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勇者が死んだので、俺が“勇者だったこと”にされた  作者: 綴木 灯
第二章「勇者が残したもの」

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Episode 008 — 勇者を憎む町

ヴェルサの城門には、歓声がなかった。


旗はある。


兵もいる。


役人らしい人間も、道の両側に並んでいる。


でも、誰も勇者の名前を呼ばない。


セレスタでは、扉が開く前から壁が震えていた。


ハルフェンでも、少なくとも俺が姿を見せれば人の視線は一つに集まった。


ここでは逆だった。


俺たちの馬車が近づくほど、窓が閉まる。


店先にいた人が奥へ入る。


立ち止まる人間もいるが、手は上がらない。


見ているだけだ。


「歓迎式は?」


俺は小声で聞いた。


隣にいたイレーネが前を見る。


「ない」


「助かります」


「本当に?」


「少なくとも、何を言えば喜ぶのか考えなくて済むので」


イレーネは返事をしなかった。


馬車の反対側にはセレクが乗っている。


彼も何も言わない。


城門をくぐる。


そこから先の道は広かった。


広いのに、少し狭く感じる。


視線があるからだと思う。


勇者ユリウスは、この町にとって戦勝の象徴ではない。


勝った側の顔だ。


そのくらいは、俺にも分かる。


なら、見せないほうがいいのかもしれない。


俺は窓際から身体を少し引いた。


通りへ手も上げない。


なるべく正面を見る。


セレスタでやったことの逆だ。


人をこちらへ向かせない。


それで少しは摩擦が減ると思った。


最初の角を曲がるまでは。


「……見もしない」


声がした。


窓の外だった。


年配の女が立っている。


胸元に灰色の布札を下げていた。


隣には若い男と、小さな子供がいる。


俺が顔を向ける。


女と目が合った。


「勝ったら、こっちは見る価値もないか」


俺は返事をする前に、別の声を聞いた。


「見るな!」


今度は道の反対側だった。


男が一人、こちらへ背を向ける。


「その顔でこっちを見るな!」


一人は、見ろと言う。


一人は、見るなと言う。


まだ何もしていないのに、両方外したらしい。


馬車は止まらない。


俺は女のほうへ、ほんの少しだけ頭を下げた。


女は礼を返さなかった。


反対側の男も、こちらを見なかった。


それで終わった。


少なくとも、その場では。


* * *


「嫌われていると思いました?」


最初の検問所を抜けたところで、セレクが聞いた。


俺は少し考えた。


「違うんですか」


「嫌っている人はいます」


「いますよね」


「怖がっている人も」


「はい」


「見たくない人も」


「それも今、分かりました」


セレクは窓の外を見る。


「見てほしい人もいます」


さっきの女を思い出した。


「何をです?」


「それは、人によります」


そこは教えてくれないらしい。


当然かもしれない。


俺はこの町へ入って十分も経っていない。


十分で分かると思ったほうが間違っていた。


馬車は行政区へ向かう。


道の途中に、大きな掲示壁があった。


帰還者の名前。


移住先。


配給の場所。


家屋の使用可否。


紙が何十枚も重なっている。


その端に、木の札がまとめて吊られていた。


同じ文字が刻まれている。


**サイル。**


俺は少し身を乗り出した。


「サイル?」


セレクが一度だけこちらを見る。


「渡河点の名前です」


それだけだった。


札の下には、家族が何組か並んでいる。


年齢も服装もばらばらだ。


一人の老人が俺たちの馬車に気づいた。


立ち上がる。


その隣の女が腕を掴んだ。


「やめて」


「見るだけだ」


「何を」


老人は答えなかった。


少し離れた場所では、若い男が吐き捨てるように言った。


「サイルの連中は、まだあいつに礼を言うのか」


誰かが返す。


「誰も礼なんか言ってない」


「同じだろ」


「違う」


馬車が通り過ぎる。


続きは聞こえなかった。


サイル。


覚えておく。


今は、それ以上考えないほうがよさそうだった。


* * *


行政庁前の広場には、もっと人がいた。


歓迎のためではない。


帰還登録の日だった。


停戦後、周辺から戻ってきた人間や、別の地域へ移る人間が、仮の身分札と居住票を受け取る。


俺たちの到着は、その作業と重なったらしい。


「広場を空けますか」


イレーネが現地の警備責任者に聞く。


相手は首を振った。


「登録を止めるほうが困ります」


「勇者が通る」


「だからといって、今日の寝床が増えるわけではありません」


分かりやすい。


俺は好きだった。


少なくとも、俺のために全員を待たせない人は。


馬車が広場の端で止まる。


降りる前に、係員が確認へ来た。


「勇者殿には正面階段から庁舎へ入っていただきます」


正面階段。


広場を横切る。


登録待ちの列のすぐ脇だ。


俺はさっきの二人を思い出した。


見るな。


見もしない。


どちらをやっても外れる。


「別の入口は?」


係員が少し困った顔をした。


「ありますが」


セレクが俺を見る。


俺は続けた。


「そっちから入ったほうが、登録の邪魔にならないなら」


係員は返事をしかけた。


その前に、広場のほうから声が飛んだ。


「また裏からか!」


誰に向けた声か、一瞬分からなかった。


俺だった。


列の中にいた男がこちらを指している。


「戦争中は兵を寄こして、今度は顔だけ隠すのか!」


何人かが男を見る。


同意する者もいる。


嫌そうな顔をする者もいる。


俺は口を閉じた。


二度目だった。


今度はまだ決める前だったので、一度目よりましだと思いたい。


