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勇者が死んだので、俺が“勇者だったこと”にされた  作者: 綴木 灯
第二章「勇者が残したもの」

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Episode 010 — あの日、勇者は味方を止めた

ヴェルサを出て四日目、俺はサイルが川の名前ではないと知った。


渡る場所の名前だった。


今は橋が半分しか残っていない。


石造りの橋脚が川の中に二本立ち、その先は落ちている。代わりに少し上流へ仮設橋が架けられ、荷車が一台ずつ渡っていた。


その両側に兵がいる。


連合側。


停戦評議府側。


そして、どちらにも属さない顔で川を眺めている俺がいる。


「勇者殿」


呼ばれて振り向く。


ベアトリス・ハルツ司令官は、遠目にも司令官だと分かる人だった。


四十代半ばくらい。


灰色の軍服。


胸の勲章は少ない。


代わりに、袖口と靴がずいぶん使い込まれている。


俺を見る目も、セレスタの役人とは違った。


生きているかを確認する目ではない。


使えるかを確認する目だった。


「ご足労いただきました」


「本人の確認が必要だと聞きました」


「必要です」


即答だった。


俺は隣のイレーネを見る。


彼女は何も言わない。


セレクも少し離れた場所に立っている。


昨日までなら、その言葉だけで少し緊張したかもしれない。


今は別の意味で緊張する。


俺以外で本人ではないことを知っている人間が、三人に増えたばかりだからだ。


もちろん、ここでそれを考えているのは俺だけだった。


「こちらです」


ベアトリスが歩き出す。


川沿いの土手には、撤収準備を終えた荷車が並んでいた。


木箱。


杭。


巻かれた鉄鎖。


簡易障壁の板。


後ろには兵が二列。


出発する格好なのに、動いていない。


「第二段階の後退対象です」


ベアトリスが言う。


「北側監視所一個。南側稜線の予備隊一個中隊。移動障壁三台。弩砲二門」


俺は数字を覚える。


意味までは分からない。


「予定では今日?」


「午前中でした」


「止めたのは司令官?」


「私です」


迷いがない。


やっぱり、この人は下がりたくない人なのだと思った。


停戦しても兵を残したい。


危険と言えば残せる。


そういう人なのかもしれない。


たぶん、顔に出さなかった。


役者なので、そのくらいはできる。


「理由を見せます」


ベアトリスは、俺が何か言う前に続けた。


* * *


見せられたのは、会議室ではなかった。


南側の監視所だった。


土手から半刻ほど歩いた先に、小高い稜線がある。


頂上には粗い木柵と見張り台。


その向こうに、低い丘が三つ並んでいた。


「昨日の夕方、あの二つ目の丘で煙を確認」


ベアトリスが指す。


「夜の巡回で、軍靴の跡が二十人以上。街道の標柱が二本切られていました」


足元の箱から、兵が布包みを出す。


中には折れた矢が三本あった。


羽根の形が揃っていない。


「これが?」


「旧魔王軍の正規制式ではありません。連合のものでもない」


イレーネが一本取って見る。


「現地調達ね」


「おそらく」


「襲撃は?」


「まだない」


ベアトリスは答える。


「ただし、この監視所を落とすと、次の連合部隊までは六時間。後ろの三集落に常備兵はいません」


「自警団は?」


「合わせて四十人ほど。戦えるのは半分です」


俺は丘の向こうを見る。


集落は見えない。


屋根も。


煙も。


それでも、そこに人がいるらしい。


さっきまで俺は、ベアトリスを『下がりたくない人』に分類しかけていた。


分類が少し早かった。


最近それが多い。


「評議府側では?」


セレクが聞く。


「その一帯の部隊は、正式には解散済みです」


「正式には」


ベアトリスが繰り返す。


「はい」


セレクも否定しない。


「だからこそ、こちらも探しています」


「見つかっていない」


「見つかっていません」


二人とも、同じ事実を言っている。


意味だけが違う。


「では、第二段階は全部止める?」


俺が聞く。


ベアトリスは俺を見る。


「私はそう進言します」


「全部?」


「今、穴を開ける理由がない」


「向こう側にはあります」


セレクが言った。


「後退が止まれば、こちらでは“連合は約束どおり下がらない”という材料になる。帰還路の護衛を出す側も止まります」


「安全を確認するために残す兵を、約束違反と呼ばれても困ります」


