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勇者が死んだので、俺が“勇者だったこと”にされた  作者: 綴木 灯
第四章「名前を返す」

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Episode 030 — 勇者なしで決める人たち

七十九日目の朝。


イレーネは、俺より先に外へ出た。


正確には、俺は外へ出ていない。


宿舎の二階の窓から、中庭を見ていた。


馬が六頭。


荷車が一台。


護衛が八人。


昨日、管理所で見た色の通行札が、一人ずつ確認されている。


最後にイレーネが紙を出した。


係員が読む。


「イレーネ・クロイツ副官。D地区北側保護線、臨時現場指揮」


名前を聞いて、判が押される。


勇者の名前は出なかった。


俺の名前も。


窓の横には、今日も俺の護送が二人いた。


イレーネの八人は、俺を守るための人ではない。


もうかなり分かりやすい。


彼女が馬へ乗る前に、一度だけ上を見る。


目が合った。


手は振らなかった。


俺も振らなかった。


そのまま門が開く。


六頭と荷車が出る。


門が閉じる。


俺の扉は開いていた。


外へは出られなかった。


* * *


午前、別の紙が来た。


今度は俺の名前が大きかった。


**ノア・フェルン。**


その下。


**特別契約清算・一時保留。**


「今までの分も返すんですか」


最初に聞いた。


会計官は首を横に振った。


「既払い分を、この紙だけで返還扱いにはしません」


「よかった」


思ったより先に出た。


会計官は笑わなかった。


「未精算分と、終了時の補償項目を止めます。契約の成立範囲、政府側の指示、あなた自身の行為を調査してからです」


「部屋代は?」


「現在の宿舎・食事・護送は清算報酬ではありません」


紙を一枚めくる。


「証言・安全管理上の必要経費として別扱いです」


「つまり、ここにいる金は出る」


「そうです」


「ここから出る金は止まる」


会計官が少し考える。


「だいたい合っています」


かなり分かりやすかった。


次の紙には、もっと文字が多かった。


**事実調査開始通知。**


対象欄。


勇者代行運用の開始承認。


継続承認。


勇者名義で行われた個別判断。


会議・軍連絡資格の使用。


関係官の承認経路。


俺だけの紙ではなかった。


オスカーの役職もある。


軍務側。


警備側。


記録側。


「裁判ですか」


「まだ事実調査です」


「いつ終わります?」


「決まっていません」


まただった。


最近の俺の予定は、決まっていないものが多い。


「説明を書けば早くなります?」


「必要な説明は聴取で取ります」


会計官ではなく、隣の記録官が答えた。


「あなたが書いた結論を採用する手続きではありません」


「はい」


それも分かりやすかった。


俺が自分で『ここまでは国、ここからは俺』と線を引けば終わるなら、昨日までの会議はいらない。


紙の最後に署名する。


ノア・フェルン。


今度は、書く場所を間違えなかった。


* * *


昼過ぎ。


灰橋の管理所へ移された。


橋は閉じたままだった。


東門の横木。


荷車路。


徒歩路。


白い札は一枚だけ。


**医療緊急。**


今日はまだ外れていない。


二階の連絡室に、セレクがいた。


俺が入る前から話していた。


向かいには旧魔王軍側の連絡員が二人。


一人が地図を広げている。


「D地区が残るなら、こちらも戻すべきです」


「何を」


セレクが聞く。


「南側の二隊です。今は警戒を一段戻しただけだ。兵を増やせという声が出ています」


「誰から」


いくつか役職が挙がる。


俺には全部は分からない。


セレクは聞き終わってから紙を取った。


「私の名義で出せる範囲には、増派を勧めません」


「理由は」


「こちら側の家族が、まだハルフェンと西側待機地に残っている」


窓の外を見る。


橋は閉じている。


「警戒線を前へ出せば、帰還が止まるだけでは済まない。保護線の再設定も遅れる」


「向こうは下がらない」


「D地区は下がらない」


セレクが言った。


「連合側全部ではない」


連絡員が黙る。


「全部だと決めて動けば、全部にする手伝いをする」


声は大きくない。


「私はそれを勧めません」


「帰還は?」


「広域帰還は止めたままです」


「勇者の保証なしで戻せないと?」


セレクは俺を見なかった。


「今ある保証では勧めない」


紙へ書く。


「別の保証を求める。その条件を詰める。その間にこちらから兵を前へ出して、必要な保証を増やす気はありません」


最後に署名した。


セレク・アーデン。


紙は二通作られた。


一通は西側。


一通は記録用。


俺に見せるためではなかった。


俺がそこにいただけだった。


* * *


