第38話 英雄でも怪物でもなく
赤黒い洞窟を後にし、莉理香は地上へと戻ってきた。
外の空気はまだ硫黄を含み熱を帯びていたが、あの灼熱地獄を思えばただの夏の陽射しに等しい。
肩にまとわりついていた冷気を静かに解き放ち、大きく息を吐いた。
「……ただいま、戻りました」
少し掠れた声。
それでも、その一言を聞いた瞬間――待ち構えていた避難民たちから歓声が爆発した。
「女神様だ!」
「ありがとう……ありがとう!」
母親は泣きながら子を抱きしめ、兵士は敬礼し、現地の医師が膝をついて頭を垂れる。
無数の感謝と祈りが、ただ一人の若い女性に向けられていた。
一方で、政府関係者たちは遠巻きにその姿を見つめていた。
顔を青ざめさせ、声を潜めて囁く。
「……あれが人間のやることか?」
「救世主か……あるいは制御不能の怪物か」
その二つの言葉の間で、彼らの喉は凍りついていた。
救護課の仲間は、彼女を迎えながらも、どこか苦い表情を隠せなかった。
三浦がタオルを差し出し、無理に笑みを作る。
「おかえり。……ほんと、あんたって子は」
山崎はぼそりと続ける。
「素手でぶん殴って、冷気で群れを止めて、最後は流星群だ。――もう、完全に人間やめてるよな」
だがその言葉に、三浦が小さく首を振った。
「でも見て。いまの顔……ただの二十代の女の子だよ」
仲間たちの視線の先で、莉理香は仮設のスーツケースに腰を下ろし、差し出された水を一気に飲み干していた。
肩で息をつきながら「さすがにちょっと疲れたぁ……」と小さく呟くその姿は、英雄でも怪物でもなく、ただの若い女性そのものだった。
仮設テントの隙間を抜ける風は、まだ硫黄の匂いを含んでいたが、昼間の焦げるような熱気は和らいでいる。
救護課の一行は荷をまとめ、翌日の撤収に備えていた。
そのとき――小さな影が駆け寄ってきた。
やせ細った体に、焦げ跡の残るシャツ。
まだ十歳にも満たないだろう少年が、手に折り紙のようにたたんだ紙片を握りしめている。
「……ありがとう」
拙い日本語だった。
周囲の大人が慌てて追いかけてきたが、少年は真っ直ぐに莉理香の前に立ち、震える手で紙片を差し出した。
そこには、拙い文字と子供らしい絵。
黒い雲と炎の下に、小さな家族と――白い光を放つ女の姿が描かれていた。
「……ぼくの、おかあさん、たすかった」
途切れ途切れの言葉。
だがその瞳は涙に濡れながらも、まっすぐに莉理香を射抜いていた。
莉理香は膝を折り、少年の目線に合わせる。
そっと肩を抱き寄せ、柔らかく微笑んだ。
「よかった。……あなたのお母さんが元気で、本当に、よかった」
少年は頷き、泣き笑いの顔で彼女の胸に飛び込んだ。
小さな体の震えが、彼女の胸に温かく伝わる。
遠巻きに見ていた救護課の仲間たちは、言葉もなくその光景を見守った。
三浦がぽつりと呟く。
「……ああ、やっぱり桐嶋は怪物でも女神でもなく、ただの救護員だね」
山崎が静かに頷く。
「そうだな。子供の“ありがとう”を聞くために、あいつは全部やってんだ」
大人たちは怪物か救世主かと議論を続けている。
だが、一人の子供の声は――莉理香にとって何よりも真実の報酬だった。
救護課の仲間に囲まれ、子供の「ありがとう」を受け止めた光景は報道班のカメラに鮮明に収められ、映像は即座に各局へ送られていた。
――そして数時間後。
現地政府と探索者協会の共同記者会見が、仮設のテントの一角で始まった。
会場は瓦礫を片付けただけの広場に簡易の舞台とマイクを据えただけ。
それでも、この場に集まった人々にとっては十分に神聖な空間だった。
ジャーナリスト、地元テレビ局のスタッフ、協会の広報ドローン。
仮設の照明に照らされた舞台に、視線と期待が一斉に集中する。
「それでは……本日の作戦で中心的な役割を果たした救護課の桐嶋隊員に、現地の方からお話を伺いたいと思います」
司会役の協会職員の声が響く。
テントの隙間から吹き込む風は硫黄の匂いを運んでいたが、観客の呼吸は固く、誰もが舞台の奥から現れる姿を待っていた。
――そして舞台袖から現れたのは。
数時間前まで冷気の奔流で灼熱の魔物を粉砕していた、一人の女性。
黒髪を後ろでひとつにまとめ、薄手の救護ジャケットを羽織った姿は清潔感にあふれていた。
だが表情はどこか緩んでいて、記者たちが期待する“英雄の仮面”からはほど遠い。
「え、えっと……桐嶋莉理香です。よろしくお願いします」
マイクの前で小さく会釈。
声は驚くほど普通――いや、拍子抜けするほど可愛らしかった。
さきほどまで暴力的な冷気を操っていた人物とは、とても結びつかない。
会場に一瞬の沈黙が走り、次いでカメラのフラッシュが一斉に光る。
通訳を介した現地メディアの質問が飛んだ。
「あなたは、戦闘の最中にも傷一つ負わず、疲労もほとんど見せませんでした。どのようにして可能なのですか?」
厳しい声。背後で現地政府の幹部たちが固唾を呑む。
張り詰めた緊張が会場全体を覆った。
だが、当の本人――莉理香は、ほんの少し首を傾げ、手にしたペットボトルを両手で抱えて一口飲むと、あっけらかんと笑った。
