4th day am 別離
暗い部屋に、ぼんやりと光が浮かぶ。
どこかの地下室だろうか、真っ暗な部屋に、二つの光源があった。
一つは緑色の光りで、巨大なカプセルのような装置だ。人間一人を入れることが出来る容器は、現在緑色の液体以外には何も入っていなかった。
もう一つは、モニターの光だ。コンピュータのモニターが、ぼんやりと白い光を放っていた。
カタカタと、キーボードを叩く音がする。この部屋に木霊する、唯一の音だ。
白い光を放つモニター、その前に、一人の男が座ってキーボードを叩いていた。
こけた頬と紫色の唇。皺が寄った顔面に尖った鼻と顎。色素の抜けきった白髪が、肉が削げて窪んだ眼を隠している。
髪の間から時折見える眼球は、瞳孔まで真っ白の不気味な目だった。
やせ細った手は骨と血管が浮いていて、冷たく青白い。
「正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しい正しい……」
しゃがれた声から紡がれる言葉は、狂気に満ちた音だった。声は極端に低いのに、時折極端に高くなる。金切り声では表現できない、怨嗟に満ちた音だ。
「劣等種のためになにをしてやれる?劣等、劣等、劣等種は、劣等、種の」
とりとめのない言葉。
その自分の声に酔っているのか、男は喉から引きつった笑い声を零した。
静かな空間に木霊する声を聞くのは、命を持たない冷たい機械だけだった。
「イッヒ……ハハハッ」
大きく笑い声を上げる。
何もない空間に響くように、大きく大きく笑う。
口を開けて、黄色い歯をむき出しにしながら、嘲笑の笑みを塗り重ねていく。
目には涙が溜まり、それがゆっくりとタイルの床に落ちていった。
部屋が暗いためか、その涙はコールタールのように黒く淀んでいるように見えた。
「そう、だ。わた、わたしが、しん、しん人類」
壊れたテープレコーダーのように、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
そして突然、電流にでも打たれたように身体を震わせると、おもむろに立ち上がった。
キーボードを数回叩いて機械音が鳴ったことを確認すると、がらんとした空虚な瞳でふらふらとカプセルへ歩きだした。
カプセルの前で、ガラスのカバーに包まれたスイッチを押す。
すると、ガラスのカバーが割れる高い音と共に、空間に三つのカプセルが浮かび上がった。
それらのカプセルの中身は空ではなく、裸体の人間が入っている。
男はその人間を見ても、表情を変えずに、ふらりと服を脱ぐ。
やせ細り肋骨の浮いた身体は血の気が無く、幽鬼を連想させる。
「世界を、劣等種を、新人類を」
ぼそぼそと蚊の鳴くような声でそう呟くと、カプセルの脇のレバーを引いた。
カプセルが降りてきて、浴槽のように横たわると、男はその中に身を投じた。
気泡が浮かび、弾ける頃には、再び周囲が完全な闇に閉ざされた。
SHIFT
天気は快晴。
昨日の雪が嘘のように晴れ渡った空は、太陽の光を雲で隠すこともなく、地上を輝きで満たしていた。
そこかしこに作られた雪だるまは、まだまだ溶けない。
日差しがあるといっても肌寒いことには変わりなく、風でも浴びようものなら凍えてしまうだろう。
白いベッドで、寒さからアリアはもぞもぞと起き出した。
ベッドに残る温もりが、少し前まで颯真がここにいたことを示していた。
アリアは颯真の顔を思い浮かべると、頬を綻ばせて笑う。
今日も一緒に過ごせるのかと思うと、アリアの胸は自然と躍る。
なんだか顔が熱くなった気がして、アリアは小さな手を団扇のようにして顔に風を送った。
そして、自分で送った風が思ったよりも冷たくて、背筋をぶるりと震わせた。
冷たい風に不満げに唇を尖らせたが、すぐに機嫌を直す。
