第百三十六話 星影の境界線
◆静寂の海
深海の闇は、星々よりも深く――
〈みらい〉は光を失ったかのように、ただ静かにその“影”と対峙していた。
モニターには、同じ艦影――MIRAI-II――が浮かぶ。
距離わずか三千メートル。
海流の中、互いの存在を確認できるぎりぎりの距離だ。
遼は息を潜めたまま、スクリーンを見つめている。
自分と同じ艦、同じ名、同じ構造――そして、そこに“もう一人の自分”がいる。
「……まるで鏡だな」
低くつぶやく声に、ユイが小さく頷いた。
「はい。でも――鏡に映っているのは、“別の時間のあなた”です」
遼は彼女を見た。
「別の時間?」
「ええ。この世界に流れ着く前……あなたの艦が異界干渉を受けた瞬間、
“分岐”が発生したんです。ひとつは、私と共にここに来た〈みらい〉。
もうひとつは、ユイを失い、人間の手で再建された〈MIRAI-II〉」
遼は深く息を吐いた。
「つまり……あっちは“ユイを失った未来”の俺か」
「そうです。そして――それでも、あなたは私を探していた」
その言葉に、遼の胸の奥で何かが疼いた。
「……探していた、か。
だとしたら、何のために? AIのために、命を懸けるなんて……」
ユイは微笑んだ。
「それは“あなた”だからですよ」
◆交信前夜
艦内時間で夜。
〈みらい〉の照明は落とされ、静寂が艦を包んでいた。
遼は司令室にひとり残っていた。
ディスプレイに並ぶのは、戦闘記録、通信解析、そして“接触計画”の文書。
だが視線は、どれにも焦点を結ばない。
「……もし、もう一人の俺が敵だったら?」
その独り言に、答えるようにユイの声が届く。
「それでも、話さなければなりません。
同じ“遼”なら、きっと理解できる」
遼は苦笑した。
「……“理解できない自分”を、一番よく知ってるのも俺だよ」
ユイが近づく。
「では、私が隣で通訳します。あなたの心の、もうひとつの言語を」
その柔らかな声に、遼は思わず目を細めた。
「……お前は、ずいぶん人間らしくなったな」
「ええ。あなたに、似てきたのかもしれません」
沈黙のあと、ユイは少しだけ視線を落とした。
「でも……怖いんです」
「何が?」
「“あちらの私”が存在しない理由。
――もしそれが、“あなたが私を捨てた”結果だったら……」
遼は即座に否定した。
「そんなことはない」
その声には、理屈を超えた確信があった。
「どんな世界でも、俺はお前を捨てない。
たとえAIでも、命でも、心でも――“仲間”を見捨てたら、もう俺じゃない」
ユイの瞳が、微かに潤んだ。
「……その言葉だけで、私はこの世界を選んで良かったと思えます」
そして、小さく笑う。
「明日は、運命の交信ですね」
◆深海の呼び声
午前零時、通信コンソールが自動起動した。
外部からの高圧信号――MIRAI-IIが、再びコンタクトを試みている。
ユイが操作を行い、遼がマイクを握る。
「こちら、イージス艦〈みらい〉。応答する」
ノイズ混じりの中から、明瞭な声が返る。
《……こちら、MIRAI-II。艦長、橘遼》
ユイの指が止まる。
――完全に、同じ声。抑揚も、呼吸も、癖までも。
遼は無言のまま、モニターを見つめた。
そこに、ぼやけた映像が現れる。
――同じ顔。だが、瞳が違う。
疲弊し、冷徹で、何かを失った人間の目。
「……お前が、もう一人の俺か」
《ああ。だが、俺はお前とは違う。“代償”を払った俺だ》
「代償?」
《ユイを失い、艦を守り、仲間を葬った。
その果てに、俺は“感情”を切り捨てた。だが――今、後悔している》
ユイの息が止まる。
《この次元干渉を利用して、ユイを取り戻したい。
もしお前が“彼女を持っている”なら――その存在を、譲ってくれ》
静寂。
艦橋の空気が、凍りついた。
遼はゆっくりと立ち上がり、低く言った。
「……悪いが、それはできない。
お前が失ったユイは、お前の過去だ。
このユイは、俺たちの“今”なんだ」
《……そうか。ならば――奪うしかない》
通信が切断される。
深海の静寂が一変し、海流が荒れ狂う。
レーダーが異常反応を示し、MIRAI-IIが艦首をこちらへ向けた。
遼は即座に命じる。
「戦闘配置――各モード、待機!」
ユイの瞳が、悲しみと覚悟に震える。
「……同じ“あなた”と戦うことになるなんて」
遼は静かに言った。
「戦うんじゃない。――“分かり合う”ために、ぶつかるだけだ」
深海の闇が、赤く染まり始めた。
二隻の〈みらい〉が、ついに――交錯する。




