Episode 010 — あの日、勇者は味方を止めた
ヴェルサを出て四日目、俺はサイルが川の名前ではないと知った。
渡る場所の名前だった。
今は橋が半分しか残っていない。
石造りの橋脚が川の中に二本立ち、その先は落ちている。代わりに少し上流へ仮設橋が架けられ、荷車が一台ずつ渡っていた。
その両側に兵がいる。
連合側。
停戦評議府側。
そして、どちらにも属さない顔で川を眺めている俺がいる。
「勇者殿」
呼ばれて振り向く。
ベアトリス・ハルツ司令官は、遠目にも司令官だと分かる人だった。
四十代半ばくらい。
灰色の軍服。
胸の勲章は少ない。
代わりに、袖口と靴がずいぶん使い込まれている。
俺を見る目も、セレスタの役人とは違った。
生きているかを確認する目ではない。
使えるかを確認する目だった。
「ご足労いただきました」
「本人の確認が必要だと聞きました」
「必要です」
即答だった。
俺は隣のイレーネを見る。
彼女は何も言わない。
セレクも少し離れた場所に立っている。
昨日までなら、その言葉だけで少し緊張したかもしれない。
今は別の意味で緊張する。
俺以外で本人ではないことを知っている人間が、三人に増えたばかりだからだ。
もちろん、ここでそれを考えているのは俺だけだった。
「こちらです」
ベアトリスが歩き出す。
川沿いの土手には、撤収準備を終えた荷車が並んでいた。
木箱。
杭。
巻かれた鉄鎖。
簡易障壁の板。
後ろには兵が二列。
出発する格好なのに、動いていない。
「第二段階の後退対象です」
ベアトリスが言う。
「北側監視所一個。南側稜線の予備隊一個中隊。移動障壁三台。弩砲二門」
俺は数字を覚える。
意味までは分からない。
「予定では今日?」
「午前中でした」
「止めたのは司令官?」
「私です」
迷いがない。
やっぱり、この人は下がりたくない人なのだと思った。
停戦しても兵を残したい。
危険と言えば残せる。
そういう人なのかもしれない。
たぶん、顔に出さなかった。
役者なので、そのくらいはできる。
「理由を見せます」
ベアトリスは、俺が何か言う前に続けた。
* * *
見せられたのは、会議室ではなかった。
南側の監視所だった。
土手から半刻ほど歩いた先に、小高い稜線がある。
頂上には粗い木柵と見張り台。
その向こうに、低い丘が三つ並んでいた。
「昨日の夕方、あの二つ目の丘で煙を確認」
ベアトリスが指す。
「夜の巡回で、軍靴の跡が二十人以上。街道の標柱が二本切られていました」
足元の箱から、兵が布包みを出す。
中には折れた矢が三本あった。
羽根の形が揃っていない。
「これが?」
「旧魔王軍の正規制式ではありません。連合のものでもない」
イレーネが一本取って見る。
「現地調達ね」
「おそらく」
「襲撃は?」
「まだない」
ベアトリスは答える。
「ただし、この監視所を落とすと、次の連合部隊までは六時間。後ろの三集落に常備兵はいません」
「自警団は?」
「合わせて四十人ほど。戦えるのは半分です」
俺は丘の向こうを見る。
集落は見えない。
屋根も。
煙も。
それでも、そこに人がいるらしい。
さっきまで俺は、ベアトリスを『下がりたくない人』に分類しかけていた。
分類が少し早かった。
最近それが多い。
「評議府側では?」
セレクが聞く。
「その一帯の部隊は、正式には解散済みです」
「正式には」
ベアトリスが繰り返す。
「はい」
セレクも否定しない。
「だからこそ、こちらも探しています」
「見つかっていない」
「見つかっていません」
二人とも、同じ事実を言っている。
意味だけが違う。
「では、第二段階は全部止める?」
俺が聞く。
ベアトリスは俺を見る。
「私はそう進言します」
「全部?」
「今、穴を開ける理由がない」
「向こう側にはあります」
セレクが言った。
「後退が止まれば、こちらでは“連合は約束どおり下がらない”という材料になる。帰還路の護衛を出す側も止まります」
「安全を確認するために残す兵を、約束違反と呼ばれても困ります」
「こちらも同じです。見つかっていない武装集団を理由に、いつまでも連合軍が前にいれば困る」
声は上がらない。
でも、引かない。
俺は口を挟まなかった。
