かな力が細い糸のように彼女の体へと渡っていく。
「……っ」
女性の額に汗が浮かび、顔が苦痛に歪む。
結界の中では空気がかすかにざわついたが、それはすぐに霧散し、風と呼べるほどの動きにはならなかった。
「……失敗、ですか……」
小さな声と共に肩が落ちる。
その悔しげな表情は、これまで何度も「契約に失敗した」と告げられてきた過去を思い出しているかのようだった。
だが、莉理香はすぐに首を横に振った。
そして優しい笑みを浮かべ、言葉を添える。
「いえ。ちゃんと流れは起きています。ただ……イメージが少しぼんやりしていたんでしょうね。
“風を作る”じゃなくて、“この紙を持ち上げるための上昇気流”って、もっと具体的に想像してみてください」
女性ははっとして目を瞬かせた。
今まで「風」という漠然とした概念でしか描けなかった像が、少しずつ鮮明なイメージに変わっていく。
榊が補足するように声を上げる。
「要は理論を頭に描くだけでは不十分なんです。計算や数式だけでなく、それを直感的な“映像”に落とし込まなければ力は収束しません。
思考と感覚の両方が合致して初めて、現象は現れる」
候補者たちは真剣に耳を傾け、互いに頷き合う。
だが当然、すべてが順調にはいかない。
どうしても現象を起こせない者もいた。物理や化学の基礎理解が足りず、理論を組み立てきれないのだ。
榊は即座に「座学からやり直そう」と断言し、全員に等しく次の課題を与えた。
成功と失敗、その差は確かにあった。
だが不思議なことに、誰一人として腐る者はいなかった。
むしろ失敗した者ほど「次こそは」と強い決意を瞳に宿して席へ戻っていく。
胸奥で、ラギルが低く鼻を鳴らした。
『……曖昧な想像で力を動かそうとするとは。危ういことこの上ない』
(そう。でもねラギル――)
莉理香は失敗して俯いた女性の顔を見つめ、心で静かに呟く。
(この人たち、ちゃんと“学ぼう”としてる。諦めずに前を向いてる。だからきっと、大丈夫だと思うの)
しばし沈黙した後、ラギルは不承不承といった調子で返した。
『……フン。お前の目がそう言うなら、見極めるとしよう』
実験を終えた候補者たちは、それぞれの成果を胸に席へ戻っていった。
成功した者の瞳は輝き、失敗した者の瞳にさえ「必ず進む」という強い決意が灯っている。
その光景を見届けて、莉理香は小さく息を吐き、微笑んだ。
「……これなら、みんな必ず一歩ずつ進めますね」
榊は眼鏡を押し上げ、深く頷いた。
その瞳は研究者としての興奮でなおも輝き続けている。
「ええ。桐嶋さん、あなたは――精霊に代わる、新しい契約の形を示したんです」
その言葉に、室内の空気が再び熱を帯びた。
候補者たちの胸に広がるのは、不安ではなく期待。
だが当の本人――莉理香は、肩を竦めて苦笑した。
「そんな大げさな……頑張らないといけないのはみんなですよ」
そう言いながらも、莉理香の胸奥の竜核は確かに脈動していた。
――契約がもたらす、報酬の存在を知る者は莉理香とラギルのみであった。




