第9話
ふと、千鳥さんが瞬きをした。
「……あのー……君、いちばん重要なことを言い忘れてる気がするんだけど」
「え」
「大切なのって、喧嘩した理由じゃない?」
「……理由?」
「どうして喧嘩したの?」
訊かれて、考える。
考えながら顔を上げると、千鳥さんの大きな瞳と目が合った。どこか蒼ざめたその瞳は、まるで僕とは違うものを見ているみたいだ。
「……僕が、ある女の子を好きって噂を勝手に流されたんだ。だけどその女の子には彼氏がいて、その彼氏が不良グループみたいなところにいるひとだったから、ちょっと揉めて。それから僕はその彼氏連中から嫌がらせを受けるようになった」
この話は、蝶々さんにしか話したことはなかった。親にすら話せなかった。恥ずかしくて、バカらしくて。
それなのに、なんでだろう。
彼女には、なぜかすらすらと話せてしまう。
千鳥さんはまっすぐ僕を見つめている。
興味本位じゃないと分かる真剣な眼差しに、僕のなかでわずかに残っていた迷いが消える。
「あとから、その噂を流したのが親友だって知った。ショックで問いただしたら逆ギレされて、僕もムカついて……」
だけど、その場所が悪かった。
当時言い争いになったのは理科室。しかも実験中だった。揉み合った衝撃でアルコールランプが床に落ち、火の手が上がった。
「火が燃え広がって……僕は親友の手に、火傷を負わせた」
千鳥さんはしばらく驚愕した様子のまま、僕の手を見ていた。
「それ以来、僕はひとりでいるようになった。ひととかかわるのが怖くなったんだ。……だけど中学のとき、クラスメイトがいじめをしていて、僕はたまたまその場に居合わせて……いじめられっ子を助けようとしたんだ」
いじめられていたのは、かつて怪我させてしまった親友だった。
僕たちはあれ以来話すことはなく、他人になっていた。だから、親友がいじめられているなんて僕はこれっぽっちも知らなかった。
中学で同じクラスになり、その場面に居合わせたときはすごく驚いた。
動揺して、咄嗟に知らないふりをしようかとも思ったけど、できなかった。あのときの罪滅ぼしができるかもしれないと思ったのだ。そんなことをしたって、許されるわけないのに。
「結局、騒ぎを大きくしただけだった。それからはもう、とにかくいろんな噂が広まって、僕と仲良くしようとするひとはいなくなった」
千鳥さんはなにも言わず、静かに僕の話に耳を傾けている。
「……僕は、だれかといるとぜったいにそのひとを傷付けちゃう。だから、ひとりでいるべき人間。……いや、この世に存在しちゃいけない人間なのかもしれない」
何度も死にたいと思った。すべてを投げ出したくなったし、無性になにかに当たりたかった。だけど、そんな勇気はなかった。
僕は拳と奥歯に力を込める。
「……あのさ」
千鳥さんが控えめに口を開く。
「……君は、その友だちを傷つけたことばかりを重要視しているようだけど、違くない?」
「え……」
「汐風くんは、理不尽な目に遭わされたことに対して怒っただけだし、そのあとのことだって、ただいじめられっ子を助けただけだよね? 君、べつになにも悪くなくない?」
その言葉は、まるで真冬の寒空に落ちた太陽の光のように、冷え切っていた僕の心を溶かしていく。
「悪く、ない……?」
「うん。たしかに喧嘩した場所は問題だったし、怪我させちゃったことも反省しなくちゃいけないことかもしれないけど。でも、君は悪くないでしょ?」
まるで風船に穴が空いたように、ぱんぱんにふくらんでいたなにかが萎んでいく。
「そんなことない。僕が悪い」
「いやいや」
息を吐くように言うと、千鳥さんは大袈裟に聞こえるくらいの声で、
「そんなの、君の話をちゃんと聞けば分かることじゃん!」
と言った。そうなのだろうか。
僕は、悪くない?
