記録05 ケイとアイ
2人にフォーカスします。少しでも主役の2人のことを知っていただければ嬉しいです。
*改稿版 記録05です。
以前に投稿したものは
星屑の源に保存しています。
興味があれば是非手に取ってみてください。
医務室を出ようとしていたケイの背中へ、小さなカプセルが飛んだ。
振り返ることもなく右手を上げると、硬質な感触が掌に収まる。半透明の容器を軽く振れば、中で数粒の錠剤が乾いた音を立てた。
「……なんだ、これ」
「見りゃ分かるだろ。薬だよ」
背後では、ジャックが机上に投影された検査結果を睨んでいる。診察そのものはすでに終わっていたが、空中に残された数値や波形のいくつかには、正常域から僅かに外れたことを示す表示が明滅していた。
ジャックにとって重要なのは、原因が分からないままケイの身体に変化が起きているという、その事実だった。
ケイは掌のカプセルへ目を落とした。
「頭痛薬か」
「ほら、オリジナルブレンドの頭痛薬だ。お前みたいな無茶するやつには特別調合してやるよ」
「頼んでねぇぞ」
「だったら返せ」
黒い手袋に覆われた手が差し出される。
ケイはジャックの手とカプセルを交互に見たあと、取り上げられる前に外套の内側へしまい込んだ。
「……助かる」
ジャックの眉が僅かに上がった。
「随分と素直じゃねぇか」
「うるせぇ」
「痛んだら飲め。勝手に量を増やすなよ」
「分かってる」
「お前の『分かってる』は信用ならねぇんだよ」
ケイは面倒そうに鼻を鳴らし、そのまま自動扉へ向かおうとした。
「それと、K」
足が止まる。
「今度はなんだ」
ジャックはすぐには答えず、ケイの身体を眺めた。視線が向けられた場所に気づいたのか、ケイも僅かに目を伏せる。
「傷は?」
短い問いだった。だが、その意味を確かめる必要はなかった。
服の下――胸郭の片側には、今も大きな傷痕が残されている。
刃物で裂かれたような傷ではなく、小さな弾丸に穿たれたものでもない。胸元には掌では覆いきれないほどの歪な痕があり、何か巨大なものがそこから身体へ突き入り、肉も骨も、その奥にあるものさえ押し退けながら背中まで一息に貫いた――そうとしか思えない傷だった。
胸側の皮膚は大きく引き攣れ、かつて開いていたはずの空洞を塞ぐように、周囲の組織が中心へ向かって歪に癒着している。背中側にも同じような痕が残され、その二つが身体の内部を一直線に結んでいることは、先ほどの走査でも確認されていた。
本来なら、その間にあったものごと失われていてもおかしくない。それでも傷は閉じている。
綺麗に治癒したわけではなかった。裂け、潰れ、失われたものを、残された組織が互いを求めるように伸び、無理やり一つの身体へ繋ぎ止めた――そんな異様な癒着痕だった。
治った、と呼ぶにはあまりにも乱暴だ。それでも、ケイは生きている。
彼は無意識に、服の上から胸元へ手を添えた。
「別に。何ともねぇよ」
「痛みは?」
「ない」
「息苦しさは」
「ない」
「背中は?」
「何ともねぇ」
返事はいつも通り素っ気なかったが、胸元へ添えられた手はすぐには離れなかった。
痛みを確かめているわけでも、傷を庇っているわけでもない。その指先にはむしろ、普段のケイには似つかわしくないほど穏やかなものがあり、まるで傷が今もそこに残っていること自体を確かめているようにも見えた。
ほんの一瞬だけ、その眼差しが遠くなる。
ジャックは気づいた。だが、何も聞かなかった。眼鏡を指先で押し上げると、いつものぶっきらぼうな声に戻る。
「……ならいい」
ケイも何も言わず、胸元から手を離した。
今度こそ自動扉へ歩き出す背中へ、ジャックが声を投げる。
「K」
「まだあんのかよ」
「薬、忘れんな」
ケイは振り返らなかった。代わりに片手だけを軽く上げ、そのまま医務室を出ていく。
自動扉が閉じると、室内には装置の低い駆動音だけが残された。ジャックはしばらく扉を見つめていたが、やがて小さく息を吐いて机へ向き直る。空中にはまだケイの検査結果が残されていた。
今すぐ致命的な異常ではない。
だからこそ、気味が悪い。
そして何より厄介なのは、本人に自分の身体を労わるという発想がほとんどないことだった。
