Episode 029 — 俺が真実を言ったせいで、門が閉じる
七十七日目。
朝の予定表から、移動が一つ消えていた。
正確には、消されていた。
俺の部屋へ持ってこられた確認用の紙に、太い横線が引いてある。
**D地区・第二段階後退 次回移動。**
その下。
**中止。現位置維持。**
昨日、伝文晶で届いた内容と同じだった。
紙になると、少し重く見える。
「確認だけお願いします」
記録係が言った。
「あなたへの命令ではありません」
「分かってます」
最近、それを先に言われることが増えた。
俺も先に分かるようになった。
紙の右端には、輸送欄があった。
撤収用荷車十二。
交代人員。
武器箱。
糧秣。
全部に赤線。
「実際に、もう止まってるんですか」
「夜明け前に出発準備を解除したそうです」
「積んだ荷物は?」
「一部は降ろし直し」
それは面倒そうだった。
戦争が戻る時も、荷物は降ろし直すらしい。
いや。
まだ戦争は戻っていない。
そこは間違えない方がいい。
紙の一番下に、別の行があった。
**現停戦命令――継続。**
白いままだった。
* * *
昼前、また呼ばれた。
今日は会議棟ではなかった。
灰橋東詰めの管理所。
移動には護送が二人ついた。
俺は何も持っていない。
通行札もない。
剣もない。
護送の人が札を出す。
俺が通る。
もう慣れてきた。
慣れたくはなかった気もする。
管理所の二階には、前から使っていた運用板が移されていた。
窓の向こうに橋が見える。
六十六日目に引き直していた白い線も見えた。
荷車列。
徒歩列。
医療移送用の空き。
あの時より増やした線が、今日はほとんど使われていない。
板には三枚。
**現在制限運用――継続。**
**新規帰還出発――停止。**
**批准後拡大――停止。**
昨日と同じ。
その横に、赤い札。
**D地区・次回後退――中止。**
リーゼが窓際にいた。
オスカー。
セレク。
ハルフェンの輸送担当。
両側の連絡係。
俺の椅子は壁際だった。
昨日と同じ種類の席だ。
「対向側から追加回答です」
リーゼが言った。
旧魔王軍側の連絡係が紙を読む。
「D地区正面の隣接二部隊。夜間警戒を平時停戦配置から一段階戻す」
オスカーが聞く。
「前進は」
「なし」
「兵力追加」
「現時点で確認なし」
「理由は」
「連合側後退中止の意図が確認できるまで」
セレクが紙を受け取る。
一度読む。
「私の系統から、現停戦命令が継続していることは送る」
「止められますか」
リーゼが聞く。
「警戒配置に戻ること自体は止めません」
セレクは答えた。
「こちらから見れば、向こうが下がるはずの場所に残った。その理由を確認するまでは当然です」
「前進は」
「させないよう求める」
少し間が空く。
「私が命令できる範囲には」
最後まで言った。
前なら、勇者が一言言えば全部止まるような顔をする人がいたかもしれない。
今はいない。
たぶん、最初からそんなに止まらなかった。
* * *
一階から声が上がった。
管理所の係員が入ってくる。
「東側待機列が増えています」
「何件」
リーゼが聞く。
「既存許可が十一。医療一。生活物資三。個人通行が七」
「新規帰還は?」
「昨日から出していません」
そこは守られている。
「既存許可の人たちは、今日なら通れると思って来ています」
窓から下を見る。
荷車が並んでいる。
少ない。
でも、ゼロではない。
昨日までに出た許可は、昨日の時点では一括で無効にしなかった。
だから来る。
許可証を持って。
止まった世界の中で、まだ白かった部分へ。
リーゼが輸送担当を見る。
「西側は」
「同程度です。ただ、向こうはD地区の警戒復帰を聞いて、取り下げが三件」
板の数字が書き換えられる。
十一が八になる。
人が来なくなるのも、数字では減るだけだった。
* * *
午後、俺は一階へ降ろされた。
