Episode 020 — 偽物だと疑われた方が、まだ楽だった
止めるための場所には、物が多い。
柵。
鎖。
杭。
帳面。
赤い札。
それから、止められている人間。
ハルフェンを出て半日、D地区第七码所の前には荷車が五台並んでいた。
雨は朝から降ったり止んだりしている。
街道の端が少しぬかるんでいた。
先頭の荷車では、兵が男の通行証と古い名簿を交互に見ている。
「旧補助第六中隊?」
「そうです」
「名簿に後半がない」
「俺に言われても」
男は怒っているというより、疲れていた。
兵も同じ顔をしている。
「本人確認が終わるまで、脇へ」
荷車が列から外される。
後ろの二台が前へ進んだ。
止まる人間がいても、関門そのものは止まらない。
「見るところは見た?」
隣でイレーネが聞いた。
「たぶん」
「たぶんで歩かないで」
「はい」
彼女は先に進む。
仕事の声だった。
三日前と同じ。
その前とも同じ。
俺が何を決めても、道の危険まで気を遣ってくれるらしい。
そこに別の意味を足すのは、今はやめた。
関門の奥に、低い木造の建物が二つある。
片方は検査所。
もう片方には窓が一つしかない。
ベアトリス・ハルツは、その前に立っていた。
「勇者殿」
「お招きありがとうございます」
「招待ではありません」
「そうでした」
言われてみれば、通行検査だった。
ベアトリスはイレーネを見る。
「随員はクロイツ副官で?」
「ええ」
イレーネが答える。
「中を確認する」
「どうぞ」
先にイレーネが建物へ入る。
机。
棚。
鍵箱。
裏口なし。
窓の外に兵が一人。
一周見て戻ってくる。
「問題ない」
「では、資料を見るのは勇者殿だけです」
ベアトリスが言った。
「旧戦時機密が二点ある」
イレーネは俺を見る。
「扉は閉めないで」
「分かりました」
それだけだった。
* * *
部屋の机には、最初から紙が三束置かれていた。
ベアトリスは一番厚い束から開いた。
「先に、今日の話が私個人の興味ではないことを確認しておきます」
一枚目。
ハルフェンの帰還待機所から回された報告だった。
黄色い札。
農家。
種。
雨。
見覚えのある単語が並んでいる。
「三日前、連合側の避難農家が通行枠を失った」
「はい」
「医療移送を先にするよう意見したのは、あなた」
「はい」
「許可を出したのはマーレ判事」
「そうです」
そこを分けて言うあたり、この人は分かっている。
「こちらへも苦情が来ています」
別の紙を出す。
農家側の署名。
地元の役所からの照会。
雨天時の街道状況。
「敵側を先にした、と」
俺は紙を見る。
三日前に、後ろから聞こえた言葉とほとんど同じだった。
「そう言われました」
「あなたの判断が間違いだったと言っているのではありません」
少し意外だった。
「医療側には待たせる危険があった。記録は読みました」
ベアトリスは農家側の紙を指で押さえる。
「ただ、こちらの住民には損が残った」
「はい」
「今朝の雨で、次の通行判断もまだ出ていない」
俺は窓の外を見る。
関門の屋根から水が落ちている。
「D地区の住民に、私は撤収を説明しなければならない」
ベアトリスが言う。
「武器は全部回収できていない。旧補助部隊の名簿は穴だらけ。山側では所属不明の足跡が出る。それでも兵を下げる」
外で木の棒が鳴った。
関門が一つ開くらしい。
荷車の車輪が軋む。
「その時に、自分たちの農家はまた待たされたと聞く」
ベアトリスは声を上げない。
「安全を下げる説明は、前より難しくなりました」
そこまでは、脅しではなかった。
たぶん全部、本当に困っている話だった。
「それで、俺に見せたい資料が?」
「ええ」
ベアトリスが二つ目の束へ手を置いた。
薄かった。
嫌な予感は、厚さとは関係ないらしい。
* * *
「ドランのあと、戦時記録を一つ照会しました」
ベアトリスが言った。
「俺が声明を読まなかったあと?」
「正確には、その日の夕方です」
あの時、彼女は言った。
最近のあなたは、自分の名前が何に使われるかを、ずいぶん細かく分ける。
覚えていたらしい。
「勇者の替え玉運用に関する制限名簿です」
紙の上には、昔の俺の名前があった。
**ノア・フェルン。**
その横。
**勇者外見類似役。限定囮任務。**
俺は一度、行を読み直した。
戦争中、何度か書いた肩書きだった。
遠くから勇者に見えること。
行軍の先頭へ立つこと。
囮の馬車に乗ること。
本物が別の場所にいると思わせること。
今読むと、ずいぶん説明が正確だった。
「連合軍の戦時保安記録です」
ベアトリスが言う。