ジャックは眼鏡を外して目頭を押さえると、誰もいなくなった扉へ小さく呟いた。
「……ちゃんと飲めよ、馬鹿野郎」
指先が操作面へ触れ、ケイの検査結果が静かに消えていった。
船体後部――主機関区画。
幾重もの隔壁を越えたその先では、医務室とはまったく異なる意味での〝治療〟が始まろうとしていた。
ヴェルヴェット号の心臓部に近いこの一帯では、完全な静寂が訪れることはない。主機関から伝わる低い振動が金属床を絶えず震わせ、壁際に吊られた工具がときおり触れ合っては、乾いた音を立てている。頭上では剥き出しの配管が複雑に交差し、圧力調整弁が短く息を吐くたびに、熱せられた金属と機械油、冷却材の匂いが入り混じった空気が僅かに揺れた。
その一角に、ジークフリードの整備室がある。
広くはない。
壁際には工具棚や交換部品、冷却材の容器、用途の分からない電子部品が隙間なく並び、作業台には分解途中の機器が置かれたままになっている。一見すれば雑然としているが、ジーク本人にとっては、どこに何が置かれているのか完全に把握された作業場だった。
その中央にだけ、周囲とは明らかに異質な装置が据えられている。人ひとりを収められる縦長のメンテナンスポッド。
流線形の外殻には、異なる規格の接続端子や製造年代の違う制御基板、後付けされた冷却管が組み込まれ、至るところにジーク自身が手を加えた痕跡が残されていた。
既製品の規格だけでは、アイの身体を扱いきれない。
必要になるたびに機能を追加し、使える部品を探し、合わなければ加工する。そうして改修を繰り返した結果、今ではヴェルヴェット号の中で唯一、アイを本格的に整備できる専用設備になっていた。
ジークは作業台からゴーグルを取り上げると、乱雑に額へ押し当てた。透明だったレンズに複数の情報が流れ始め、診断装置との接続が完了する。
「始めるぞ」
「お願いいたします、ジーク様」
アイは静かにポッドへ足を踏み入れた。
肩から流れ落ちる白銀の髪、透き通るような白い肌、青い瞳。外見だけなら二十代後半ほどの一人の女性にしか見えず、細身で均整の取れた身体は、呼吸に合わせるようにごく自然な周期で胸元を上下させている。
何も知らない者が見れば、彼女を機械だと疑う理由などないだろう。
だが、ジークが制御盤へ触れた瞬間、その印象は一変した。
低い電子音とともにポッドの周囲から走査光が放たれ、頭頂から足先までを速度と波長を変えながら何度も往復する。表皮温度、内部圧力、電気伝導、人工血管内の流量、筋組織の収縮応答――読み取られた情報が次々と処理され、ジークの正面へ半透明の立体像として組み上げられていった。
そこに映し出されたアイには、皮膚がない。
骨格に似た支持構造を幾層もの人工筋組織が包み込み、その間を無数の細い管が走っている。ヒトの身体を模した部分もあれば、明らかに生物とは異なる構造もあり、それらが驚くほど緻密に一つの身体へ収められていた。
あまりにもヒトに似ている。
そして――決定的にヒトではない。
ジークが指先を滑らせると立体像が回転し、右肩が拡大された。
「右肩、表層組織に微細断裂。左大腿部にもあるな。右手首は駆動負荷が偏ってる。……先日の戦闘か」
「その可能性が高いと推測します」
「推測じゃなくて確定だ」
ジークは表示倍率を上げた。肉眼では何の異常も見えない右肩の内部で、人工筋線維の一部が髪の毛よりも細い単位で裂けている。
「自覚症状はありません」
「お前の自覚症状は当てにならん。痛覚を任意で切れるやつが言うな」
「合理的な機能だと思いますが」
アイの口元へ僅かな笑みが浮かぶ。
ジークは呆れたように鼻を鳴らした。
「壊れたことに気づかないなら合理的とは言わん。神経系は?」
その問いにアイの表情から笑みが消え、瞼が僅かに下がった。
「全域同期を確認します」
意識を自らの内部へ向けるように、アイの身体が静止する。
肉眼では何も起きていないように見えたが、ジークのゴーグルには、頭部から全身へ膨大な信号が一斉に広がっていく様子が映し出されていた。
