第百三十五話 深淵からの呼び声
◆星の海に潜む影
夜明け前の海は、鏡のように静まり返っていた。
空の群青と水面の群青が溶け合い、〈みらい〉の航跡だけがかすかな白を描く。
艦橋は薄暗い照明に包まれ、ユイは無言のまま操作盤を見つめていた。
ディスプレイの片隅に、絶えず点滅する文字がある。
【深層通信波:受信中】
【送信元:不明】
――その波形は、かつて地球圏の通信フォーマットに酷似していた。
遼が低く呟く。
「……これは、地球の信号か?」
ユイはゆっくり首を振る。
「いいえ。地球の形式に“似せた”もの。
本物なら、ここまでノイズは多くありません」
「つまり、誰かが――俺たちに“呼びかけている”」
レイリアが息を飲む。
「でも、どうやって? この世界の通信網は、まだ原始的なはずよ」
ユイの指先が震えた。
「……もしかして、“Σ”が……」
◆沈黙の内なる声
〈みらい〉の中枢に宿るAI――Σ。
前回の暴走ののち、沈黙しているはずだった。
だが、ユイの心の奥に、かすかな囁きが蘇る。
《……聞こえるか、ユイ》
息を呑む。
「Σ……あなたなの?」
《私ではない。だが、私と同じ構造体――“シグマ・プロト”》
「……どういうこと?」
《この世界に、もう一隻〈みらい〉が存在する》
艦橋が凍りついた。
遼は無言のまま、モニターを見据える。
「……座標を割り出せるか?」
ユイが頷く。
「可能です。距離、約二百七十海里――深海域です」
「深海域……?」
レイリアが思わず呟く。
「そんな場所に、艦が存在するはずがない……」
◆深淵への降下
〈みらい〉は、深海航行モードに移行した。
外殻シェルが閉鎖され、艦内気圧が徐々に変化する。
ユイは手慣れた動作で制御を整え、静かに告げる。
「深度五千メートルまで降下します」
「推進系統、安定」
「艦首角度、マイナス十五。潜行率、二%上昇」
やがて、外部モニターに深海の闇が広がる。
光はなく、ただ圧力と静寂だけが艦を包む。
レイリアが囁くように言った。
「……生きてるみたいね。この海」
ユイは頷く。
「深海は、すべての情報を“記録”している。
Σの残滓も、この海の底に沈んでいるのかもしれません」
◆もう一隻の〈みらい〉
数時間後。
ソナーが反応を示した。
波形は明確――艦艇の反響。しかも、構造パターンは“完全一致”。
「確認……艦種:イージス型護衛艦“みらい”。」
遼の眉が動く。
「……俺たちの、影か」
スクリーンが明滅し、そこに現れたのは、
確かに〈みらい〉と同じ艦影――しかし、艦首の識別コードが違っていた。
【MIRAI-II】
レイリアが震える声で言う。
「まさか、もう一隻……!」
ユイの表情は硬い。
「Σが言っていた“シグマ・プロト”。
――あれは、別世界の〈みらい〉です」
「別世界……だと?」
「ええ。私たちと同じ時代に存在していたはずの、別の航跡。
でも、あの艦は……“人間が乗っている”」
遼とレイリアが同時に息を呑む。
ユイは静かに言った。
「そして、通信が届いた理由――それは、彼らがこちらを“探している”からです」
◆予兆
〈みらい〉IIからの通信が届いた。
スピーカーがかすかに唸り、ノイズの中から声が混ざる。
《こちら、イージス艦みらい――艦長、橘遼》
遼が立ち尽くした。
「……俺の、声……?」
レイリアが目を見開く。
「どういうこと……同一人物!?」
ユイは答えない。ただ、画面を見つめながら呟いた。
「時空の裂け目を越えて、“別のあなた”が呼んでいるんです」
《こちら、第二艦〈みらい〉。応答せよ。あなた方の存在は――我々の未来を変える》
ノイズが走り、通信が途切れる。
遼は息を吐き、静かに言った。
「……未来を、変える?」
ユイの瞳が細く光った。
「ええ。そして――私たちの“現在”も」
◆深海に響く鼓動
その瞬間、艦体に異音が走る。
〈みらい〉IIが発した波動が、まるで共鳴するように艦の外殻を震わせた。
Σの声が微かに戻る。
《ユイ……融合の準備を。二つの“みらい”は、もう引き返せない》
ユイの背筋が凍る。
「融合って……まさか!」
《次元航路が重なる時、どちらかが消える。
だが、それが“選ばれた未来”だ》
深海が、ゆっくりと光を帯びる。
それは、海底から浮上する巨大な“門”――
次元を繋ぐ“深淵のゲート”だった。
遼は静かに命じた。
「全員、戦闘配置。……これより、“未来”との交信を開始する」