証言のためだった。
昨日までに出した通行許可のうち、勇者本人の立会いを条件にしたものがないか確認するらしい。
俺が決めるわけではない。
聞かれたことに答えるだけ。
その途中で、保管区画の前を通った。
箱が並んでいる。
三十一。
三十二。
三十三。
見覚えがあった。
六十七日目。
帰還準備区画で見た番号だ。
三十三の横に、第四便の札がまだ付いていた。
その上から、新しい紙が貼られている。
**出発日未定。登録維持。条件再提示後に再確認。**
箱の前に、男の子がしゃがんでいた。
十歳くらい。
前に番号札を指で曲げていた子だった。
今日は紙の端を触っている。
隣に若い夫婦。
夫が係員へ聞いていた。
「第四便は無くなったんですか」
「便番号はいったん保留です」
「母は?」
「お母様の登録も保留のままです」
「一緒に来られるんですか」
「再開条件が決まってからです」
夫婦が顔を見合わせる。
前は、母親があとから来るから第四便にした。
最初が落ち着いてから帰ると言っていた。
最初が落ち着く前に、便の方がなくなった。
「箱を開けてもいいですか」
妻が聞く。
「必要な物だけなら。番号は残します」
「上着を入れてしまって」
係員が封を確認する。
男の子が立つ。
そこで俺を見た。
前にも会った。
たぶん、向こうも覚えていた。
何も言わなかった。
俺も言わなかった。
謝ればいいのかもしれない。
でも、今ここで俺が謝ると、係員の仕事まで俺の話になる気がした。
箱が開く。
畳んだ上着が出る。
それだけだった。
人が帰れない時に起きることは、もっと大きなものだと思っていた。
子供の上着を、いったん箱から出すことも含まれるらしい。
* * *
確認室は橋のすぐ横だった。
リーゼが許可証を一枚ずつ分ける。
「医療は通します」
最初に言った。
「緊急搬送は現行の中立手順で継続」
輸送担当が白札を一枚残す。
「生活物資は?」
「止めます」
「既存の個人通行」
「止めます」
「交換」
リーゼは少しだけ考えた。
「本日未実施分は停止」
連合側の連絡係が顔を上げる。
「昨日は既存許可を残した」
「昨日は、D地区の中止命令が届いたところまででした」
リーゼが言う。
「対向側の配置変更と、護送条件への影響までは確認できていませんでした」
赤い札を見る。
「今は違います」
輸送担当が地図を寄せた。
「東側の護送終了点はここ。西側の引継ぎ位置はここです」
二つの印の外側に、D地区と対向側の警戒線がある。
「昨日までの警戒配置なら、双方の護送をこの間で切り替えられました」
赤鉛筆が二本、内側へ動く。
「今は両側とも配置を戻している。引継ぎ位置と接触警戒の距離を、同じ条件では保証できません」
リーゼが頷く。
「停戦は続いています。攻撃命令も確認していません」
地図を見る。
「それでも、通常の荷車や徒歩列を通す安全条件は、今の配置で再確認が必要です」
「停戦が生きているのに橋を閉じれば、崩れたと読まれる」
オスカーが言った。
反対ではなく、確認する声だった。
「閉じなくても、確認できない護送条件で民間を通せば別の意味に読まれます」
リーゼは紙に書く。
**灰橋・通常輸送停止。**
その下。
**医療緊急通行のみ継続。**
「期間は」
セレクが聞く。
「再評価まで」
「いつ」
「条件が戻った時です」
「日付ではない?」
「日付では安全になりません」
リーゼが答えた。
それで決まった。
俺は何も聞かれていない。
* * *
外へ出る前に、鐘が鳴った。
橋の運用変更を知らせる鐘だった。
一度。
二度。
前に開放時間を延ばした時とは、鳴らし方が違う。
係員が門へ走る。
白い線の上にいた荷車へ説明が始まる。
声が重なる。
「今日の許可だぞ」
「西側へ連絡は」
「荷物だけでも」
「いつ再開する」
全部、聞こえた。
俺は管理所の出口で止まった。
