Episode 030 — 勇者なしで決める人たち
七十九日目の朝。
イレーネは、俺より先に外へ出た。
正確には、俺は外へ出ていない。
宿舎の二階の窓から、中庭を見ていた。
馬が六頭。
荷車が一台。
護衛が八人。
昨日、管理所で見た色の通行札が、一人ずつ確認されている。
最後にイレーネが紙を出した。
係員が読む。
「イレーネ・クロイツ副官。D地区北側保護線、臨時現場指揮」
名前を聞いて、判が押される。
勇者の名前は出なかった。
俺の名前も。
窓の横には、今日も俺の護送が二人いた。
イレーネの八人は、俺を守るための人ではない。
もうかなり分かりやすい。
彼女が馬へ乗る前に、一度だけ上を見る。
目が合った。
手は振らなかった。
俺も振らなかった。
そのまま門が開く。
六頭と荷車が出る。
門が閉じる。
俺の扉は開いていた。
外へは出られなかった。
* * *
午前、別の紙が来た。
今度は俺の名前が大きかった。
**ノア・フェルン。**
その下。
**特別契約清算・一時保留。**
「今までの分も返すんですか」
最初に聞いた。
会計官は首を横に振った。
「既払い分を、この紙だけで返還扱いにはしません」
「よかった」
思ったより先に出た。
会計官は笑わなかった。
「未精算分と、終了時の補償項目を止めます。契約の成立範囲、政府側の指示、あなた自身の行為を調査してからです」
「部屋代は?」
「現在の宿舎・食事・護送は清算報酬ではありません」
紙を一枚めくる。
「証言・安全管理上の必要経費として別扱いです」
「つまり、ここにいる金は出る」
「そうです」
「ここから出る金は止まる」
会計官が少し考える。
「だいたい合っています」
かなり分かりやすかった。
次の紙には、もっと文字が多かった。
**事実調査開始通知。**
対象欄。
勇者代行運用の開始承認。
継続承認。
勇者名義で行われた個別判断。
会議・軍連絡資格の使用。
関係官の承認経路。
俺だけの紙ではなかった。
オスカーの役職もある。
軍務側。
警備側。
記録側。
「裁判ですか」
「まだ事実調査です」
「いつ終わります?」
「決まっていません」
まただった。
最近の俺の予定は、決まっていないものが多い。
「説明を書けば早くなります?」
「必要な説明は聴取で取ります」
会計官ではなく、隣の記録官が答えた。
「あなたが書いた結論を採用する手続きではありません」
「はい」
それも分かりやすかった。
俺が自分で『ここまでは国、ここからは俺』と線を引けば終わるなら、昨日までの会議はいらない。
紙の最後に署名する。
ノア・フェルン。
今度は、書く場所を間違えなかった。
* * *
昼過ぎ。
灰橋の管理所へ移された。
橋は閉じたままだった。
東門の横木。
荷車路。
徒歩路。
白い札は一枚だけ。
**医療緊急。**
今日はまだ外れていない。
二階の連絡室に、セレクがいた。
俺が入る前から話していた。
向かいには旧魔王軍側の連絡員が二人。
一人が地図を広げている。
「D地区が残るなら、こちらも戻すべきです」
「何を」
セレクが聞く。
「南側の二隊です。今は警戒を一段戻しただけだ。兵を増やせという声が出ています」
「誰から」
いくつか役職が挙がる。
俺には全部は分からない。
セレクは聞き終わってから紙を取った。
「私の名義で出せる範囲には、増派を勧めません」
「理由は」
「こちら側の家族が、まだハルフェンと西側待機地に残っている」
窓の外を見る。
橋は閉じている。
「警戒線を前へ出せば、帰還が止まるだけでは済まない。保護線の再設定も遅れる」
「向こうは下がらない」
「D地区は下がらない」
セレクが言った。
「連合側全部ではない」
連絡員が黙る。
「全部だと決めて動けば、全部にする手伝いをする」
声は大きくない。
「私はそれを勧めません」
「帰還は?」
「広域帰還は止めたままです」
「勇者の保証なしで戻せないと?」
セレクは俺を見なかった。
「今ある保証では勧めない」
紙へ書く。
「別の保証を求める。その条件を詰める。その間にこちらから兵を前へ出して、必要な保証を増やす気はありません」
最後に署名した。
セレク・アーデン。
紙は二通作られた。
一通は西側。
一通は記録用。
俺に見せるためではなかった。
俺がそこにいただけだった。
* * *
その日の夕方、最初の連絡が来た。
D地区北側。
イレーネの隊から。
伝文晶の記録係が読み上げる。
「北側第二区画。ハルフェン路標確認員四名、保護線内から後退完了」