中枢から肩、腕、指先へ。胸部から腹部を抜け、脚部へ。無数に枝分かれした信号は末端へ到達すると、ほとんど遅延なく折り返してくる。
ヒトの神経系を思わせる。だが、その情報量も伝達速度も、生物のそれとは明らかに違う。
「同期完了。局所的な伝達遅延を二箇所検出しましたが、いずれも許容範囲内です」
ジークは自分の診断結果と照合し、僅かに目を細めた。
「……相変わらず速いな」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「では、感想として受け取っておきます」
「好きにしろ」
ジークは表示を閉じると、ポッドの固定工程へ移った。
柔らかな保持具がアイの手首、足首、腰部を包み込む。身体を拘束するためではなく、この先の工程で生じる僅かな動きさえ修復精度へ影響するためのものだった。
やがて右側の容器に光が灯った。内部に満たされているのは、淡い紫色を帯びた液体。
――ライトブラッド。
その名の通り『Light Blood――光の血』と呼ばれるアイ専用の人工血液だった。
ヒトの血液とは異なり、体内を巡りながら熱を受け渡し、内部環境を維持し、各部へ修復に必要な物質を送り届ける。そして何より特徴的なのは、その名称が比喩ではないということだった。
ライトブラッドは、光る。
平常時の輝きは弱く、アイの白い肌を透かしても注意深く見なければ分からない。しかし胸部に収められた核融合炉が高い出力で稼働すれば、人工血液はそこから供給されるエネルギーに呼応し、まったく異なる姿を見せる。
「循環系、接続」
ジークの操作に応じ、ポッド内部の機構が作動した。
「炉心出力を整備モードへ」
「了解しました」
アイが静かに瞼を閉じる。
その直後、胸の奥で青白い光が灯った。
幾重もの遮蔽構造に守られた胸部深層――そこに収められた超小型核融合炉が起動し、閉じ込められていたエネルギーが安定した脈動を始める。
その輝きに呼応するように、炉心近くを走る人工血管へ青紫色の光が走った。
最初は一本だった。
しかし光はすぐに枝分かれし、胸部から肩や首筋、腹部へ広がっていく。やがて容器の中のライトブラッドも淡い輝きを帯び、低いポンプ音とともに透明な管を満たしていった。
「ライトブラッド、循環開始」
新しい人工血液がアイの身体へ流れ込む。その瞬間、彼女の全身へ光が広がった。
胸元から肩を抜けて腕へ、そこから指先へ。さらに腹部から腰、腿を通って足先へと、青紫と赤紫の輝きが白い皮膚の下を流れていく。
人工血液そのものが発光しているため、普段なら見ることのできない血管系が無数の光脈となって浮かび上がっていた。太い流れから細い枝が分かれ、末端まで届いた光が別の経路へ合流しながら胸部へ戻っていく。
核融合炉が脈動するたび、その色彩も僅かに変わった。
青紫から赤紫へ。
そして、再び青紫へ。
その一瞬だけは、短い言葉の方がよく似合った。胸の奥に灯った小さな星から、光そのものが血となって全身へ送り出されている。
暗かった整備室も、いつしかその輝きに染められていた。工具棚の金属面には紫色の光が反射し、透明な配管の輪郭が淡く浮かび上がる。白銀の髪にも青と赤紫の色彩が溶け込み、光の流れに合わせて異なる表情を見せていた。
その中央に立つアイは、もはや単に機械ともヒトとも形容し難かった。
透き通るような白い肌の内側を、青紫と赤紫の血が流れている。その中心では青白い核融合炉が絶えず脈動し、そこから送り出された輝きが全身の末端へ届くたびに、彼女という存在そのものが静かに光を放っていた。
機械であることを隠していた身体が、今だけはその本質をさらけ出している。
それでも、その姿は無機質ではない。
むしろ――美しかった。
ジークは何度も見ているはずの光景を、ゴーグル越しにほんの数秒だけ見つめた。
「……何度見ても、妙なもんだな」
アイがゆっくりと瞼を開く。青い瞳にも、自らの身体を巡る紫色の光が映り込んでいた。
「何がでしょうか」
「血が光るってのはな。普通は血管なんて、見えない方が当たり前だ」
アイも自分の腕へ視線を落とした。白い皮膚の下では、青紫色の光が指先まで流れ、そこで赤紫へ色を変えながら別の経路を通って胸部へ戻っている。