「私には当時の閲覧権限があった。全件ではありません。D地区へ出入りした替え玉要員だけです」
俺は紙から目を上げる。
「よく似た人間がいた証拠ですね」
「そうです」
否定しない。
「それ以上ではない」
「名前が分かったので、道路統制記録も追いました」
次に、もう一枚。
日付は、あの日。
俺が舞台を降りて、軍病院へ連れて行かれた日。
名前。
**ノア・フェルン。**
区分。
**緊急封印移送。軍務優先。セレスタ方面。**
それだけだった。
何のためかはない。
誰に会ったかもない。
その先もない。
「このあと、ノア・フェルンの通常記録は切れます」
ベアトリスが言った。
「一座の移動記録にも戻らない。囮任務の名簿にも出ない」
俺は紙を机へ戻す。
手は震えていなかった。
役者としては助かった。
今は、あまり助かっていない気もした。
「二枚で、何が分かります?」
「替え玉が一人いた」
ベアトリスは一枚目を指す。
「その替え玉が、あの日にセレスタへ緊急移送された」
二枚目。
「それだけです」
少し間を置く。
「ユリウス・レグナートに何が起きたかは、これでは分からない」
俺は何も言わなかった。
「重傷の本人を隠して、替え玉を表へ出した可能性もある。別の機密任務に使っただけかもしれない」
ベアトリスは三つ目の束を開く。
今度は最近の紙だった。
サイル。
ドラン。
ハルフェン。
「ただ、そのあと勇者の判断の仕方が変わった」
「傷のあとですから」
「ええ」
すぐ頷いた。
「それでも説明できます」
一枚めくる。
「サイルでは、以前の自分の判断をなぞらなかった」
もう一枚。
「ドランでは、自分の名前を何に使わせるかを細かく分けた」
覚えていた。
あの日、彼女自身がそう言った。
「そしてハルフェンでは、両方の話を聞いて、連合側を待たせた」
俺は少し考える。
「ハルフェンの件だけなら、サイルと同じにも見えます」
「ええ」
ベアトリスの返事は速かった。
「だから、判断の向きだけを証拠にはしません」
紙を閉じる。
「違うのは、やり方です」
俺を見る。
「最近の勇者は、誰が決めるか、自分の名前をどこまで使わせるか、自分が約束していいことは何かを、以前より細かく分ける」
背中が少し固くなった。
「世間は、それを《変わった勇者》と呼んでいる」
「《変わった勇者》」
「傷でも説明できる呼び方です」
ベアトリスは最初の二枚を重ねた。
「でも、ノア・フェルンという訓練済みの替え玉が実在して、その男があの日セレスタへ呼ばれて、その直後から勇者が変わった」
指先で紙の角を揃える。
「偶然として捨てるには、少し多い」
部屋の外で、兵が誰かを呼ぶ声がした。
イレーネの声も聞こえる。
短く何か答えている。
扉は開いたままだった。
俺はその向こうを見なかった。
「つまり?」
「今ここにいる勇者が、ユリウス・レグナートではなく、ノア・フェルンである可能性を疑っています」
ベアトリスは言った。
「強く」
それだけだった。
死んだ、とは言わなかった。
どうして替わった、とも。
そこまでの紙は、彼女の机にはなかった。
少なくとも今は。
「司令官」
戸口から声がした。
さっき関門にいた兵だった。
「第六中隊の照合です。欠落頁以外の事由は出ませんでした。本人票は一致」
ベアトリスは顔だけ向ける。
「なら通常処理。通行証を確認して出して」
「留置は?」
「しない」
兵が敬礼して戻る。
窓の外で、脇へ出されていた荷車の男が立ち上がった。
別の係員から紙を受け取る。
少しして、荷車が列へ戻った。
「前に分け直した線は、まだ使ってるんですね」
俺が言う。
「私が決めた線です」
ベアトリスは答えた。
「今の規則では、名簿が欠けているだけで留置はしません」
それから、三つ目の束から別の紙を出した。
題は短い。
**D地区暫定保安措置・追加案。**
「こちらが本題です」
「今の話より?」
「私には」
そういう人だった。
紙には三つ印がついていた。
「第一。次の撤収枠から、第七码所を含むD地区の関門兵と移動障壁を外さない」
ベアトリスが一つ目を指す。
「一回分、後ろへ送る。名簿照合と武器回収の進捗を見て再判定する」
二つ目。
「第二。通常の二日で本人照合が終わらず、所属部隊について未回収武器との照会が残る者は、暫定留置を最大四日まで延長できるようにする」
「名簿が欠けているだけなら?」
「今までどおりです」
ベアトリスが言う。
「今回増やすのは、個人名の記録が出ていなくても、部隊単位の照会が二日で閉じない場合」
名簿が欠けているだけの人は、今までどおり出す。