こういう時、真ん中にいる人間が何か言えば真ん中の答えになるわけではない。
少なくとも、俺が今思いつく言葉は役に立たなそうだった。
ベアトリスが川のほうを見る。
「ここは、前にも同じでした」
「同じ?」
「危険が残っているのに、勇者が“ここまでだ”と言った」
俺を見る。
正確には、ユリウスを見る。
「サイルで」
風が吹いた。
昨日から何度も見た名前が、初めて場所になった。
* * *
古い橋のたもとに、石の基礎だけ残った広場があった。
今は資材置き場になっている。
端に、腰ほどの高さの杭が何本か残っていた。
黒く変色している。
「ここです」
ベアトリスが言った。
「停戦前。旧魔王軍の補助部隊と家族が、ここで投降しました」
俺は杭を見る。
「そのあと、連合の補給隊が襲われた」
「誰に?」
「分からなかった」
ベアトリスはすぐ答えた。
「少なくとも、その日の時点では」
セレクは黙っている。
「死者が出ました。現場には旧魔王軍系の装備が残っていた。司令部は、サイルで投降した補助兵全員を拘束し直すことを決めた」
「全員?」
「戦える年齢の者は全員。家族区画も閉鎖。犯人が出るまで移動禁止」
風で草が杭に当たる。
かさ、と乾いた音がする。
「あなたは止めた」
ベアトリスが俺へ言った。
「ユリウスが?」
一瞬、自分のことのように聞き返してしまった。
ベアトリスの眉が少し動く。
傷のせいにできる範囲だと思いたい。
「ええ」
彼女は続ける。
「“投降したというだけで全員を犯人にするな”と」
俺は何も言わない。
「拘束命令を止めた。名前の上がっている者だけ確認しろ、と。家族を人質のように残すな、と」
「命令権は?」
「正式には、彼の単独指揮下ではありませんでした」
少しだけ声が硬くなる。
「ですが勇者が前に立てば、兵は止まる」
今まで何度か、自分でも使った力だった。
人が一度、こちらを見る。
動きを止める。
その一度を使う。
「追撃隊が二時間遅れました」
ベアトリスが言う。
「拘束していれば確認できた者も散った。少なくとも三人は、その後の武装集団の名簿で確認されています」
「三人」
「全員が犯人だったとは言っていません」
俺が何か言ったわけでもないのに、先に言われた。
「ですが、何も失わなかった善行ではない」
それは、たぶん俺に向けた言葉ではなかった。
ここにいないユリウスへ、まだ言っているように聞こえた。
「そのあと、どうなったんです」
俺が聞く。
答えたのはセレクだった。
「下流の二つの駐屯地が投降しました」
ベアトリスの顔は動かない。
セレクが杭を見る。
「サイルで家族までまとめて拘束されなかったと伝わった。投降しても全員が報復対象になるわけではない、と」
「それで?」
「それで、門が開いた」
短かった。
「武器を置いた者が増えた。こちら側では、あの時の話を覚えている者が多い」
「連合側では、別のことを覚えています」
ベアトリスが言った。
「追えたはずの者を追えなかったこと。死んだ補給兵の家族に、なぜ敵側の家族を先に守るのかと聞かれたこと」
「先に、ではありません」
セレクが言う。
「そう聞こえた、という話です」
ベアトリスは訂正しない。
二人の間に、しばらく何も入らなかった。
俺は杭を見る。
昨日、ヴェルサの老人が言っていた。
娘は戻った。
息子は戻らなかった。
礼も石も投げない。
サイルは、そういう場所だったらしい。
誰かが助かったから、誰かの損が消えるわけではない。
誰かが損をしたから、助かったことまで嘘になるわけでもない。
俺はユリウスのことを、少しだけ知った。
同時に、分からないことが増えた。
* * *
「それで」
ベアトリスが俺を見る。
「今回も同じように、下がれと言いますか」
来た。
たぶん、彼女が俺を呼んだ理由はこれだった。
昔と同じ場所。
昔と同じ勇者。
なら、同じ答えを求めている。
そう見える。
でも、今ここにいるのは俺だ。
それを知っているのは、三人だけ。
「昔と同じなんですか」
俺は聞いた。
ベアトリスの目が細くなる。
「何がです」
「今いる二十人以上の武装集団と、サイルで投降した人たち」
「同じではありません」
俺は一度、地図を見る。
「なら、今のことを見て決めたいです」
ベアトリスはすぐには答えなかった。