漂ってくる、良い匂い。
大きな魔法の手が生み出す素敵な料理の数々を思い出して、アリアはよだれをごくりと飲み込んだ。
想像とするだけで小さく、くぅと鳴ったお腹の音に顔を赤らめながら、ベッドから降りる。
フローリングの冷たさは、あまり感じない。
颯真に買って貰った鳩さんプリントの靴下が、アリアの熱を優しく守っていた。
箪笥の前に立って、着替える。
何着か買って貰った服の中の一セット。
無地の白いTシャツに、ジージャン。
下は淡い緑のフレアスカート。
好みにより、キャップを被ることまできるが、アリアは家の中で帽子を被る気になれず、付属のキャップを箪笥の上に置いた。
アリアの身長の三倍程高いが、そこは指に力を入れて浮かせるだけで、簡単に置くことが出来る。
着替え終わると扉を開けて、外に出る。
四日目となると慣れてきたのか、高い階段を下るアリアの足取りも、心なしか軽やかだった。
克服済みな上に慣れているのだ。これくらいは朝飯前だと、アリアは一人、小さく胸を張った。
手を伸ばしてドアノブを捻り、扉を開ける。
店内に入るときに運動靴を履いて、アリアはカウンターに小走りで近寄った。
そして、朝食を用意して、手をつけずに仏頂面で待っていてくれた颯真に、アリアは明るい笑顔を向けた。
「いただきますっ」
颯真は手を合わせるだけだ。だが、アリアに合わせて“手を合わせる”という行為をするようになっていた、彼は意識して出来る優しい性格の持ち主ではない。
だが、アリアの願いを断り切れず、気がついたら流されていたのだ。
あっさりとしたオニオンスープに、キュウリとニンジン、それからアスパラのスティックサラダ。
今日の自家製ドレッシングは、橙色のキャロットソースだ。
トマトとハムとレタスをマヨネーズとマスタードを使って、耳の残ったパンに挟んだサンドウィッチ。
マヨネーズと砕いたゆで卵のものと、クリームで味付けられたオレンジと林檎のもの。
この三種類から選べる、綺麗で整ったサンドウィッチだった。
アリア専用の、鳩のマークがアクセントとして添えられた白いカップ。
ふんわりと昇る白い煙の匂いをかぐと、チョコレートのように甘い匂いがして、アリアは目を輝かせた。クリームでほんのり甘く整えられた、ホットココアだ。
今日は失敗しないように、ふぅふぅと息を吹きかけてから、おそるおそるココアを口にした。少しだけぴりりと痛んだ舌をぺろりと出して、風に当てさせる。
そして、今度こそとココアを口にした。
「あまい」
「ココアだからな」
そんな一言は、無視して食事を続けるのが颯真だ。
だが、颯真は反射的に言葉を返していた。
何故自分は言葉を返したなどと悩む可愛い頭は持っていない颯真は、のんびりとスープに口をつけていた。
今日も良いできだと頷く姿に、アリアは颯真の“かわいらしさ”を再確認して、はにかんだ。色々と駄目な感じである。
サンドウィッチにかぶりつくと、間から溢れてきたマヨネーズが指を汚す。
親指についたマヨネーズを舐め取ると、もう一度かぶりつく。
口元が汚れてしまうが、ここまで来ると気にしていても仕方がないと思えるようになってきた。つまり、面倒になったのだ。
颯真はそんなアリアを見てため息をつくと、布巾を手に取る。
布巾を渡して拭くように指示することが案外面倒なことに気がついた颯真は、アリアの左側から右手を伸ばして、口元をごしごしと拭う。
布巾が左へ行けば、アリアの顔も一緒に左へ動く。右へ行けば、アリアの顔も一緒に右へ動く。
拭き取り終わると、アリアはどこか恥ずかしそうに颯真を見上げて、白い歯を見せて笑った。
「えへへ……ありがと、おじさん」
「いいから汚すな」
「うんっ」
アリアは真剣な表情になって、眉根を寄せると、サンドウィッチを睨み付けた。
