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勇者が死んだので、俺が“勇者だったこと”にされた  作者: 綴木 灯
第一章「勇者を演じる」

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Episode 006 — 勇者は戦えない

橋の門は、まだ開いていた。


閉まったのは、その三呼吸後だった。


「止める!」


リーゼの声と一緒に、門脇の鐘が一度鳴る。


さっきまで次の帰還者を通すために開いていた柵が動き、橋への進入路を塞いだ。


だが、人のほうは止まらなかった。


「あいつだ!」


最初に声を上げた男が、旧魔王軍側の帰還者を指さしている。


「間違いない。うちの町にいた!」


その隣で、別の女が言った。


「何をした人?」


「襲撃の時だよ!」


「だから、何を――」


「いたんだ!」


答えになっているようで、なっていない。


でも、男の顔を見れば、今それを指摘しても何の役にも立たないことくらいは分かった。


帰還者の男は、護送係の内側で立ち尽くしていた。


青ざめている。


否定しない。


認めもしない。


周りを見ている。


逃げ道を探している人間の目だった。


「下がってください」


リーゼが群衆へ言った。


「交換は一度止めます。この場で身柄を渡すことはしません。確認が必要なら、手続きを――」


「手続き?」


誰かが吐き捨てた。


その一言で、人が一歩前へ出た。


一人だけなら大したことはない。


二人目が続く。


三人目も。


後ろにいる人間には、前がなぜ止まったのか見えない。


それでも前へ押す。


橋の入口は、朝より狭く見えた。


実際の幅は変わっていない。


人が増えただけだ。


「護送列、壁側へ寄せる」


イレーネが言った。


声が低い。


数日前の俺なら、まだ何か聞いたかもしれない。


今日は聞かなかった。


この声の時は、先に動く人だ。


連合兵が帰還者の前へ入る。


それを見て、群衆から怒鳴り声が上がった。


「敵を守るのか!」


「こっちには誰も戻ってこなかった!」


「そいつだけ帰すのか!」


一つ一つは、簡単に否定できる言葉ではなかった。


戦争が終わったからといって、焼けた家まで元へ戻るわけではない。


死んだ人間が橋を渡って帰ってくるわけでもない。


そのことと、目の前の男を今ここで殴っていいかは、たぶん別の話だ。


たぶん。


少なくとも俺には、その二つを一息で裁けるほどの材料はなかった。


「ノア、下がって」


イレーネが言った。


「でも――」


「今は顔より身体のほうが邪魔になる」


短い。


正しい。


俺は一歩下がった。


勇者の顔をしていると、前へ出るべき場面が増える。


今日は、前へ出ないほうが役に立つらしい。


* * *


最初に崩れたのは、人ではなく柵だった。


群衆の端で押された男が、腰ほどの高さの木柵へぶつかった。


柵が倒れる。


音に驚いて、荷車につながれていた馬が首を振った。


誰かが叫ぶ。


「押すな!」


だいたい、そう言われて押すのをやめられる時には、もう誰も押していない。


後ろから来る力で、前の人間がさらに詰まる。


子供の泣き声が聞こえた。


俺の位置からは姿が見えない。


イレーネは見えていた。


「右を開ける!」


彼女が兵へ怒鳴る。


「橋側へ寄せるな! 壁沿いを一本空けて! 子供と歩けない者を先に出す!」


二人の兵が動く。


三人目は聞こえていない。


群衆の声が重なりすぎている。


その時だった。


何かが飛んだ。


赤い火が見えた。


小さな油壺か、松脂を巻いた布か。


俺には分からない。


それは帰還者には当たらなかった。


代わりに、脇へ止めてあった荷車の覆いへ落ちた。


火が走る。


馬が跳ねた。


綱が張る。


荷車が斜めに動いた。


人が悲鳴を上げる。


今度は怒りではなかった。


恐怖の声だった。


人の動きが、一度に三方向へ割れた。


橋へ逃げようとする者。


広場へ戻ろうとする者。


火から離れようとして、逆に帰還者の列へ押し込む者。


これがまずいことだけは、俺にも分かった。


何をすればいいかは、分からなかった。


「綱を持て!」


イレーネが走る。


馬の正面には入らない。


横から近づき、荷車と群衆の間へ身体を入れた。


一人の男が帰還者へ突っ込もうとする。


手には折れた柵の棒がある。


イレーネが振り向く。


剣は抜かなかった。


鞘ごと棒を受ける。


一度。


男の手首を返す。


棒が落ちる。


次の瞬間には男を地面へ押さえ込み、兵へ渡していた。


早い。


何が起きたのか理解する前に終わった。


俺なら、最初の一撃でたぶん棒を顔に受けている。


勇者ユリウスならどうしたかは知らない。


少なくとも、俺にはできない。


「水!」


イレーネが叫ぶ。


「荷車は広場側へ! 帰還者は壁沿い! 剣を抜くな、押し返すな!」


命令は聞こえている。


聞こえている人には。


だが、端まで届いていない。


兵が別々の方向を指す。


誰かが「橋を開けろ」と叫ぶ。


別の誰かは「閉じろ」と叫んでいる。


リーゼの鐘が二度鳴った。


門は閉じたままだ。


正しい。


たぶん。


でも正しい命令が五つ同時に飛ぶと、人は一つも聞かなくなる。


その感じは知っていた。


舞台で役者が台詞を忘れた時に似ている。


三人が助けようとして三人とも喋ると、余計に次の台詞が出てこない。


必要なのは、正しい言葉を増やすことじゃない。


一度、全員に同じところを見せることだ。


俺は近くの荷箱へ足をかけた。


「何を――」


護衛の一人が言う。


