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春の終わり、少し湿った風が街を抜けていた。
放課後、僕――宮前 湊は、いつものように幼馴染の家へ向かっていた。
理由なんて特別なものはない。ただ、小さい頃からの習慣だった。
インターホンを押す前に、玄関の扉が開いた。
「いらっしゃい、湊」
そう言って笑ったのは、幼馴染の姉の方――白石 結衣だった。
昔から変わらない柔らかい声。少し大人びた雰囲気。
湊にとって、それは当たり前の風景で、同時にずっと変わらないでほしいものだった。
「陽菜は?」
「部屋。宿題やってるよ」
「そっか」
何気ないやり取り。
それだけなのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
結衣は二十二歳。大学を出て、今は働いている。
もう“お姉さん”なんて言葉では収まらない、大人だった。
僕は高校二年生。
その距離は、思っている以上に遠い。
けれど、それでも――
僕は昔から、この人のことがずっと好きだった。
言葉にしたことはない。
するつもりも、なかった。
ただ、そばにいられれば、それでよかったから。
「そういえばさ」
リビングに入ったとき、結衣が何気なく言った。
「ん?」
「私、結婚するんだ」
一瞬、時間が止まった気がした。
「……え?」
間の抜けた声が、自分のものだと理解するのに少し時間がかかった。
「来月、入籍。相手は会社の人なの」
結衣は、いつもと同じ調子で話している。
嬉しそうでも、照れているわけでもない。
ただ、当たり前の報告のように。
心臓が、妙にうるさかった。
頭の中が真っ白になる。
“結婚”という言葉だけが、何度も反響する。
――知らなかった。
そんな未来、考えたこともなかった。
いや、本当は考えないようにしていただけかもしれない。
「……そっか」
気づけば、そう返していた。
驚くほど普通の声だった。
「おめでとう」
言えた。
ちゃんと笑えた気もする。
けれど、胸の奥では何かが静かに崩れていく音がしていた。
「ありがと。湊にもちゃんと伝えたくて」
「うん」
それ以上、何も言えなかった。
陽菜の部屋に向かうふりをして、その場を離れる。
廊下の窓から入る風が、やけに冷たく感じた。
――これでよかった。
自分にそう言い聞かせる。
元々、叶うはずのない気持ちだった。
年の差も、立場も、全部わかっていた。
だから――
「……」
それでも、苦しいものは苦しかった。
部屋の前で立ち止まり、深く息を吸う。
顔を作る。
何もなかったみたいに。
いつも通りの自分で。
ドアをノックした。
「入るぞー」
声は、ちゃんといつも通りだった。
それが、少しだけ救いだった。
そして同時に、どうしようもなく寂しかった。