「僕は……悪くなかったのかな」
言葉を知らない子どものように、たどたどしく呟く。
「うん。悪くない。君は正しい。だから気にする必要なし!」
千鳥さんは大きく頷いて、それからにひっと笑った。
僕は唇を噛み締めて、空をふり仰いだ。見上げた青空は、ゆっくりと滲んでいく。
――君は悪くない。
彼女にそうはっきりと明言されて、感情が込み上げる。
そうなのかな。僕は、悪くなかった?
みんな僕を責めたのに? みんな、僕から離れていったのに?
『悪くない』
僕は、悪くなかった……!
心が悲鳴じみた声を上げた。
「そもそも、どうして汐風くんが悪いことになるのかな……」
千鳥さんは不満そうな口調で言った。
「いつも思うの。週刊誌とかでもさ、女優さんとか俳優さんの人柄が話題になったりするでしょ。この俳優は気さくで親しみやすいだとか、この女優は性格最悪だーとか。みんなそれを当たり前のように信じたりするけど、それって変だよ」
「……どうして?」
「だって、ひととひとって相性でしょ。性格が悪いひとっていう表現は間違ってるよ。だって、そのひとの性格が悪いんじゃなくて、たまたま取材したひととか、そばにいたひとたちと性格が合わなかっただけかもしれないじゃない?」
「合わなかった、だけ……?」
「そうだよ。だから私は、噂よりもじぶんで見たものを信じたい。もし君が学校で悪く言われるなら、私が否定するよ。私が知ってる汐風くんは悪者じゃない。私に猫を触らせてくれた優しいひとだよ、って。だからそんな顔する必要なんて少しもないよ。ね、顔を上げて」
ほろ、となにかが頬に触れた。頬に手を持っていく。見ると、桜の花びらが指にくっついていた。花びらが濡れている。
あぁ、泣いてたんだ、と思った。
堪え切れずあふれ出した涙は、次から次へと頬をすべり落ちていく。けれど、僕の涙を見ても彼女はなにも言わない。ただ、微笑んでいた。
――春はパステル色。
駅の広告かなんかにあったキャッチコピーをふと思い出す。
桜の木を見上げ、隙間から降り注ぐ淡い陽の光に目を細めながら、あれは本当だったんだな、と思う。
春は、明るい。そして、春のなかにいる彼女もまた、眩しかった。
「さて、そろそろ戻らなきゃ」
不意に彼女が言った。そういえば、彼女は入院患者だ。ここにいること自体おかしい子だ。
「じゃあ私、行くね」
千鳥さんは舞台から軽やかに降りると、僕に背中を向けて歩き出す。
「あ……うん。気を付けて」
大人しく彼女の背中を見送っていると、不意に千鳥さんが振り返って僕を見た。
「汐風くん!」
「なに?」
「さっきの過去の話だけど。間違えた行動をしたと思ったなら、謝ればいいんじゃないかな! 汐風くんの悪いところは、勝手に自己完結しちゃうところだと思うよ」
ずばっと言われ、背筋を伸ばす。そんな僕を見て、千鳥さんはころころと笑った。
「未だに悩んで後悔してるなら、謝ったらいいんだよ! 後悔は、生きている証拠。成長できる証拠。もちろん、謝ったからって関係が元通りになるわけじゃないかもしれないけど、少しはすっきりするかもしれないよ」
「……うん」
頷くと、千鳥さんはすっと手を伸ばした。彼女の伸ばした指先は、僕の頭上を指している。
「俯きそうになったら、桜の木を探してみて! 桜の花を見ようとすれば、顔を上げられるから! それじゃあね!」
駆けていく千鳥さんの後ろ姿を見送りながら、ゆっくりと瞬きをする。
視界を彩るのは、彼女の白いワンピースと、舞い散る桜の花びら。足元に視線をやると、視界が薄紅色に染まった。
「……桜だらけだ」
なんだか胸の辺りがむず痒くなってきた。
こんなにも春を感じたのは、初めてのことだった。