もう負けてやるもんか、食べ尽くしてやるという意思の表れだ。
かぶりと噛みつくのも、控えめに。
なるべく汚れないように気をつけながらも、そのおいしさに頬を緩めていた。
新鮮なトマトとレタス、あっさりとしたハムのバランスが素晴らしい。
アリアが思っているよりも、敵は手強いようだった。
それから何度か颯真に口元を拭って貰いつつ、朝食を終える。
食器を片付けに厨房へ入る颯真に、アリアは軽い足取りでついていった。
「おじさん、わたしもてつだう!」
「あ?」
颯真は、また面倒なことを言い出したアリアを、胡乱げな表情で眺めた。
自分でやった方が確実に綺麗になる。
だが、アリアが仕事を覚えれば、ぐっと楽になるのも事実。
このまま教育して、働かせれば人件費タダで楽が出来る。
そんな思考に辿り着いた颯真は、左手で口元を隠してにやりと笑った。
少女を調教して売り飛ばそうとしている笑みに見えるが、良いことを考えている訳ではないので悪人面と揶揄されても反論は出来ないだろう。
実際言われたら、殺す気で睨み付けるのだが。
「そうだな……洗ったものを拭いて、置いていけ」
「うんっ!がんばるっ!」
本当に教育するつもりなのか、簡単な仕事から任せていく。
大きな背中と小さな背中が、厨房に並ぶ。
――その姿は、父の仕事を手伝う娘の、親子の休日のように見えたのだった。
†
準備中の札をかけて、颯真は店の前に立っていた。
灰色のロングコートに身を包んで看板を睨み付ける姿は、襲撃の場所を調べるテロリストのようだった。
颯真は右手に持っていた三段程度の短い脚立を地面に置くと、昇って看板を取り外した。
脚立から降りて看板を店の壁に立てかけていると、店内からアリアが出てくる。
両手で抱えるには、バケツと布が入っている。
昨日が嘘のように客が来ないが、これはヴァンが昨日に限り“なにか”したためだろうと颯真は予想をつけていた。
彼の友人のあの男は、よく突拍子もないことをするのだ。
だから、今日になってしまうと客の入りは悪くなる。
だが、まったく来ないのではなく、そこそこ来るようになっていた。
昨日来た客の中で、また足を運ぼうと思った人間だ。
午前中から昼頃にかけて客の対応をした颯真は、店の看板がかすれて読めなくなっていることに、客からの言葉によって漸く気がついた。
ちなみにその客は、颯真に教えた訳ではない。結局颯真を見ると怯えるので、颯真から必死に目を逸らしながらアリアに告げたのだ。
別に颯真も、無銭飲食する訳でもなければ、攻撃的な態度はとらない。
ただ、昨日のように慌ただしくないと、つい目に力を入れてしまうだけなのだ。
これを見て颯真は“お茶目だ”などと評価できる人間は、アリアだけだろうが。
颯真は、看板に水をかけて汚れを落とすのをアリアに任せている間にペンキを用意する。
木製の看板に、適当に見える程度に店の名を浮かび上がらせればいいと思ってのことだった。
道の角に位置する喫茶店の左横を通って、裏手の倉庫へ回り込む。
そこで必要な道具をとって戻ってくると、アリアが看板をごしごしと擦っているところだった。
布に水を含ませて、壁に立てかけられた看板を擦る。
布は両手の平に当てる形で、両手を看板にぐっと押しつけて上下に動かしていた。
子供なので体重をかけても大した力は入らないが、繰り返していく内に綺麗になっていった。
特に手伝う必要もないだろうと、颯真は店内から持ってきた椅子に座って、新聞を広げていた。
子供に任せきりにする辺り、颯真らしい。
綺麗になると、かすれていた文字も少しは浮かび上がってきた。
たった七~八年手入れしなかっただけでこうなるものかと、颯真は嘆息していた。
アリアと二人、軍手を嵌める。
用意したペンキで颯真が文字を直す間、アリアは服とエプロンにペンキが付着しないように気をつけつつ、看板に装飾を加えていく。
