第1話「色褪せた屋敷と血のような封蝋」
登場人物紹介
◇ルシアン
没落寸前の男爵家の次男。自己評価が低く、家族を救うために公爵家への政略結婚を受け入れる。
かつての幼馴染であるクロードとの思い出を大切にしているが、手紙の行き違いから彼に忘れられたと思い込んでいる。
◇クロード
若くして公爵位を継いだ冷徹と噂される青年。
実はルシアンの幼馴染であり、彼を溺愛している。ルシアンを取り戻すために権力を掌握し政略結婚を仕組んだが、愛情表現が極めて不器用なため常にすれ違ってしまう。
ひび割れた窓枠から冷たい風が入り込んでいる。
ルシアンは細い肩をすくめて、色褪せた上着の襟元を引き寄せた。
かつては美しい装飾が施されていた応接室だ。
今は壁紙が剥がれ落ちて、むき出しの木材が寒々しく晒されている。
没落の途を辿る男爵家の現状が、この部屋の空気に深く染み付いていた。
部屋の隅には、埃をかぶったままの家具がいくつか積み上げられている。
売れるものは、とうの昔にすべて手放してしまった。
古びたテーブルの中央に、一通の手紙が置かれている。
分厚く滑らかな羊皮紙は、この屋敷にはひどく不釣り合いだった。
血のように赤い封蝋が、鈍い光を反射している。
刻まれているのは、獅子と剣をあしらった紋章だ。
若くして権力を掌握して、冷徹と噂されるクロード公爵家の印だった。
向かいの席で、父親が両手で顔を覆っている。
深く沈み込んだ背中が小刻みに震えていた。
荒い呼吸の音が、静かな部屋に重く響き渡る。
「ルシアン。お前が公爵家へ行ってくれるか」
かすれた声が、テーブルの上の冷めた紅茶を揺らすように落ちる。
ルシアンは静かに目を伏せた。
膝の上で組んだ両手が、血の気を失うほど強く握りしめられている。
指先は氷のように冷たくて、感覚がほとんどなかった。
重い借金に苦しむ実家は、すでに首の皮一枚で繋がっている状態だ。
そこへ突然舞い込んだ、公爵家からの縁談である。
相手は社交界でも恐れられる若き当主だった。
逆らう者は容赦なく切り捨てられるという男だ。
『なぜ辺境の没落貴族である私に』
胸の奥で疑問が黒い渦のように巻いている。
だが、それを口にする余裕など残されていなかった。
借金を肩代わりする代わりの身売りだ。
愛人のような扱いを受けることは、火を見るよりも明らかだった。
慰み者として飽きられれば、裏口から捨てられるだけの存在。
その現実が、鉛のように胃の腑へとのしかかる。
「わかりました。私がお受けします」
ルシアンは静かに告げた。
そこには抑揚も感情の色もなく、ただ乾いた音だけが落ちる。
父親は安堵の息を長く吐き出して、何度も何度も頭を下げる。
その姿を見つめるルシアンの瞳には、諦めの色が濃くにじんでいた。
ルシアンは視線を窓の外へ向けた。
灰色の雲が低く垂れ込めて、今にも雪が舞い散りそうだ。
十年前の記憶が、ふと脳裏をかすめた。
かつて幼馴染だった少年の不器用な笑顔だ。
口数は少ないが、いつもそばにいてくれた温かな体温。
遠い昔に交わした約束の言葉が、胸の奥で小さく響く。
だが、今の相手はあの頃の優しい少年ではない。
熾烈な権力闘争を勝ち抜いた、冷酷な公爵だ。
甘い期待など抱いてはいけないと、ルシアンは自分に言い聞かせる。
震えそうになる唇を奥歯で強く噛み締めた。
かすかに血の味が口の中に広がる。
氷のように冷え切った指先を、反対の手で静かに包み込んだ。
誰にも気づかれないように短く息を吐き出す。
テーブルの上の赤い封蝋が、ルシアンの運命を決定づけるようにそこにあった。
暖炉の火はとっくに消え果てて、白い灰だけが残されている。
明日にはこの家を出て、見知らぬ鳥籠へと向かうのだ。
ルシアンはゆっくりと立ち上がり、椅子を引いた。
軋む木の音が、冷たい部屋の空気を震わせて消えていった。




