第五十八話 深海の訪問者
――低く、鈍い音が艦橋を震わせた。
ソナーのコンソールに赤い波形が現れ、警告音が連続して響く。
ルナがタッチパネルをすばやく操作し、解析データをモニターに送る。
「艦長、接近物体を探知。距離七千、進路は直線、速度は……通常の潜水艦より遅いです」
遼は眉をひそめた。
「遅い?」
「はい。……でも、大きいです。全長、少なくとも三百メートル以上」
艦橋の空気が一気に張り詰める。
深海で、そんな巨体が動く――常識ではありえない。
◆視界に入った影
ユイが言葉を挟む。
「光学センサーを最大感度に。深海光源モードを併用します」
遼はうなずき、照明制御を許可する。
前方カメラに、かすかな光が差し込む。海水に漂う粒子が銀の霧のように揺れ、その奥に、黒い影がゆっくりと形を取っていった。
「……艦じゃないな」
遼のつぶやきに、ユイが即答する。
「はい。外殻は金属ではなく、未知の有機構造体。動物……ですが、装甲板のような外皮を持っています」
やがて、その巨影は全体像を現した。
巨大な甲殻類を思わせる形状――だが、その外殻は深海魚のように黒光りし、関節部には発光器官が並んでいた。
異様な威圧感が艦橋の全員を黙らせる。
◆緊張の駆け引き
「進路、このままだと衝突します!」
ルナが声を上げる。
「回避機動、第一案を実行」
遼が指示し、〈みらい〉はゆるやかに進路を変える。
だが巨影も同じ方向に動き、距離を縮めてくる。
「……追ってきます」
ユイが淡々と報告するが、その声にはわずかな硬さが混じっていた。
遼は決断した。
「魚雷装填。目標、進路上の影」
「……艦長、発射は待ってください」
ユイが制止する。
「理由は?」
「これは……知性体の可能性があります。過去の記録に、似た反応があります」
◆深海の記録
ユイの瞳がわずかに光り、艦内ディスプレイに古い記録映像が映し出される。
そこには、現在とよく似た巨大生物が映っていた。場所は海中ではなく――暗い岩の裂け目の奥、大地の下だった。
「……これが、地底航行の時の記録か」
遼の声は低い。
「はい。この生物は“リシェル・ガード”と呼ばれていました。大地と海の境界を守護する存在で、侵入者を監視し、場合によっては排除します」
ルナが不安げに尋ねる。
「じゃあ、私たち……侵入者ってこと?」
ユイは答えず、ただ前方モニターを見つめた。
◆接触
その瞬間、巨影の発光器官が明滅した。
規則的なパターン――まるで信号のようだった。
ユイが即座に解析を始める。
「これは……古代通信パターンです。“立ち去れ、さもなくば”と警告しています」
遼は腕を組み、短く息を吐いた。
「戦わずに抜けられる可能性は?」
「高くありません。彼らは進路を完全に封鎖しています」
艦橋に重い沈黙が落ちる。
背後では、民間人や子供たちの避難準備が進められていた。温室の小さな芽も、今は静かに闇に包まれている。
◆決断
「……よし」
遼は立ち上がり、全員を見回した。
「ユイ、あの“流体化”の応用は可能か? 地形の隙間をすり抜けられる程度でいい」
「可能です。ただし、推進器に負荷がかかり、次の戦闘には支障が出るかもしれません」
「構わん。無駄に戦えば、艦も人も持たない」
ユイは小さくうなずき、指先を光らせた。
「艦底推進器、分子流体化モード起動。……艦長、推進準備完了」
〈みらい〉は静かに深海の水を押し分け、巨影の死角へと潜り込む。
外殻に触れるかのような距離で通過し、発光器官の明滅が一瞬だけ強まった――
それは、警告ではなく、別れの合図にも見えた。
◆通過の先
「通過完了。進路上に障害なし」
ルナの声に、艦橋の緊張が解けていく。
遼は視線を前に向けたまま、低く呟いた。
「……この海の底と大地の下は、つながっている。あいつらは、その境界の番人だ」
ユイは静かに答えた。
「だからこそ、私たちが向かう場所には――必ず、また立ちはだかるでしょう」
艦橋の外、深海は相変わらず暗く静かだった。
だがその闇の向こうに、まだ見ぬ脅威と、そして希望が確かに存在していることを、誰もが感じていた。