文字の横に、白い鳩の羽を加えて満足していた頃には、颯真の方も終わっていた。
今の今まで隠れていた店の名前、緑色の字で綺麗に浮かび上がった店名は“konzert”……協奏曲と名付けられた緑の文字の横には、鳩の羽が可愛らしく並んでいる。
音楽を奏でる“天使”を象徴していると言われれば、納得してしまう、シンプルで綺麗な看板に仕上がった。
颯真はそれを元の位置に戻すと、片付けを始めた。
アリアもそれを手伝って、バケツを持って店内へ行く。
颯真はペンキを戻しに裏手に回った。
そうして店の前に戻ると、颯真はそこに黒い車が止まっていることに気がついた。
四人乗りの乗用車。そ
れが覆面パトカーであると言うことは、颯真は遠目からでも見抜いていた。
経験の賜だ。なんの、とは言わないが。
面倒事が降ってきそうなことにため息をつきつつ、颯真は店内に入る。
すると、中ではカウンターに男性一人と女性一人が座っていて、その斜め後ろにさらに女性が一人、アリアと連れ立っていた。当のアリアは、また颯真の友達なのだろうと目を輝かせていた。興味があるようだ。
「ずいぶん懐かれているな。颯真」
「村正、あの噂の借りをまず返して貰おうか……?」
やや逆立った黒い髪の男性――村正は、表情を浮かべることなく颯真の濃厚な殺意を受け流して見せた。大物である。
村正の隣にいる女性は、すらりとした体型の女性で、黒いショートヘアのクールビューティーといった風貌だ。
その斜め後ろ、アリアの隣りに立っている女性は、やや小柄で黒髪を三つ編みにした大人しそうな人だった。
この女性だけ、颯真の視線に身体を震わせていた。
よく見れば、目尻がうっすらと潤んでいることが見て取れるだろう。どうやら、慣れていないようだ。
「新木百合君は知っているな?……こっちは」
「あ、新しく“特課”に所属することになりました、波前杏子巡査長ですっ!」
村正の隣りに座る女性――百合が軽く会釈をした。
それに続いて村正が促すと、三つ編みの女性――杏子は、勢いよく綺麗な敬礼をして見せた。
颯真ははぐらかして話を進める村正に不満を抱きながらも、のらりくらりと躱されることはわかりきっていたので、自分も小さく名を告げた。
「源颯真だ。で、何の用だ?」
さっさと話を進めようと、颯真は頭を掻きながら訊ねた。
村正はそんな颯真に頷くと、アリアを一瞥してから颯真に要件を告げる。その仕草で、颯真は村正の要件に感づいていた。
「アリア君、と言ったね――彼女を保護する用意が、整った」
対転換者・特殊犯罪対策課――通称“特課”は、シフターに関わる犯罪などの全権を預かる課である。
その課長である香川村正警部が直接動いたと言うことに、颯真はことの深さを感じ取っていた。
それ故に、秘密裏の準備や対策が必要だったのだ。
速達で颯真が送った敵のシフターの情報も、大きく関わっているのだろう。
「おじさん、ほごってなぁに?」
「こいつらがおまえを、安全な場所で守るってことだ」
「え――そ、れって」
村正は、二人のやりとりを聞いて内心で驚いていた。
颯真に無邪気に懐くアリアもさることながら、幼い子供の質問にわかりやすく説明する颯真の姿に、大きく目を見開いていた。
そして、その感情をすぐに仏頂面の内側へ隠く。彼は、あまり自分の表情をさらけ出すのが、好きではなかった。ポリシー、と言い換えても良いだろう。
「ここでお別れだ」
「やだっ!」
淡々と告げる颯真に、アリアは声を荒げた。
泣いたり怒ったりといった表情を見せてこなかったアリアが、初めて大声と共に微かな涙を見せた。
その様子に、颯真はとくに表情を変えることなく佇んでいた。
村正はそんな颯真の様子に、今度は先ほどよりも小さな驚きを感じていた。颯真が“無表情過ぎる”のだ。何かを、押し隠していると言わんばかりに。