「ライトブラッド――Light Blood」
自らの血液の名を、アイが静かに口にした。
「単純な名称ですね」
「分かりやすくていいだろ」
「否定はいたしません」
口元へ小さな笑みを残したまま、アイは再び自らの身体を巡る光を眺める。
その間にも胸の奥では炉心が脈打ち、そのたびに血が輝き、血が巡るたびに全身の光脈が浮かび上がっていた。
ジークはその光景を眺めるのをやめ、循環量を一段階引き上げる。
「さて。綺麗なのはここまでだ。中身を見るぞ」
右肩を流れていたライトブラッドの明滅が、周囲とは異なる周期へ変わった。青紫から赤紫へ強く色を変え、短い間隔で繰り返し脈打っている。
損傷部だった。
ライトブラッドはただ美しく光っているわけではない。アイの身体を巡りながら熱を運び、内部環境を整え、必要とされる場所へ修復に用いる物質を送り届けている。
同時に、反対側から無色透明の液体が別系統へ送り込まれた。こちらは人工リンパ系だった。
二つの流れが混ざり合うことはない。光り輝くライトブラッドが人工血管を巡る一方で、透明な除染液は別の経路から組織間へ入り込み、内部に蓄積した異物を拾い上げていく。
ほどなくして排液側の管が動き、古いライトブラッドが流れ出してきた。新しいものと比べれば輝きは鈍く、僅かな濁りも見える。
ジークの眉が寄った。
「……随分汚したな」
アイも排液へ視線を向ける。
「申し訳ありません」
「謝るな」
「ですが――」
「使えば汚れるし、壊れもする。それを直すのが俺の仕事だ」
ジークは排液の一部を採取し、診断装置へ送った。人工筋組織から剥離した微細な破片、高熱によって変性した構造物、外部から侵入した金属粉。それらが拡大表示されるのを確認すると、呆れたように息を吐く。
「これだけ出てて、よく平然としてたな」
「活動に支障を来す水準ではありませんでしたので」
工具へ伸びかけたジークの手が止まった。
青紫と赤紫の光を纏うアイを横目で見て、何かを思い出したように鼻を鳴らす。
「……そういうところがケイとそっくりだ」
アイの視線が、それまで追っていた排液表示からゆっくりと外れた。ほんの僅かな反応だった。だが、ジークは見逃さなかった。
「……ケイと、ですか?」
「ああ。動けるうちは問題ない、壊れるまでは使える。二人揃って同じようなこと言いやがる」
アイはすぐには答えなかった。全身を巡る光が、その横顔を青紫に染めている。
「似ていますでしょうか」
「似てるよ」
「……そうですか」
声が、ほんの少しだけ静かになった。
ジークはそれ以上追及せず、右肩の修復工程へ移った。
「少し刺激が走るぞ」
「はい」
低い作動音とともに、損傷部へライトブラッドが集まり始める。青紫だった光が赤紫へ濃く変わり、右肩だけが周囲より強く輝いた。
現在の構造と、損傷前に保存されていた情報が重ね合わされる。裂けた人工筋線維の断面、電気伝導、収縮率、内部応力。そのすべてが比較され、ズレが色の濃淡となって浮かび上がった。
ポッド内部から極細のマニピュレーターが伸び、必要な素材が損傷部へ送り込まれる。断裂した人工筋線維を一層ずつ繋ぎ、周囲の構造へ馴染ませながら、失われた部分を作り直していく。
だが、途中でジークの眉間に皺が寄った。
「……止めろ」
修復工程が停止し、機械音が一段低くなる。
アイが視線だけを動かした。
「問題が?」
「履歴が合わん」
右肩の立体像を拡大し、ジークは一点を指した。
保存されている過去の構造と、現在のアイの身体。その二つの間に、ごく僅かな差異が生じている。
「ここだ。前回の修復記録と形が違う」
アイも表示を確認した。
「自己調整による最適化の可能性があります」
「可能性で身体を弄る気はない」
ジークは迷わず自動修復を切った。
機械任せにすれば数分で終わる工程でも、分からないものを分からないまま繋ぐことはしない。壁際の工具棚から精密作業具を取り出すと、先端に折り畳まれた複数の極小アームを展開した。
「ここは手動でやる」
「お任せします」
「動くなよ」
「固定されています」
ジークがゆっくり顔を上げる。
アイの口元には、ごく僅かな笑みがあった。