代わりにイレーネが地図を広げた。
「全部止める必要があるかは別」
指を置く。
「北側監視所を下げても、南の稜線から街道は見える」
ベアトリスが覗き込む。
「北を下げれば、川沿いの死角が増える」
「そこは評議府側の巡回線と重なる」
セレクが言った。
「こちらで二人組を増やせます」
ベアトリスはすぐ首を縦に振らない。
「信用しろと?」
「確認してください」
セレクが答える。
「伝文晶で人数を出します。出せなければ北も残せばいい」
イレーネが別の位置を指した。
「弩砲は?」
「二門とも南へ置きます」
「それなら北の移動障壁は要らない」
「一台は残す」
「理由は?」
「丘から川へ降りる道が二本ある」
話が速い。
俺が入る場所がない。
助かった。
しばらくして、地図の上に二種類の印ができた。
動かすもの。
残すもの。
俺には細かい理由までは分からない。
でも、最初の『全部止める』からは変わっている。
セレクも、全部動かせとは言っていない。
「これなら?」
俺が聞く。
ベアトリスは地図を見る。
「北側は下げられます」
「南は?」
「確認便が戻るまで残す」
「評議府側は」
セレクへ向く。
「北側の後退が実行されれば、今日の帰還護衛は止めません」
そこまでだった。
和平ではない。
解決でもない。
半分動いて、半分残る。
今のサイルには、それくらいが合っている気がした。
「では、それで」
俺は言った。
ベアトリスが俺を見る。
「勇者殿の命令として?」
一瞬迷った。
ここで頷けば、一番簡単だった。
でも、地図を決めたのは俺ではない。
「北を下げられると判断したのは司令官とイレーネです」
ベアトリスの眉が動く。
「南を残すのも、司令官の判断で」
「では、あなたは何を」
「その判断を、昔の勇者の話だけで変えません」
それだけ言った。
正しい言い方だったかは分からない。
少なくとも、ユリウスの答えを借りてはいない。
* * *
昼過ぎ、北側の監視所が動いた。
兵が杭を抜く。
箱を荷車へ積む。
移動障壁が一台、土手を離れる。
大きな音はしない。
旗も振られない。
ただ、昨日まで兵がいた場所から兵がいなくなる。
川の反対側では、評議府側の巡回兵が二人増えた。
セレクが約束した人数だった。
南側の稜線には、まだ連合旗が立っている。
半分だけだ。
でも、半分は本当に動いた。
ベアトリスは撤収する兵を見ていた。
満足しているようには見えない。
不満そうにも見えない。
「一つ聞いても?」
俺が言う。
「どうぞ」
「サイルの時、ユリウスを嫌いになりました?」
聞いてから、少し私的すぎたかと思った。
ベアトリスはしばらく答えなかった。
「嫌いなら、楽でした」
予想していない答えだった。
「彼が止めなければ、もっとひどいことになった可能性もある。それは分かっています」
川を見る。
「同時に、彼が止めたことでこちらが払ったものもある」
「はい」
「英雄の話になると、後ろのほうだけ消える」
俺は何も言わなかった。
昨日までは、ユリウスのことを知れば、この役が少しやりやすくなると思っていた。
どういう人だったか分かれば、真似できる部分が増える。
でも、知ったのは答えではなかった。
誰かにとって正しかった行動が、別の誰かには傷として残る。
そこまで含めて真似する方法は、俺には分からない。
「南の確認便は明朝です」
イレーネが後ろから言った。
「ドラン駐屯地まで今日中に入る」
「分かりました」
俺たちはサイルを離れた。
橋は半分落ちたままだった。
* * *
夕方、ドラン駐屯地へ入る直前で、前を走っていた馬車が速度を落とした。
門の前が混んでいる。
兵ではない荷車が四台。
屋根に長い木箱。
布を巻いた大道具。
楽器箱。
見覚えがあった。
嫌になるくらい。
「今日から慰問の一座が入るそうです」
護衛兵が言った。
知っている。
セレスタを出る前に聞いた。
軍営を回って、ドランにも来る。
予定どおりなら、いつか会う。
予定どおりだったらしい。
先頭の荷車から男が降りた。
長旅で少し伸びた髪。
荷台へ何か指示しながら、片手で上着を直す癖。
マルクだった。
俺の昔の名前を知っている人間。
向こうは、まだこちらを見ていなかった。