「我が儘を言うな、村正について行けば――」
「――おじさんと、いっしょがいいっ!」
颯真は答えない。答えられない自分に、困惑していた。
行けと怒鳴りつけて、拳骨でも落としてやればいい。
だというのに――――身体は、動かない。
そんな自分に舌打ちをすると、颯真はため息をついて頭を掻いた。
その腕を、持ち上げて、颯真は結局降ろしてしまった。
「行け」
短く放たれた言葉は、冷たく重い。
その言葉に、アリアは下唇を噛んで、悲壮な表情で眉根を寄せた。
村正は颯真の様子に小さく息を吐くと、アリアの正面に立って、屈んだ。
黒い目にじっと見つめられているアリアの空色は、溢れんばかりの涙で潤んでいた。
「君の今後のこと、これから先どうするか、それを決めるためにも一度我々と来て欲しい。君の身分が保障されれば、颯真に要らぬ迷惑をかけることもない。来てくれるか?」
抑揚はあまりないが、感じる雰囲気は優しく暖かい。
アリアは困惑しながら村正を見て、颯真を見た。
颯真は憮然とした表情で立っていて、アリアからは目を逸らしている。
アリアは俯いて、逡巡する。
結論はすぐに出ようとしていた。
決意は定まらないが、村正が言ったように、颯真に迷惑をかけたくなかった。
迷惑をかけて、嫌われたくなかった。それは――愛情を求める、子供の心理だ。
「いく」
「そう、か――杏子君、百合君、準備を」
村正の言葉に頷くと、二人は車の準備に動いた。
アリアは潤んだ瞳で、はっと顔を上げた。
「おじさん、ふく」
買って貰った服。
少ないけれど暖かい、思い出。
颯真はアリアの言葉に、瞑目して、告げた。
「面倒だ――――次にでも、“取りに来い”」
「ぁ――――うん……うんっ!」
アリアは、左手で目元を拭う。
ごしごしと強く拭ったせいで赤くなってしまうが、そんなことは気にせず力強く笑って見せた。
はっきりと“来い”と言ってくれたことが、たまらなく嬉しかったのだ。
一方颯真は、自分で言った言葉に誰よりも困惑していた。
こんな人間ではない。
自分は泣く子供をいたわれる人間ではないということくらい、誰よりも理解していた。
そんな颯真とアリアを見ていた村正は、彼にしては珍しく、ほんの一瞬だけ口元を綻ばせた。
苛々しているといった風にアリアから目を逸らしてはいるが、右手で頭を掻いていない。
苛立っている時の癖に自分で気がついていない颯真は、そんなところから見抜かれているとは思いもよらないだろう。
颯真としても、自分は面倒なことに苛立っているつもりだった。
だから、それが沸き上がる感情を無意識に隠している……その感情の名前に、気がついていなかったのだ。
カウンターから椅子を引っ張り出すと、颯真は荒々しく腰を下ろした。
木製の椅子が軋む音が、椅子にかけた負担の程度を表していた。
足を組んで左手で頬杖をつくと、アリアが手を引かれる扉の方へ顔を向ける。
アリアは村正の手から一度離れると、颯真に向かって精一杯の笑みを浮かべる。
先ほどまでの悲壮感がないのは、颯真に会いに来ることができる、これからも、合いに行き続けることが出来ると、先ほどのやりとりで解ったからだ。
「またね、おじさん!」
「さっさと行け」
素っ気なく返す颯真に、アリアは満面の笑みを浮かべる。
村正は、素直ではない颯真に肩を竦めると、アリアの手を引いて行こうとする。
だが、アリアはそれを笑顔で止めて、待って貰う。まだ颯真に貰っていない言葉があった。
颯真にお願いするときは――根気が、必要なのだ。
「またね!おじさん!」
まだ、返事はない。
ため息をついて目を伏せる颯真と、笑顔を崩そうとしないアリア。
その二人の様子に、アリアの隣で佇む村正は、とにかく首をかしげていた。