「声を通します」


それだけ答え、上へ乗った。


高くはない。


舞台より低い。


でも、人の頭より少し上へ顔が出る。


息を吸った。


腹から。


怪我人の設定には、あまり似合わない呼吸だった。


今は仕方がない。


「――全員、止まれ!」


声を出す。


喉ではなく、広場の一番奥へ投げる。


怒鳴るのとは違う。


大きければ届くわけでもない。


最初の一音を硬くする。


名前ではなく動詞から入る。


歓声を止める時と同じだ。


何人かが振り向いた。


十分ではない。


馬がまた鳴く。


一瞬、他の声が切れた。


そこへ重ねる。


「押すな! 橋へ行くな!」


視線が増える。


勇者の顔が、こういう時は便利だった。


俺の言葉が正しいからではない。


この顔の人間が喋ると、とりあえず一度は聞こうとする人が多い。


その一度を使う。


俺はイレーネを見る。


彼女はすぐ分かった。


「壁沿いを空ける!」


イレーネが指をさす。


「子供、負傷者、歩けない者から南へ! 兵は人を押すな! 道だけ作れ!」


俺は同じ方向を指した。


「右の壁を空けろ! 子供から南へ!」


一つだけ。


人が動く。


まだ遅い。


だが、さっきまでの三方向ではない。


「走るな!」


イレーネ。


「走るな!」


俺。


「荷車に近づくな!」


「荷車から離れろ!」


水桶を持った兵が火へ向かう。


その進路だけ、人が空く。


泣いていた子供が見えた。


母親らしい女が抱き上げる。


壁沿いへ出る。


一人。


二人。


三人。


動きが揃うと、広場は急に広くなった。


本当に広がったわけではない。


同じ場所へ、同時に全員が行かなくなっただけだ。


イレーネが帰還者の列を反対側へ下げる。


兵がその周りに入る。


今度は盾を外へ向けない。


人を押し返す壁ではなく、近づけない線を作る。


火は小さくなった。


馬も、二人がかりで広場側へ向けられた。


俺は荷箱の上で、もう一度息を吸う。


次に何を言うべきか考える。


何もなかった。


もう人は動いている。


なら、黙る。


舞台でも、出番が終わった役者が残ると邪魔になる。


俺は荷箱から降りた。


膝が少し震えていた。


高いところが怖かったわけではない。


たぶん。


* * *


火はすぐ消えた。


投げたのが誰だったのかは、分からなかった。


リーゼは係員に確認を回していたが、その場で特定できる気配はない。


怒っている人間は本当にいた。


怖がった人間も本当にいた。


馬も本当に驚いた。


それだけで、十分ひどいことは起きる。


帰還者の男は別の待機所へ移された。


襲撃時の所属や行動については、あとで確認するらしい。


最初に声を上げた男も、今は離れた場所で事情を聞かれている。


どちらが何をしたのか、俺にはまだ分からない。


交換そのものは、一度止まった。


完全には終わらなかった。


「見物位置を下げる」


リーゼが焼けた荷車の横で言った。


「次から待機列と家族区域を分ける。午後は人数を減らして再開する」


誰かが反対する前に、もう係員へ指示を出している。


橋を開ける人は、橋を閉じたあとも忙しいらしい。


「怪我は?」


イレーネが俺に聞いた。


「ありません」


「本当のほう」


「本当のほうも」


彼女は俺の手を見る。


少し震えていた。


隠すほどでもない。


「戦おうとしなかったのは正解」


「できませんから」


「知ってる」


即答だった。


少しくらい迷ってほしかった。


でも、その次にイレーネは言った。


「あの声は使える」


俺は彼女を見る。


「剣よりは慣れてます」


「それも知ってる」


今度は、少しだけ口元が動いた。


たぶん笑った。


たぶん。


広場の端では、まだ人がこちらを見ていた。


「勇者様、前に出なかったぞ」


小さな声が聞こえる。


「傷がひどいんだろ」


「敵兵一人、押さえもしなかった」


別の声が返した。


「お前、さっき子供の上に倒れかけてたじゃないか。止まれたのは誰の声だ」


そこで会話は途切れた。


俺は口を挟まなかった。


どちらも、見たものを言っている。


俺は戦わなかった。


声は出した。


今日は、それで誰も踏まれなかった。


それ以上の評価は、今はいらなかった。


* * *


夕方。


交換広場から少し離れた帰還待機所で、俺は次の日の予定を聞いていた。


午後の交換は人数を減らして再開した。


門はまた開いた。


朝より遅かったが、人は渡った。


それだけで、今日は十分だと思っていた。


「こちらの家族ですが」


ハルフェンの職員が、待機所の端にいる三人を示した。


夫婦と、十歳にもならないくらいの子供。


荷物は二つだけだった。


家を移す量には見えない。


たぶん、持って出られたものが二つなのだ。


「明朝の外路便に乗せられる可能性があります」


職員が言った。


父親が顔を上げる。


「本当ですか」


「ただし、ハルフェンの管理区間を出たあとの安全確認がまだです」


母親の顔が曇った。


「では、また待つんですか」


「通常なら」


職員が一度、俺を見る。


嫌な間だった。


「ただ、勇者様が道の安全を保証してくださるなら、特例で先に出せるという話があります」


三人の視線が、一斉に俺へ来た。


子供まで。


今日、何百人の視線を一度に集めた。


その時より、この三人のほうが重かった。


机の上には、外路の通行票が置かれている。


その先の道について、俺が知っていることはほとんどない。


俺はまだ、その道を見たことすらなかった。

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