9話目 退院
「本当に何から何までお世話になりました」
「いやいや、無事に退院出来て何よりじゃ」
人工的な明かりのみで照らされた、四階の中央にあるエレベーターホール。そこで陽菜と玉緒は、下りのエレベーターを待つ阪井夫婦と話をしていた。
阪井は肩に手作りと思われる袋を下げているが、おそらく入院した時に入れたPTBDのバッグが入っているのだろう。
「結局二週間か。今までで一番世話かけちまったな。先生には今年いっぱいって言われたけど意地でもあと一年は粘ってやる。最期は最上階でよろしく頼むぜ」
「ほっほ。まず来週の外来で待っておるぞ」
阪井は穏やかな笑顔を見せる。
入院してからしか関わらなかったが、今までで一番いい表情をしている。やはり退院は患者にとって嬉しいものなのだろう。
陽菜がそんなことを思っていると、阪井がこちらに顔を向けた。
「研修の先生も頑張れよ。俺みたいな患者はいくらでもいるからな」
彼は歯をニッと出して意地悪そうに笑っていた。
しかしそんな顔をしてくれるようになったのは認めてもらった証拠。陽菜もニッと笑って返す。
「はい! めげずに頑張ります! 阪井さんもお酒控えめにお願いしますね!」
「はっはっは! なかなか言うじゃねぇか。
いいぜ。先生のやる気に免じて酒は週二くらいに減らしてやるよ。そんで一人前になった暁には、看取りまで頼むぜ」
到着したエレベーターに乗りながら言う阪井は、入院中に吐血したと思えない程の明るさでこちらに手を振った。
二人の様子に一番驚いていたのはハルエだ。今まで散々止められなかった酒を週二回にするとの言葉に、驚きと感激が混ざったかのような顔をして立ち尽くしている。
「何してんだかーちゃん。とっとと帰るぞ」
「お父さんのせいでしょう。今の言葉、忘れないでくださいよ」
「ったりめーだろ。じゃな先生達、達者でな」
「はいっ! お大事にしてください!」
そしてハルエがエレベーターに乗ったのを確認し、阪井はドアを閉めた。直前に見えた深々と頭を下げるハルエとニヤついている阪井の顔が、陽菜にとっては忘れられないものになりそうだ。
「……行ったな。さて宮城君、初担当どうじゃった」
しばらくエレベーターの電光板を見ていた陽菜に、玉緒が静かに話しかける。陽菜は玉緒の方へ向きを変えると、真っ直ぐに彼女の目を見て言った。
「苦労もしましたが、病態や治療、コミュニケーションなど多くを学べました。看取り、と言われると複雑な気持ちですが、まず患者さんが元気に退院出来て嬉しいです。
玉緒先生にも医師としての大切なことをたくさん教えてもらえて勉強になりました。ここまでありがとうございました!」
最後に勢いよく礼をした陽菜の姿は、一ヶ月前の入社式の時より少しだけ頼もしく見えた。二年間のうちのたった一月分だけかもしれないが、それでも拒否患者に根を上げることなく向き合ってきたことは、間違いなく彼女の糧になるだろう。
「おお、消化器の研修が終わったくらいの勢いじゃな」
「あっ、そんなつもりでは」
「分かっておる。とはいえ内科系は一区切りじゃ。残りの一ヶ月は手術に入ってもらうからの。まだまだ消化器を堪能すると良い」
「はい! どこまでも先生についていきます!」
パアッと花が咲いたような笑顔で言った陽菜に、玉緒も和かに笑い返す。
「やる気満々じゃな。では次は早速手術患者を担当してもらおうかのぅ」
「はい」
「後で情報を見ておくと良い。午後の外来でICをする患者で名前は……」
二人が次のステップを踏み出そうとする中、玉緒のポケットから電子音が鳴った。それに困ったような顔をしながら玉緒はPHSを取り出す。
「いつもいいところで邪魔が入るのう。
玉緒じゃ。うむ、ん……おおそうか。今行くぞ」
簡単に内容を聞いた玉緒は、先程の困り顔とはまるで違う、何かを閃いたようなニヤリ顔をして陽菜の方を向いた。
「宮城君、虫垂炎疑いの大学生が救外にいるみたいじゃ。緊オペになったら予定を変更して見学してみるか?」
「えっ、いきなりいいんですか」
思いもよらない提案に躊躇すると、玉緒は何も言わずに頷く。その様子に、陽菜も湧き上がる意欲を爆発させた。
「はいっ! 喜んで!」
胸の高鳴りを感じつつ、陽菜は目を輝かせて答える。それは研修が始まったあの日と同じ目だ。
医師として初めて感じた“やりがい”。苦労を乗り越えて感じられたそれを胸に、私はこれから新しい出会いを繰り返して、たくさんの経験を積んでいく。きっと無駄なことなんてない。自分次第で、何だって医師として成長する為の糧に出来るはずだから!
キラキラした陽菜の瞳を確認した玉緒は白衣を翻して階段へと向かう。
陽菜はその後ろ姿を目標にしていたと改めて認識すると、「よし!」と気合を入れて偉大な背中を追いかけていった。