「こちらも同じです。見つかっていない武装集団を理由に、いつまでも連合軍が前にいれば困る」


声は上がらない。


でも、引かない。


俺は口を挟まなかった。


こういう時、真ん中にいる人間が何か言えば真ん中の答えになるわけではない。


少なくとも、俺が今思いつく言葉は役に立たなそうだった。


ベアトリスが川のほうを見る。


「ここは、前にも同じでした」


「同じ?」


「危険が残っているのに、勇者が“ここまでだ”と言った」


俺を見る。


正確には、ユリウスを見る。


「サイルで」


風が吹いた。


昨日から何度も見た名前が、初めて場所になった。


* * *


古い橋のたもとに、石の基礎だけ残った広場があった。


今は資材置き場になっている。


端に、腰ほどの高さの杭が何本か残っていた。


黒く変色している。


「ここです」


ベアトリスが言った。


「停戦前。旧魔王軍の補助部隊と家族が、ここで投降しました」


俺は杭を見る。


「そのあと、連合の補給隊が襲われた」


「誰に?」


「分からなかった」


ベアトリスはすぐ答えた。


「少なくとも、その日の時点では」


セレクは黙っている。


「死者が出ました。現場には旧魔王軍系の装備が残っていた。司令部は、サイルで投降した補助兵全員を拘束し直すことを決めた」


「全員?」


「戦える年齢の者は全員。家族区画も閉鎖。犯人が出るまで移動禁止」


風で草が杭に当たる。


かさ、と乾いた音がする。


「あなたは止めた」


ベアトリスが俺へ言った。


「ユリウスが?」


一瞬、自分のことのように聞き返してしまった。


ベアトリスの眉が少し動く。


傷のせいにできる範囲だと思いたい。


「ええ」


彼女は続ける。


「“投降したというだけで全員を犯人にするな”と」


俺は何も言わない。


「拘束命令を止めた。名前の上がっている者だけ確認しろ、と。家族を人質のように残すな、と」


「命令権は?」


「正式には、彼の単独指揮下ではありませんでした」


少しだけ声が硬くなる。


「ですが勇者が前に立てば、兵は止まる」


今まで何度か、自分でも使った力だった。


人が一度、こちらを見る。


動きを止める。


その一度を使う。


「追撃隊が二時間遅れました」


ベアトリスが言う。


「拘束していれば確認できた者も散った。少なくとも三人は、その後の武装集団の名簿で確認されています」


「三人」


「全員が犯人だったとは言っていません」


俺が何か言ったわけでもないのに、先に言われた。


「ですが、何も失わなかった善行ではない」


それは、たぶん俺に向けた言葉ではなかった。


ここにいないユリウスへ、まだ言っているように聞こえた。


「そのあと、どうなったんです」


俺が聞く。


答えたのはセレクだった。


「下流の二つの駐屯地が投降しました」


ベアトリスの顔は動かない。


セレクが杭を見る。


「サイルで家族までまとめて拘束されなかったと伝わった。投降しても全員が報復対象になるわけではない、と」


「それで?」


「それで、門が開いた」


短かった。


「武器を置いた者が増えた。こちら側では、あの時の話を覚えている者が多い」


「連合側では、別のことを覚えています」


ベアトリスが言った。


「追えたはずの者を追えなかったこと。死んだ補給兵の家族に、なぜ敵側の家族を先に守るのかと聞かれたこと」


「先に、ではありません」


セレクが言う。


「そう聞こえた、という話です」


ベアトリスは訂正しない。


二人の間に、しばらく何も入らなかった。


俺は杭を見る。


昨日、ヴェルサの老人が言っていた。


娘は戻った。


息子は戻らなかった。


礼も石も投げない。


サイルは、そういう場所だったらしい。


誰かが助かったから、誰かの損が消えるわけではない。


誰かが損をしたから、助かったことまで嘘になるわけでもない。


俺はユリウスのことを、少しだけ知った。


同時に、分からないことが増えた。


* * *


「それで」


ベアトリスが俺を見る。


「今回も同じように、下がれと言いますか」


来た。


たぶん、彼女が俺を呼んだ理由はこれだった。


昔と同じ場所。


昔と同じ勇者。


なら、同じ答えを求めている。


そう見える。


でも、今ここにいるのは俺だ。


それを知っているのは、三人だけ。


「昔と同じなんですか」


俺は聞いた。


ベアトリスの目が細くなる。


「何がです」


「今いる二十人以上の武装集団と、サイルで投降した人たち」


「同じではありません」


俺は一度、地図を見る。


「なら、今のことを見て決めたいです」