リーゼが地図へ印を付ける。
「接触は」
「連合側巡回一隊が保護線へ入る前に停止。クロイツ副官の現場命令で迂回」
次。
「対向側巡回は旧標識線の西で停止。連絡旗のみ。接触なし」
セレクが聞く。
「こちらの系統か」
連絡員が確認する。
「昨日の警戒復帰対象の一隊です」
「追加命令は」
「なし」
オスカーが紙を見る。
「保護線は維持できる?」
記録係が次を読む。
「クロイツ副官回答。『本隊を下げる権限はない。保護帯への進入だけなら、こちら側は止められる』」
短かった。
イレーネらしいと思った。
俺なら、もう少し何か足してしまったかもしれない。
たぶん、その余計な部分が今はいらない。
* * *
八十日目。
灰橋は閉じたまま。
でも、管理所の机は昨日より紙が増えていた。
オスカーが三束に分けている。
一束目。
**現停戦命令・暫定継続確認。**
二束目。
**主力区画・限定第二段階後退案。**
三束目。
**灰橋・限定再開条件案。**
一束目には、今の停戦確認を審査中も切らさないための文面が付いていた。
「七十四日前の案より、紙が増えましたね」
俺が言う。
「増えた」
オスカーは否定しなかった。
「前は勇者の継続が、一つの安全材料をまとめて持っていた」
三束を見る。
「私は、それが短期の不安定を抑えていたという判断は変えていない」
俺は黙った。
「だが、今は使えない」
オスカーが一束目を置く。
「だから各系統が、自分の名義で持つものを増やす」
「最初からできた?」
「全部は揃っていなかった」
答えは早かった。
「今は揃えるしかない」
謝ってはいない。
勝った顔もしていない。
たぶん、その方が今は正しかった。
一束目を指す。
「停戦命令は各指揮系統が自分の名義で再確認する」
二束目。
「動かせる主力区画だけ、後退時刻と停止線を再設定する」
三束目。
「橋は、その結果を見てハルフェンが判断する」
「D地区は」
「別紙」
薄い紙が一枚置かれた。
**D地区――現位置維持。継続協議。**
それだけだった。
「和平案から外すのか」
連合側の連絡官が聞く。
「全体からではない」
オスカーは答える。
「今この場で動かせる部分と、動かせない部分を同じ期限で扱わない」
「後退しない部隊を残して橋を開ける?」
「橋を開けるとはまだ言っていない」
リーゼが言った。
オスカーではなかった。
彼女の前には、昨日までの運用板がある。
**通常輸送――停止。**
**医療緊急――継続。**
どちらも変わっていない。
「ハルフェンが必要とする条件を確認します」
リーゼが別の板を出した。
空欄が四つ。
一。
**連合主力・前進禁止命令。発令者名/確認時刻。**
二。
**旧魔王軍主力側・前進禁止確認。発令者名/確認時刻。**
三。
**試験経路に接する主力側双方の警戒哨・指定線まで後退。現認。**
四。
**護送引継ぎ地点・中立職員再確認。**
「全部、紙だけでいいのか」
「三と四は見ます」
リーゼが答えた。
「誰が?」
「ハルフェンの職員です」
「危険だ」
「だから、一と二が先です」
順番まで決まっていた。
連絡官が俺を見る。
「本人の確認は条件に入れない?」
「入れません」
リーゼが答えた。
それで終わった。
少し痛い。
少しだけ、安心した。
両方だった。
* * *
昼過ぎ、俺は聴取室へ戻された。
昨日の調査の続き。
第十六日。
第十九日。
第二十一日。
前にも聞かれた日付が増えている。
「第二十四日の帰還準備で、勇者継続を条件として説明しましたか」
「俺からはしてません」
「訂正しましたか」
「先の予定は決まっていない、と答えました」
「あなたの署名で保証文書を出したことは」
「ありません」
記録される。
次。
「第七十四日の公表前、橋が止まる可能性を理解していましたか」
「はい」
「D地区の後退が止まる可能性は」
「聞いていました」
「それでも公表した」
「はい」
そこまでだった。
記録官が紙を揃える。
俺は机の端に、別の紙があるのを見た。
**対外説明案。**
下に、小さい欄。
**ノア・フェルン本人声明――添付可否。**
「これ、俺が書くんですか」
記録官が見る。
「希望があれば、調査対象者としての説明を別紙で受ける案です」
「橋の紙に付きます?」
「採用された場合は、広報資料へ添付する可能性があります」
少し考えた。
俺が話せば、聞く人はいると思う。
まだ手紙も来る。
偽勇者と書く人もいる。