その日の夕方、最初の連絡が来た。


D地区北側。


イレーネの隊から。


伝文晶の記録係が読み上げる。


「北側第二区画。ハルフェン路標確認員四名、保護線内から後退完了」


リーゼが地図へ印を付ける。


「接触は」


「連合側巡回一隊が保護線へ入る前に停止。クロイツ副官の現場命令で迂回」


次。


「対向側巡回は旧標識線の西で停止。連絡旗のみ。接触なし」


セレクが聞く。


「こちらの系統か」


連絡員が確認する。


「昨日の警戒復帰対象の一隊です」


「追加命令は」


「なし」


オスカーが紙を見る。


「保護線は維持できる?」


記録係が次を読む。


「クロイツ副官回答。『本隊を下げる権限はない。保護帯への進入だけなら、こちら側は止められる』」


短かった。


イレーネらしいと思った。


俺なら、もう少し何か足してしまったかもしれない。


たぶん、その余計な部分が今はいらない。


* * *


八十日目。


灰橋は閉じたまま。


でも、管理所の机は昨日より紙が増えていた。


オスカーが三束に分けている。


一束目。


**現停戦命令・暫定継続確認。**


二束目。


**主力区画・限定第二段階後退案。**


三束目。


**灰橋・限定再開条件案。**


一束目には、今の停戦確認を審査中も切らさないための文面が付いていた。


「七十四日前の案より、紙が増えましたね」


俺が言う。


「増えた」


オスカーは否定しなかった。


「前は勇者の継続が、一つの安全材料をまとめて持っていた」


三束を見る。


「私は、それが短期の不安定を抑えていたという判断は変えていない」


俺は黙った。


「だが、今は使えない」


オスカーが一束目を置く。


「だから各系統が、自分の名義で持つものを増やす」


「最初からできた?」


「全部は揃っていなかった」


答えは早かった。


「今は揃えるしかない」


謝ってはいない。


勝った顔もしていない。


たぶん、その方が今は正しかった。


一束目を指す。


「停戦命令は各指揮系統が自分の名義で再確認する」


二束目。


「動かせる主力区画だけ、後退時刻と停止線を再設定する」


三束目。


「橋は、その結果を見てハルフェンが判断する」


「D地区は」


「別紙」


薄い紙が一枚置かれた。


**D地区――現位置維持。継続協議。**


それだけだった。


「和平案から外すのか」


連合側の連絡官が聞く。


「全体からではない」


オスカーは答える。


「今この場で動かせる部分と、動かせない部分を同じ期限で扱わない」


「後退しない部隊を残して橋を開ける?」


「橋を開けるとはまだ言っていない」


リーゼが言った。


オスカーではなかった。


彼女の前には、昨日までの運用板がある。


**通常輸送――停止。**


**医療緊急――継続。**


どちらも変わっていない。


「ハルフェンが必要とする条件を確認します」


リーゼが別の板を出した。


空欄が四つ。


一。


**連合主力・前進禁止命令。発令者名/確認時刻。**


二。


**旧魔王軍主力側・前進禁止確認。発令者名/確認時刻。**


三。


**試験経路に接する主力側双方の警戒哨・指定線まで後退。現認。**


四。


**護送引継ぎ地点・中立職員再確認。**


「全部、紙だけでいいのか」


「三と四は見ます」


リーゼが答えた。


「誰が?」


「ハルフェンの職員です」


「危険だ」


「だから、一と二が先です」


順番まで決まっていた。


連絡官が俺を見る。


「本人の確認は条件に入れない?」


「入れません」


リーゼが答えた。


それで終わった。


少し痛い。


少しだけ、安心した。


両方だった。


* * *


昼過ぎ、俺は聴取室へ戻された。


昨日の調査の続き。


第十六日。


第十九日。


第二十一日。


前にも聞かれた日付が増えている。


「第二十四日の帰還準備で、勇者継続を条件として説明しましたか」


「俺からはしてません」


「訂正しましたか」


「先の予定は決まっていない、と答えました」


「あなたの署名で保証文書を出したことは」


「ありません」


記録される。


次。


「第七十四日の公表前、橋が止まる可能性を理解していましたか」


「はい」


「D地区の後退が止まる可能性は」


「聞いていました」


「それでも公表した」


「はい」


そこまでだった。


記録官が紙を揃える。


俺は机の端に、別の紙があるのを見た。


**対外説明案。**


下に、小さい欄。


**ノア・フェルン本人声明――添付可否。**


「これ、俺が書くんですか」


記録官が見る。


「希望があれば、調査対象者としての説明を別紙で受ける案です」


「橋の紙に付きます?」


「採用された場合は、広報資料へ添付する可能性があります」


少し考えた。


俺が話せば、聞く人はいると思う。


まだ手紙も来る。