ベアトリスはすぐには答えなかった。


代わりにイレーネが地図を広げた。


「全部止める必要があるかは別」


指を置く。


「北側監視所を下げても、南の稜線から街道は見える」


ベアトリスが覗き込む。


「北を下げれば、川沿いの死角が増える」


「そこは評議府側の巡回線と重なる」


セレクが言った。


「こちらで二人組を増やせます」


ベアトリスはすぐ首を縦に振らない。


「信用しろと?」


「確認してください」


セレクが答える。


「伝文晶で人数を出します。出せなければ北も残せばいい」


イレーネが別の位置を指した。


「弩砲は?」


「二門とも南へ置きます」


「それなら北の移動障壁は要らない」


「一台は残す」


「理由は?」


「丘から川へ降りる道が二本ある」


話が速い。


俺が入る場所がない。


助かった。


しばらくして、地図の上に二種類の印ができた。


動かすもの。


残すもの。


俺には細かい理由までは分からない。


でも、最初の『全部止める』からは変わっている。


セレクも、全部動かせとは言っていない。


「これなら?」


俺が聞く。


ベアトリスは地図を見る。


「北側は下げられます」


「南は?」


「確認便が戻るまで残す」


「評議府側は」


セレクへ向く。


「北側の後退が実行されれば、今日の帰還護衛は止めません」


そこまでだった。


和平ではない。


解決でもない。


半分動いて、半分残る。


今のサイルには、それくらいが合っている気がした。


「では、それで」


俺は言った。


ベアトリスが俺を見る。


「勇者殿の命令として?」


一瞬迷った。


ここで頷けば、一番簡単だった。


でも、地図を決めたのは俺ではない。


「北を下げられると判断したのは司令官とイレーネです」


ベアトリスの眉が動く。


「南を残すのも、司令官の判断で」


「では、あなたは何を」


「その判断を、昔の勇者の話だけで変えません」


それだけ言った。


正しい言い方だったかは分からない。


少なくとも、ユリウスの答えを借りてはいない。


* * *


昼過ぎ、北側の監視所が動いた。


兵が杭を抜く。


箱を荷車へ積む。


移動障壁が一台、土手を離れる。


大きな音はしない。


旗も振られない。


ただ、昨日まで兵がいた場所から兵がいなくなる。


川の反対側では、評議府側の巡回兵が二人増えた。


セレクが約束した人数だった。


南側の稜線には、まだ連合旗が立っている。


半分だけだ。


でも、半分は本当に動いた。


ベアトリスは撤収する兵を見ていた。


満足しているようには見えない。


不満そうにも見えない。


「一つ聞いても?」


俺が言う。


「どうぞ」


「サイルの時、ユリウスを嫌いになりました?」


聞いてから、少し私的すぎたかと思った。


ベアトリスはしばらく答えなかった。


「嫌いなら、楽でした」


予想していない答えだった。


「彼が止めなければ、もっとひどいことになった可能性もある。それは分かっています」


川を見る。


「同時に、彼が止めたことでこちらが払ったものもある」


「はい」


「英雄の話になると、後ろのほうだけ消える」


俺は何も言わなかった。


昨日までは、ユリウスのことを知れば、この役が少しやりやすくなると思っていた。


どういう人だったか分かれば、真似できる部分が増える。


でも、知ったのは答えではなかった。


誰かにとって正しかった行動が、別の誰かには傷として残る。


そこまで含めて真似する方法は、俺には分からない。


「南の確認便は明朝です」


イレーネが後ろから言った。


「ドラン駐屯地まで今日中に入る」


「分かりました」


俺たちはサイルを離れた。


橋は半分落ちたままだった。


* * *


夕方、ドラン駐屯地へ入る直前で、前を走っていた馬車が速度を落とした。


門の前が混んでいる。


兵ではない荷車が四台。


屋根に長い木箱。


布を巻いた大道具。


楽器箱。


見覚えがあった。


嫌になるくらい。


「今日から慰問の一座が入るそうです」


護衛兵が言った。


知っている。


セレスタを出る前に聞いた。


軍営を回って、ドランにも来る。


予定どおりなら、いつか会う。


予定どおりだったらしい。


先頭の荷車から男が降りた。


長旅で少し伸びた髪。


荷台へ何か指示しながら、片手で上着を直す癖。


マルクだった。


俺の昔の名前を知っている人間。


向こうは、まだこちらを見ていなかった。

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