「えっと……人より、ちょっと頑丈なんです。さすがに少し疲労は感じていますよ?特に、今日はよく動いたから喉が乾きました」
――拍子抜け。
会場にいた全員の緊張が、一瞬で宙に浮いた。
救護課の仲間たちが慌てて咳払いをし、三浦が小声で「もうちょっと言い方……」と呟く。だが本人はまるで気にしていなかった。
すかさず別の記者が質問を重ねる。
「子供たちの間では“女神様”と呼ばれています。ご自身はどう感じますか?」
莉理香は少し目を丸くし、頬を指で掻いた。
「……いやいや、女神様だなんて。私、ただの救護員ですよ? でも……さっきの男の子の“ありがとう”が、一番嬉しかったですね」
その声は戦場を支配した冷気の暴虐とは真逆。
ただの二十代前半の女性が照れ笑いしているだけにしか見えない。
しかし、会場の人々の胸には逆に強烈な印象を刻みつけていた。
人外の力を誇示するでもなく、政治的に飾り立てるでもない。
ただ、救えた命を喜ぶ。
――その無防備なほど人間らしい姿が、彼女を本当の意味で特別にしていた。
舞台脇で腕を組む山崎は、ぽつりと呟いた。
「なあ、やっぱり世間様で言ってるような怪物じゃねぇな。……どっからどう見ても、ただの女の子だ」
「でも、あんな子が素手で魔物を殴り飛ばしてんだから、世の中わからないよね」
三浦が小さく笑い、肩をすくめる。
会場の熱は収まらず、次々と質問が飛ぶ。
莉理香はそのたびに、素直に、あっけらかんと答えていく。
怪物でも女神でもない。
ただ、人を救いたいと願う――一人の救護員として。
***
記者会見の舞台を降りた莉理香は、救護課の仲間に半ば引っ張られるようにして控室へと移動した。照明の熱と人々の視線から解放されると、彼女は思わず肩の力を抜き、深く椅子に沈み込んだ。
「おつかれ」
三浦が冷えたおしぼりを差し出す。
莉理香はお礼を言いながらそれを受け取り、頬に押し当てた。
額に汗はない。けれど、ほんのりと火照る肌が赤らみ、仲間たちの視線を引き寄せる。
「ほんとに、そこまで疲れてるように見えないな」
山崎が感嘆まじりに言った。
腕を組み、じろりと彼女を観察するその目は、仲間というより医師の臨床眼に近かった。
「普通なら、あれだけ動けば息もあがる。筋肉だって悲鳴を上げてるはずだ。なのに、おまえ……」
「んー……不思議と、平気なんですよね」
莉理香は首をかしげながら、あっけらかんと答える。
筋肉痛もない。呼吸もすぐに整った。
あれほどの冷気を叩き込み、流星群めいた攻撃を撃ち込んだばかりだというのに――。
――その理由を、彼女は知っていた。
(……あの“ダンジョン核”が消えたとき)
洞窟最奥で見た赤黒い結晶。
それを砕いた瞬間、竜核が反応し、その破壊の奔流を余すことなく吸い上げた。
抵抗など許さず、光も熱も魂も、すべてが胸奥の竜核が喰らい尽くした。
その衝撃は、まるで心臓がもう一つ芽生えたかのようだった。
だが今は、渦を巻く奔流も落ち着き、血肉に溶けるように全身へ馴染んでいく感覚がある。
(私の中に……染み込んだ?)
ただ強くなったわけではない。
魔素の循環は呼吸と同じくらい自然で、走れば血流の延長として風が纏い、拳を握れば骨格が竜爪を求める。
まるで最初から自分がそういう存在だったかのように、違和感は消えつつある。
――そして、その意識に寄り添う声がある。
『……ようやく飲み込んだか』
ラギルの低く重い声。
その響きは、どこか懐かしい共鳴にも似ていた。
「ラギル……これは、一体……」
『おまえの竜核が、ダンジョンの核を喰らったのはわかるな?』
声音は淡々としている。だが、その奥に確信と、微かな畏れが混じっていた。
『あれは空間を維持する根幹の力。魂片を吸うのとは桁が違う。
並の器なら一瞬で潰れ、灰すら残さぬ。……だが、おまえは既に“竜”の型を持っている』
莉理香は思わず胸に手を当てた。
鼓動は穏やか。けれど、その奥にもう一つの律動が重なっている。
「私は……どうなってしまったの?」
『確実に、今までとは異なる次元へ進んだ。否応なく、な。
だが恐れるな。力は暴走するためではなく、在るべきところに収まるものだ』
ラギルの声は、珍しく優しく響いた。
師の助言にも、同胞の共鳴にも聞こえるその響きに、莉理香の胸が少し和らぐ。
彼女は瞳を伏せ、長く息を吐いた。
仲間が心配そうに覗き込むが、莉理香はすぐに笑顔を作る。
「ごめんなさい、大丈夫。ただ……ちょっと、不思議な感覚がして」
三浦が眉をひそめ、肩をすくめた。
「不思議、ねぇ……まあ、あんたの場合それが普通なんだろうけど」
それ以上会話は深まらなかった。
仲間であっても、彼女の力の根源までは知り得ない。
人類はまだ、ダンジョン核が“人に吸収される”などという現象を想像すらしていないのだから。
外ではまだ、避難民たちのざわめきが続いていた。
「女神様だ」と叫ぶ声と、「制御不能の怪物では」と恐れる声。
相反する評価が渦巻き、テントの薄布を震わせる。
莉理香はそっと空を仰ぎ、胸の奥で小さく問うた。
(私は……人間のままで、いられるよね?)
問いは風に溶け、ラギルは答えなかった。
だが胸奥の律動は、確かに彼女自身の鼓動として刻まれ続けていた。