「……そういう意味じゃない」
「冗談です」
「誰に似たんだ、お前は」
呆れたように呟きながら、ジークは再び作業へ戻った。
最新の走査装置が内部を映し出し、ポッドが循環を維持し、微細なマニピュレーターが作業空間を確保する。それだけの技術に囲まれていても、最後の接続だけはジーク自身が行った。
ゴーグルに映る数値を睨みながら、指先をほんの僅かに動かす。
極小アームが人工筋線維を掴み、一ミリにも満たない距離を調整する。さらにその何分の一という単位まで位置を追い込み、表示される誤差が0.03から0.01へ縮まっていく。
そして――ゼロ。
「よし」
工具を離すと、修復された人工筋組織がゆっくり収縮し、弛緩したあと、もう一度動いた。周辺組織との連動にも問題はない。
ジークの肩から僅かに力が抜ける。
「右肩、終わりだ」
「ありがとうございます」
「まだだ。次を見るぞ」
表示が切り替わり、アイの胸部が表層から順に透過されていく。人工筋。支持構造。複数の遮蔽層と冷却構造。そのさらに奥にあるエネルギー経路を辿り、診断表示は先ほどから青白い光を放ち続けている胸部深層へ到達した。
――超小型核融合炉。
ジークの表情から、僅かに冗談が消えた。
状態を測ることはできる。周辺設備なら修理もできるし、異常が起きた際にどの系統を遮断すべきかも理解している。それでも、この小さな身体の中へ核融合炉そのものを収める技術だけは、何度見ても常識から外れていた。
「炉心状態」
「安定しています。出力偏差、許容範囲内。封止系正常。冷却系統にも異常ありません」
「温度は?」
アイが数値を答える。
ジークはゴーグルへ表示された診断値と照合した。完全に一致している。
冷却材の流量も正常。
遮蔽層にも損傷はない。
それを確認してなお、ジークはしばらく胸部深層の青白い光を見つめていた。
「……毎回思うが、よくこんなもんをその身体に押し込んだな」
アイは少しだけ首を傾げた。
「私に尋ねられましても、お答えできません」
「自分の身体だろ」
「はい」
「なのに分からんのか」
問いかけながら、ジーク自身も答えを知っていた。
アイは僅かに視線を落とした。
「私自身が把握していない構造も存在します」
主機関から伝わる低い振動が、二人の間へ入り込む。
ジークはアイを見る。青い瞳はいつもと変わらず静かだった。
自分が何でできているのか。
誰が、どのように作ったのか。
そのすべてを、本人ですら知らない。
「……気にならんのか」
「なります」
返答は早かった。
アイは自分の胸元へ視線を落とした。白い皮膚の奥では、核融合炉の光に呼応してライトブラッドが今も静かに脈打っている。
「ですが、分からないものを、分かったことにはできません」
ジークはしばらく黙っていたが、やがて口元をほんの少しだけ緩めた。
「いつか分かるといいな」
アイも僅かに微笑む。
「はい。私も、そう思います」
その後もメンテナンスは続いた。
ライトブラッドの交換と人工リンパ系の洗浄、表層組織の修復、内部応力の再調整、神経伝達の同期補正、冷却系統の点検。狭い整備室に主機関の振動と機械音が重なる中、ジークは一つずつ異常を拾い上げ、それらを確実に正常値へ戻していった。
やがて、最後の診断表示が浮かぶ――正常。
「終わりだ」
ジークが制御盤へ触れると、保持具が緩み、循環管が一本ずつ切り離された。接続部はアイ自身の組織によって速やかに閉鎖され、ポッド内部の液体が排出されたあと、乾燥と冷却の工程が進んでいく。
それまで全身へ浮かび上がっていた光脈も、炉心出力が通常域へ戻るにつれて少しずつ淡くなっていった。青紫と赤紫の輝きが消えていく。最後まで残ったのは、胸の奥にある青白い光だった。
それもやがて白い肌の向こうへ溶けるように見えなくなり、そこに立っているのは、再び一人の女性にしか見えないアイだった。
ポッドの扉が開き、白い蒸気が床を這うように整備室へ流れ出す。
アイは裸足で金属床へ降りると、その場で一度静止した。視覚、聴覚、触覚、平衡感覚、人工血管内の循環、熱交換、内部信号を順番に確認し、最後に右手を開いて指を一本ずつ動かしていく。