助かったと書く人もいる。
俺が前へ出れば、昨日の門前みたいに人が止まるかもしれない。
それが良い止まり方かは、もう分からない。
「調査の説明はします」
俺は言った。
「でも、橋を開ける方の紙には付けないでください」
「理由は」
「開ける条件に俺の名前は入ってないので」
記録官は少しだけ俺を見る。
「分かりました」
欄に線が引かれた。
それだけだった。
* * *
夕方、ベアトリスから回答が来た。
封はD地区司令部。
オスカーが開く。
最初の紙。
**現停戦線を越える前進行動は行わない。**
二枚目。
**北側保護帯への無断巡回進入を停止。事前連絡を要する。**
三枚目。
**D地区第二段階後退――現時点で不同意。**
連合側の連絡官が息を吐く。
「そこは動かないか」
オスカーは紙を置く。
「動かない」
「なら失敗だ」
「全部を一枚にするならな」
オスカーが言った。
ベアトリスの文面には、俺の名前が一度もなかった。
勇者も。
死んだ人間を責める文でもない。
自分の部隊を下げない。
自分の部隊を前にも出さない。
保護帯には勝手に入らせない。
三つとも、ベアトリスが決めたことだった。
好きか嫌いかとは別に、分かりやすかった。
* * *
夜、イレーネが戻った。
昨日より外套の裾が汚れていた。
血はついていない。
それを最初に見た自分が少し嫌だった。
管理所の入口で、先に報告書を出す。
係員が受け取る。
**D地区北側臨時保護線・現場報告。**
責任者。
**イレーネ・クロイツ。**
俺は少し離れたところにいた。
護送が二人。
イレーネの護衛は、もう解散確認をしている。
「終わったんですか」
俺が聞く。
「今日の分は」
「何かありました?」
「巡回が二回近づいた」
「戦闘は」
「ない」
短い。
「ハルフェンの四人は戻した。北側の農家二世帯も、保護帯の外へ移した」
「イレーネが決めた?」
「こちら側の巡回停止は私」
少し間を置く。
「農家の移動は本人たちと地元担当。向こう側が線を越えなかったのは、向こうの判断」
全部、自分の手柄にはしなかった。
「そうですか」
「そう」
それ以上はなかった。
俺が礼を言う話でもない。
イレーネは報告書へ追加の署名をする。
俺は自分の部屋へ戻る。
違う護衛と一緒に。
* * *
八十一日目。
朝、灰橋の横木はまだ付いていた。
俺が最初にここへ来る前と、少し似ている。
違うのは、閉じた門の横に紙が増えていることだった。
リーゼの条件板。
一つ目。
**連合主力・前進禁止命令。確認。**
発令者欄に名前。
二つ目。
**旧魔王軍主力側・前進禁止確認。確認。**
こちらにも名前。
三つ目。
**試験経路に接する主力側双方の警戒哨・指定線まで後退。**
半分だけ白い。
東側確認済み。
西側確認待ち。
四つ目。
**護送引継ぎ地点・中立再確認。**
灰色。
まだ誰も渡っていない。
「今日、開けます?」
俺が聞く。
リーゼは首を横に振った。
「開けません」
「ですよね」
「条件が揃っていません」
その時、伝文晶が鳴った。
西側から。
記録係が受ける。
短いやり取り。
紙になる。
リーゼへ渡る。
読む。
三つ目の札が裏返された。
白。
**主力側双方の警戒哨・指定線まで後退。確認。**
あと一つ。
「護送地点の確認は?」
輸送担当が聞く。
「明朝、双方の線が維持されていることを見てから」
リーゼが言う。
「確認できたら?」
「試験枠を出します」
板の下に、新しい細い札が置かれた。
**第八十三日・限定通行試験候補。**
まだ灰色だった。
その下に、条件を持つ側が並ぶ。
連合主力指揮系統。
旧魔王軍主力側停戦代表。
ハルフェン。
D地区の名前はなかった。
「ハルツ司令部は?」
連絡官が聞く。
「今回の試験対象から外します」
リーゼが言った。
「D地区が動かないままでも?」
「D地区を通さない範囲で、安全条件が成立するかを確認します」
「広域帰還は」
「再開しません」
「第二段階後退は」
オスカーが答えた。
「主力側の合意区画だけ、別に時刻を詰める。実行はまだだ」
まだ。
その言葉が今日は前と少し違って聞こえた。
前は、俺を残すために後ろへ伸びる言葉だった。
今日は、誰かが自分の名前で次へ進む前に置いている。
板を見る。
発令者。
停戦代表。
ハルフェン。
そこに俺の名前はなかった。
門は閉じたままだった。
でも、開けるための紙には、もう俺の名前がいらなかった。