偽勇者と書く人もいる。


助かったと書く人もいる。


俺が前へ出れば、昨日の門前みたいに人が止まるかもしれない。


それが良い止まり方かは、もう分からない。


「調査の説明はします」


俺は言った。


「でも、橋を開ける方の紙には付けないでください」


「理由は」


「開ける条件に俺の名前は入ってないので」


記録官は少しだけ俺を見る。


「分かりました」


欄に線が引かれた。


それだけだった。


* * *


夕方、ベアトリスから回答が来た。


封はD地区司令部。


オスカーが開く。


最初の紙。


**現停戦線を越える前進行動は行わない。**


二枚目。


**北側保護帯への無断巡回進入を停止。事前連絡を要する。**


三枚目。


**D地区第二段階後退――現時点で不同意。**


連合側の連絡官が息を吐く。


「そこは動かないか」


オスカーは紙を置く。


「動かない」


「なら失敗だ」


「全部を一枚にするならな」


オスカーが言った。


ベアトリスの文面には、俺の名前が一度もなかった。


勇者も。


死んだ人間を責める文でもない。


自分の部隊を下げない。


自分の部隊を前にも出さない。


保護帯には勝手に入らせない。


三つとも、ベアトリスが決めたことだった。


好きか嫌いかとは別に、分かりやすかった。


* * *


夜、イレーネが戻った。


昨日より外套の裾が汚れていた。


血はついていない。


それを最初に見た自分が少し嫌だった。


管理所の入口で、先に報告書を出す。


係員が受け取る。


**D地区北側臨時保護線・現場報告。**


責任者。


**イレーネ・クロイツ。**


俺は少し離れたところにいた。


護送が二人。


イレーネの護衛は、もう解散確認をしている。


「終わったんですか」


俺が聞く。


「今日の分は」


「何かありました?」


「巡回が二回近づいた」


「戦闘は」


「ない」


短い。


「ハルフェンの四人は戻した。北側の農家二世帯も、保護帯の外へ移した」


「イレーネが決めた?」


「こちら側の巡回停止は私」


少し間を置く。


「農家の移動は本人たちと地元担当。向こう側が線を越えなかったのは、向こうの判断」


全部、自分の手柄にはしなかった。


「そうですか」


「そう」


それ以上はなかった。


俺が礼を言う話でもない。


イレーネは報告書へ追加の署名をする。


俺は自分の部屋へ戻る。


違う護衛と一緒に。


* * *


八十一日目。


朝、灰橋の横木はまだ付いていた。


俺が最初にここへ来る前と、少し似ている。


違うのは、閉じた門の横に紙が増えていることだった。


リーゼの条件板。


一つ目。


**連合主力・前進禁止命令。確認。**


発令者欄に名前。


二つ目。


**旧魔王軍主力側・前進禁止確認。確認。**


こちらにも名前。


三つ目。


**試験経路に接する主力側双方の警戒哨・指定線まで後退。**


半分だけ白い。


東側確認済み。


西側確認待ち。


四つ目。


**護送引継ぎ地点・中立再確認。**


灰色。


まだ誰も渡っていない。


「今日、開けます?」


俺が聞く。


リーゼは首を横に振った。


「開けません」


「ですよね」


「条件が揃っていません」


その時、伝文晶が鳴った。


西側から。


記録係が受ける。


短いやり取り。


紙になる。


リーゼへ渡る。


読む。


三つ目の札が裏返された。


白。


**主力側双方の警戒哨・指定線まで後退。確認。**


あと一つ。


「護送地点の確認は?」


輸送担当が聞く。


「明朝、双方の線が維持されていることを見てから」


リーゼが言う。


「確認できたら?」


「試験枠を出します」


板の下に、新しい細い札が置かれた。


**第八十三日・限定通行試験候補。**


まだ灰色だった。


その下に、条件を持つ側が並ぶ。


連合主力指揮系統。


旧魔王軍主力側停戦代表。


ハルフェン。


D地区の名前はなかった。


「ハルツ司令部は?」


連絡官が聞く。


「今回の試験対象から外します」


リーゼが言った。


「D地区が動かないままでも?」


「D地区を通さない範囲で、安全条件が成立するかを確認します」


「広域帰還は」


「再開しません」


「第二段階後退は」


オスカーが答えた。


「主力側の合意区画だけ、別に時刻を詰める。実行はまだだ」


まだ。


その言葉が今日は前と少し違って聞こえた。


前は、俺を残すために後ろへ伸びる言葉だった。


今日は、誰かが自分の名前で次へ進む前に置いている。


板を見る。


発令者。


停戦代表。


ハルフェン。


そこに俺の名前はなかった。


門は閉じたままだった。


でも、開けるための紙には、もう俺の名前がいらなかった。

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