ただ、個人の名前が何かに出ていなくても、部隊単位の照会だけで二日を越えて止められる人が出る。
ドランで分けた線を、少し広げる案だった。
「広げるなら、私の名で正式に提案します」
ベアトリスが続けた。
「通った範囲の責任も私です」
三つ目。
「勇者が、この措置を停戦安定と住民保護のため必要なものとして支持する」
見覚えがあった。
文章まで、少し似ている。
「前にも頼まれましたね」
「ええ」
「評議会では通らない?」
「通る部分もあります」
ベアトリスは言う。
「ただし撤収延期は反発が強い。留置延長も同じ。勇者の支持があれば、少なくとも連合側の反対は減る」
「旧魔王軍側は増えるでしょう」
「増えます」
そこも隠さない。
「だから必要ないとは思っていません」
外の関門を見る。
さっき脇へ出された荷車は、もう列の先へ進んでいた。
「名簿の穴から一人抜けて、明日武器を取られたら、今日通した理由を遺族に説明するのは私です」
「はい」
「兵を下げた場所で襲撃が起きても同じ」
「はい」
「D地区からは、もう撤収延期の要望が来ています。ハルフェンの農家の件が広がれば増えるでしょう」
俺は紙を見た。
「この案が必要かどうかは、俺には決められません」
「決める必要はありません」
ベアトリスが言う。
「支持していただければいい」
前と同じ言葉だった。
でも、机の中身が違った。
「支持したら」
俺は鍵箱を見る。
「さっきの二枚は?」
ベアトリスはすぐ答えなかった。
「公に出すには弱い資料です」
「はい」
「間違っていれば、私は勇者を替え玉扱いした司令官になる。戦時の囮運用まで自分から公開することになる」
「はい」
「今すぐ、その危険を取る理由はありません」
視線が、追加案へ戻る。
「D地区の安全上の問題が一つ減るなら、なおさら」
十分だった。
脅された、と言えば簡単だった。
でも、この案は今日いきなり作られたものではない。
関門は本当にある。
名簿も本当に欠けている。
武器も本当に全部は戻っていない。
農家が待たされたのも本当だ。
そこへ、俺の名前が一枚乗った。
たぶん、それが一番厄介だった。
「署名しなければ?」
「疑問を、疑問のまま捨てるつもりはありません」
ベアトリスはそれだけ言った。
告発する、とも言わない。
黙る、とも。
俺はもう一度、追加案を見た。
原則二日。
最大四日。
撤収、一回延期。
その二日を過ごすのは俺ではない。
残る関門の向こうで待つのも。
「その条件では、支持しません」
ベアトリスの顔は変わらない。
「理由を聞いても?」
「安全上必要かどうかは、司令官たちが決めてください」
俺は紙から手を離した。
「でも、俺の都合まで、その人たちの留置理由に足すのは嫌です」
少しだけ間があった。
「私は、あなたの都合でこの案を作ったのではありません」
「分かってます」
そこは本当に分かっていた。
「だから厄介です」
ベアトリスはしばらく俺を見た。
論破された顔ではなかった。
当然だった。
何も解決していない。
「では、勇者の支持なしで進められる範囲を進めます」
「はい」
「撤収延期も留置延長も、必要だと判断すれば正式に提案する」
「はい」
「あなたが誰であっても、D地区の危険と、こちらが払った損は消えません」
「はい」
ベアトリスは鍵箱へ手を置いた。
「二枚は戦時機密として保管へ戻します」
少し間を置く。
「疑問まで戻す気はありません」
俺は返事をしなかった。
* * *
外へ出ると、雨は止んでいた。
道は乾いていない。
さっき脇へ出されていた荷車は、もう関門の向こうへ進んでいた。
次の荷車が帳面の前に止まっている。
検査は続くらしい。
イレーネが俺を見る。
「終わった?」
「終わりました」
「帰る。南の道は使わない」
「何かあった?」
「帰還待機所の近くに連合側の住民と兵が集まり始めてる」
声が低い。
「人数はまだ多くない。旧補助兵を出せって言ってるらしい」
俺はベアトリスを見る。
彼女も伝令から同じ報告を受けていた。
顔は変わらない。
さっきの話が正しかった証拠ではない。
間違っていた証拠でもない。
ただ、次の問題がもう来ている。
馬車へ向かう途中、俺は小さく言った。
「俺の名前が、向こうの記録に残ってました」
イレーネが一度だけこちらを見る。
「ここでは話さない」
「はい」
それで会話は終わった。
馬車が動き出す。
第七码所が後ろへ離れていく。
偽物だと疑われるだけなら、まだ楽だった。
疑われるだけなら、返事を一つ考えればいい。
あの二枚は、返事を求めていない。
まだベアトリスの側にある。
次にも使える。