続いて右肩をゆっくり回した。先ほどまで存在していた僅かな引っ掛かりは、もうない。
「問題ありません」
返事がなかった。
アイが顔を上げる。ジークは背中を向け、妙に熱心に工具を片付けていた。
「ジーク様?」
「……服を着ろ」
アイは一度、自分の身体へ視線を落とし、それからジークの背中を見る。
「先ほどまで内部構造までご覧になっていましたが」
「それとこれは別だ」
「どのように違うのでしょう」
工具箱の蓋が、少しだけ強く閉じられた。
「いいから着ろ」
アイは数秒ほどジークの背中を見つめたあと、その意味を理解したらしい。青い瞳が僅かに細まり、口元へ悪戯めいた笑みが浮かぶ。
「失礼いたしました」
「……絶対分かっててやってるだろ」
「何のことでしょう」
「もういい」
ジークは振り返らない。
アイは小さく笑いながら用意されていた衣服へ腕を通し、白銀の髪を襟の外へ出した。だが、右肩へ触れたところで笑みが消える。
意識した通りに指が動く。
肩にも異常はない。
損傷は修復されている。
自分なら、異常を見つけられる。
損傷箇所を特定し、循環液を交換し、機能を調整し、失われた部分を作り直すことができる。
では――脳裏に、少し前の光景が蘇った。
緑色の液体を赤だと言ったケイ。味を覚えていないケイ。匂いすら、どこまで感じているのか分からない。それでも彼は、何事でもないように言った。
――取れたんだからいいだろ。
アイの右手がゆっくりと握られる。自分は戻った、完全に。だからこそ、その違いがはっきりと分かった。
「……ケイ」
漏れた声に、ジークが肩越しに振り返る。
「どうした」
アイはしばらく自分の手を見つめていたが、やがて首を横に振った。
「いえ。少し、ラボへ行ってまいります」
「休まなくていいのか」
「必要ありません」
ジークは呆れたように鼻から息を吐いた。
「……お前も大概だな」
その意味を、アイは聞き返さなかった。
「では、行ってまいります」
整備室の扉が開き、廊下から冷たい光が差し込む。アイはその中へ踏み出した。扉が閉じる直前、彼女はもう一度だけ修復された右肩へ触れた。
そこにはもう、異常は残っていなかった。
ラボへ戻ると、照明は落とされていた。
実験に使用した装置の大半は停止しており、先ほどまで室内を満たしていた熱気も薄れている。冷却機構の低い駆動音と、壁面のモニターが放つ淡い光。薬品と金属、それに微かな焦げ臭さだけが、先ほどまでここで行われていた実験の名残を留めていた。
その中央に、ケイがいた。
「ケイ」
呼びかけると、ケイが肩越しに振り返る。
「なんだ」
アイは近づきながら、彼が見ていたものへ視線を移した。
小さな培養容器。透明な液体の中に、ごく僅かな試料が浮かんでいる。
――アーク。
先ほど実験に用いられたものとは別に保存されていた試料だった。
「見ていたのですか」
「ああ」
「変化が?」
「知らん。今来たとこだ」
素っ気ない返事だったが、ケイは容器から目を離そうとしない。
アイはその隣へ立った。肩が触れるほどではない。それでも、二人で同じものを見るには十分な距離だった。
アークは透明な液体の中を静かに漂っている。不定形の小さな塊。一見すれば、何の変化もない。
二人が無言で見つめる時間だけが過ぎていく。
やがて――表面が動いた。
アイの瞳が僅かに細まる。
ケイも気づいた。
「……おい」
塊の一部が、ゆっくりと膨らんでいく。最初はごく小さな隆起にすぎなかったものが、液体の抵抗を押し退けるように形を変え、次第に細長く伸びていった。
その動きは、アメーバが偽足を伸ばす姿に似ていた。一本の細い突起が、何もない空間へ向かって伸びていく。
「なんだ、あれ」
アイはすぐに計測機器を起動した。
停止していたモニターへ次々と光が戻り、温度、圧力、光量、振動、電磁環境、容器内部の化学組成が表示されていく。
「外部刺激に対する反応の可能性があります」
「何に反応してる」
「確認します」
アイの指が操作面を滑る。
その間にも、アークはゆっくりと形を変え続けていた。速い動きではないからこそ、生き物めいた不気味さが際立っている。やがて突起の先端が、透明な容器の内壁へ触れた。