人が集まり始めている。
こういう時にやることを、身体は覚えていた。
背筋を伸ばす。
肩を開く。
一歩、前へ出る。
息を吸う。
声を低くする前のところまで行った。
「俺が――」
護送の一人が腕を出した。
触れてはいない。
でも、前には出られない。
「外部への発言許可は出ていません」
言われた。
「あ」
そこで止まった。
当たり前だった。
俺が出ていって何を言うつもりだったのかも、よく分からない。
大丈夫です。
待ってください。
勇者がいます。
どれも使えない。
最後の一つは、特に。
俺は肩を戻した。
「すみません」
「いえ」
護送の人も、それ以上言わなかった。
リーゼが後ろから出てくる。
俺ではなく、係員へ指示する。
「東西両方へ同文を出して。停戦継続と、橋の停止理由は分けて書いてください」
「はい」
「群衆説明は私の名義で」
俺の名前は出なかった。
門の前へ行くのも、俺ではなかった。
* * *
灰橋の東門が閉まるところを、二階の窓から見た。
大きな扉ではない。
鉄の横木が二本。
荷車用の中央路へ一本。
徒歩路へ一本。
係員が通行札を回収する。
白い線の上にいた荷車が、一台ずつ向きを変える。
橋の上には誰も残さない。
西側でも同じ作業が進んでいると伝文晶が来る。
板から白い札が外された。
**現在制限運用――継続。**
代わりに灰色。
**通常輸送――停止。**
その下だけ、白い札。
**医療緊急――継続。**
前に増やした白線が、全部空いた。
勇者が立つ予定だった丸印も残っている。
白墨なので、まだ消していないだけだと思う。
そこに立つ人はいなかった。
* * *
夕方、オスカーが管理所へ戻ってきた。
手に紙を何枚も持っている。
俺の横を通る。
「D地区?」
リーゼが聞く。
「ああ。現位置維持の再確認。停戦線を越えるなという命令も同時に出した」
「対向側は」
セレクが答える。
「こちらも前進停止を送った。ただし警戒は戻す」
誰も喜んでいない。
誰も驚いてもいない。
オスカーが俺を見る。
一瞬だけだった。
何も言わなかった。
俺も。
七十三日目に聞いた話を思い出す。
公表すれば、D地区が止まるかもしれない。
向こうも警戒を戻す。
リーゼなら橋を止める可能性がある。
全部、そのままではなかった。
でも、かなり近かった。
俺が言ったことは、その中から外せなかった。
それ以上は、今ここで一人分にまとめられなかった。
* * *
七十八日目の朝。
門はまだ閉じていた。
それでも、一度だけ横木が外れた。
西側から緊急の医療搬送が来たからだ。
小さな荷車。
白い札。
護衛は最小限。
東門の係員が封を確認する。
西側から受け渡し記録が届く。
リーゼの職員が時刻を書く。
横木が一本だけ外れる。
荷車が通る。
終わると、また閉じる。
門が閉じても、全部が止まるわけではない。
全部を止めないために、ほとんどを止めている。
そういう形だった。
少し離れた待機所では、第四便の札が外されていた。
三十三の箱には昨日と同じ紙。
**出発日未定。**
若い夫婦は今日は来ていなかった。
上着を出したからだと思う。
箱だけ残っている。
* * *
昼過ぎ、イレーネを見た。
俺の部屋ではない。
管理所の一階。
机の上に、明日付の通行札と命令書が置かれている。
俺から回収されたものとは違う色だった。
「どこへ?」
聞いてから、俺が聞くことでもない気がした。
イレーネはこっちを見る。
「D地区北側の保護線」
短く答えた。
「明日?」
「朝に出る」
「そうですか」
それだけだった。
何をするか、俺に相談はしない。
許可も求めない。
当然だった。
イレーネは自分の命令書を畳む。
俺の護送は、俺の横にいる。
窓の向こうでは、灰橋の横木が戻っていた。
俺が本当のことを言ったあと、門は閉じた。
閉じた門を、俺には開けられなかった。