「正面から行きます」


俺は係員に言った。


「演説は?」


「しません」


「求められたら?」


「その時に考えます」


イレーネが俺を見る。


何も言わない。


止めないなら、危険ではないらしい。


俺は馬車を降りた。


広場の音が少し下がった。


歓声が止まる時とは違う。


警戒すると、人は声を小さくする。


たぶん。


今度は断定しないでおく。


正面階段まで、三十歩くらいだった。


俺は手を上げなかった。


俯きもしない。


誰か一人を選んで見続けることもしない。


歩く。


途中で、一人の子供と目が合った。


母親がすぐ肩を引く。


子供はそのまま俺を見る。


俺は目を逸らさなかった。


笑いもしなかった。


それだけにした。


階段の手前まで来たところで、後ろから名前を呼ばれた。


「ユリウス!」


怒鳴り声だった。


俺は振り返る。


列の中の老人だった。


さっきとは別の人だ。


「サイルを覚えているか!」


広場が静かになる。


セレクが動かなかった。


イレーネも。


俺だけが、答えを知らない。


いつもの形なら危ない。


でも、今回は少し違った。


老人は返事を待たず、胸元から木札を出した。


さっき掲示壁にあったものと同じ文字。


**サイル。**


「俺の娘は戻った」


声が震えていた。


「息子は戻らなかった」


誰も何も言わない。


「だから、俺はあんたに礼を言う気も、石を投げる気もない」


老人は札を握る。


「ただ、顔だけ見たかった」


俺は何を返せばいいか分からなかった。


ありがとう、ではない。


すまない、も違う。


大丈夫だ、は論外だ。


だから、頭を下げた。


深くはしない。


短く。


老人は何も返さなかった。


それでよかった。


たぶん。


階段を上がる。


今度は、後ろの声を読もうとしなかった。


* * *


庁舎での確認は短かった。


今日の会談は翌日から。


午後は帰還登録の視察だけ。


俺が何かを決める予定はない。


その言葉に少し安心した。


ただ、広場へ戻る必要はあった。


「勇者殿がいる間も登録を続ける、という合意です」


現地の職員が言う。


「こちらとしては、特別なことをしていただく必要はありません」


特別なことをしない。


今日一番難しい注文かもしれない。


広場へ戻ると、列はまた動いていた。


名前が呼ばれる。


紙が渡される。


荷物の数が確認される。


子供が泣く。


老人が椅子へ座る。


俺がいても、いなくても進む仕事だ。


俺は列の横に立った。


邪魔にならない位置を職員に聞いて、そこへ立つ。


それだけにした。


最初の数人は、こちらを見なかった。


次の女は、紙を受け取ったあとで俺を見た。


俺も見る。


女は頭を下げなかった。


俺も下げなかった。


その次の男は、露骨に顔を背けた。


何もしない。


さらに次の家族は、子供だけが手を振った。


俺は小さく手を上げた。


母親は子供の手を下ろさなかった。


それだけだった。


拍手はない。


全員の呼吸が揃う瞬間もない。


揃えようとも思わなかった。


広場には、一つの客席なんて最初からなかったのだと思う。


同じ場所に、別々の事情でいる人がいるだけだ。


午後の終わりまでに、俺を見て笑った人はほとんどいなかった。


怒鳴った人も、最初ほどはいなかった。


それを成功と呼ぶべきかは分からない。


今日は、呼ばなくていい気がした。


* * *


夕方、宿舎へ移る前に、セレクに呼び止められた。


庁舎の奥の、窓が細い廊下だった。


イレーネは少し離れた場所で警備担当と話している。


セレクはしばらく黙っていた。


「今日、最初に窓から下がりましたね」


「見せないほうがいいと思ったので」


「外れました」


「はい」


そこは認めるしかない。


「あなたは、人を読むのが得意だと思っていました」


「俺も少し思ってました」


セレクの口元がわずかに動いた。


笑ったのかどうかは分からない。


「今日のことだけなら、それで終わります」


声が変わった。


「でも、今日だけではない」


俺は黙る。


「セレスタでの判断」


一つ。


「灰橋での判断」


二つ。


「ハルフェンを出る前の家族への返答」


三つ。


「傷を負えば、人は変わるでしょう」


セレクは言った。


「考え方も、話し方も」


廊下の外から、紙を運ぶ足音が聞こえる。


「ですが、違う理由を何度も傷に預けるには、少し多い」


俺はセレクを見る。


「何を疑ってるんです」


彼はすぐ答えなかった。


逃がしてくれる沈黙ではなかった。


「あなたが、ユリウス・レグナート本人ではない可能性です」


言葉は小さかった。


でも、聞き間違えようはなかった。


俺は反射的にイレーネを見る。


彼女はこちらを見ていない。


まだ聞こえていない距離だ。


「証拠は?」


「ありません」


「なら」


「だから、疑いです」


セレクは俺から目を逸らさない。


「疑いだけで、公に何かをするつもりはありません」


それは安心する言葉のはずだった。


安心できなかった。


「でも、この先も協力を広げるなら」


彼は続ける。


「こちらは、誰の判断に人を預けているのかを知る必要がある」


朝の老人を思い出した。


娘は戻った。


息子は戻らなかった。


礼も石も投げない。


ただ顔を見たかった。


俺は今日、この町の人間を一度読み違えた。


今度は、セレクを簡単に読めるとは思わなかった。


「今、答えが必要ですか」


「いいえ」


セレクは首を振った。


「ですが、必要になります」


それだけ言って、廊下の先へ歩いていく。


答えを急かされなかった。


そのほうが、逃げ道が少なかった。

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