そこで止まった。
ケイとアイは、ほぼ同時にその延長線上を見る。内壁の向こうに立っているのは――ケイだった。
しばらく、冷却機構の低い音だけがラボを満たした。
「……偶然か?」
ケイが呟く。
「現時点では判断できません」
アイは計測結果へ視線を走らせる。温度変化は軽微で、光量や振動、周辺電磁環境にも、この反応と明確に結びつく変化は見当たらない。
「じゃあ何だ」
「分かりません」
ケイは鼻から短く息を吐いたが、容器から離れようとはしなかった。
アークの突起は、なおも内壁へ触れている。ケイの右手がゆっくりと持ち上がった。透明な壁へ指先を近づける。あと僅かというところで止めた。薄い壁一枚を隔て、ケイの指先とアークの突起が向かい合う。
「アイ」
「はい」
「こいつ――」
そこで声が途切れた。
ケイは一度だけ自分の手を見る。拳を握り、開く。今はまだ、意識した通りに動く。
「……神経も戻せると思うか」
アイはすぐには答えなかった。
アークを見て、それからケイの横顔を見る。つい先ほどまで自分が受けていたメンテナンスが脳裏を過ぎった。損傷を見つけ、正常だった構造と照合し、失われたものを作り直す。自分なら、それができる。だが、目の前にいるケイは違う。
そして、アークが行っているものを、自分が受けた〝修復〟と同じものだと考える根拠もなかった。
「分かりません」
アイは静かに答えた。
「先ほど確認された現象では、損傷した組織の再構築だけでなく、増殖も同時に進行していました。そして、形を戻すことと、失われた機能を正常に取り戻すことは同義ではありません」
ケイは何も言わない。
「仮に神経組織へ作用したとしても、それが正常な機能回復へ繋がる保証はありません。むしろ――」
「分かってる」
ケイが遮った。
怒っているわけでも、苛立っているわけでもない。ただ、それ以上聞く必要はないという声だった。
再び沈黙が落ちる。
ケイは容器の向こうにあるアークを見つめた。自分の身体では、何かが少しずつ失われている。原因すら分からない。そして目の前には、正体も分からないまま、壊れた生物の身体を再び形作ったものがある。
しばらくして、ケイは容器へ向けていた手を下ろした。
「……なら、調べりゃいい」
アイが横顔を見る。
「アークを、ですか?」
「ああ。こいつが何なのか、どこから来たのか――何ができるのか」
そこでケイは口を閉じた。
アイは続きを待った。だが、彼は何も言わない。
自分を治せるのか。
その言葉だけは、最後まで口にしなかった。治したいとも、怖いとも、失いたくないとも言わない。
それでもアイには十分だった。
「承知しました」
ケイが横目を向ける。
「何がだよ」
「調べましょう」
「……お前もか?」
「はい」
返答に迷いはなかった。
アイも培養容器へ向き直る。
「私も知りたいのです。このアークが――何であるのか」
ケイは何も返さなかった。だが、立ち去りもしなかった。二人は並んだまま、同じものを見つめる。
静かなラボの中央で、正体も由来も分からない小さな塊が、淡いモニターの光を受けながらゆっくりと形を変えていた。
透明な壁へ伸びた細い突起は、まだ引っ込まない。それが何に反応したのか。なぜ、ケイのいる方向へ伸びたのか。答えは、まだどこにもなかった。
2人の在り方の違和感をなんとなくでも感じていただけるようなシーンになっていたらうれしく思います。また彼らの人体構造、健康状態について比較的端的に、でも詳しく描いてみましたので想像してみてください。
小話
アイの人工血液は薄紫に発光するのでライトブラッドと呼びます。ライトブラッドは心臓部の核融合炉の永続的な活動に必須のエネルギー原です。個体の力で適宜除染をしながら稼働はしていますが、定期的なメンテナンスを行う事でその能力を120%出し続けることが出来るようになっています。そしてケイは…私は医療従事者ですが、まず人間の衰えは芯にある血管などの見えない部分から変化していきます。明らかに症状が表に出るころには深刻な状態と言えます。ではケイはどうでしょうか??