このやりとりの意味が、解らずに。
「またね!おじさんっ!」
颯真は苛立たしげに小さく舌を打つ。
それでも頭を掻くことなく、ただ目を伏せたままじっとしていた。
「おじさんっ――――またねっ!!」
「――あぁ、またな」
とうとう、颯真が折れる。
アリアは満足そうに笑うと、村正の手を掴んだ。村正はため息をついて項垂れる颯真と、太陽のような笑みを浮かべるアリアを、三往復程見比べた。
そして、今度こそ確かな笑みを浮かべて颯真を見た。項垂れる颯真は気がつかないが、村正の表情は、穏やかで優しいものだった。
「颯真――私は、今の颯真の方が好きだぞ」
「何気持ち悪いこと言ってんだ。さっさと行け」
村正は店内に向けて、もう一度笑みを零す。
今度はしっかり見ていた颯真は、長い付き合いの中で見せたこともないような村正の笑みに、少しだけ驚いていた。
そしてすぐに、目を逸らす。
村正は部下に見せる仏頂面に表情を切り替えると、今度こそアリアの手を引いて出て行った。
アリアは手を引かれながら、力強く颯真に手を振り続けた。
颯真はひらひらと適当に手を振り返すと、灰皿を引き寄せた。
灰色のロングコートからタバコを取り出すと、口に咥える。
銀のジッポを取り出して手で玩ぶと、それをカウンターに置いた。
どうにも吸う気になれずに、火を点けなかったタバコをしまう。
「らしくねぇ」
この後、颯真の口座には多額の報酬が振り込まれるだろう。
たった四日、子守をするだけで稼ぐことが出来た金。
たいして労せず手に入れたのだから、気にせず使ってしまえばいい。
颯真はため息を一つ吐くと、頭をがしがしと掻く。颯真は自分が何に苛立っているのか、わからなかった。
「早いが……まぁいい」
椅子から立ち上がると、財布の中身を確認する。
満足するだけ飲めるだろう金額は、財布にしっかりと入っていた。
颯真は戸締まりを確認すると、まだ明るい外に出る。積もった雪が足の下でさくさくと小気味よい音を鳴らせるが、そんなところで喜べる程、若くはない。
大きく息を吐くと、車の轍を踏み越えて、繁華街へ繰り出した。
†
百合が運転する黒い車の中、やや硬めのクッションに身を預けながら、アリアは過ぎ去っていく風景をじっと眺めていた。
村正は助手席に座っていて、アリアは後部座席の左側で、右隣には杏子が座っていた。
アリアはもう泣いたりはしなかった。
「アリアちゃんは、強い子だね」
「つよいの?」
アリアは、微笑む杏子の言葉を聞いて、力こぶを作って見る。
だが、二の腕を触ってみてもぷにぷにと柔らかいままで、そのことに首をかしげた。
眉を寄せて一生懸命力を入れようと頑張っている姿は、微笑ましく可愛らしい。
「そうだよー。アリアちゃんは、強いんだよ」
「つよい……おじさんよりも?」
「うん、そうだよ」
自分にとっての優しい騎士様のようなイメージがある颯真。
アリアは、そんな颯真よりも強いと言われても、解らなかった。
杏子が指すのは肉体的な強さではなかったが、そんなことが解るはずもなく、アリアはただ首をかしげていた。
「課長、前方に人が……」
「……避ける気配はないな。ヒッチハイクにしては怪しいが……無視する訳にもいくまい」
急に車が止まったことに、アリアは首をかしげた。
車の前、十メートルほどのところに、一人の男が立っていた。
その男の服装は、病衣のような簡素な緑色のもので、とても冬の往来に居られるようなものには、思えなかった。
また、妙なのは服装だけではなく、容姿もおかしかった。
丸坊主の頭とやせこけた頬、二メートルを超える身長と、異様に長い手足。
太陽の下よりも夜の帳の下の方がずっと似合う、奇妙な男だった。
「百合君。私が話を聞いてくるから、その間に――――トランクから私の“雅宗”をとってきてくれないか」
神妙な顔つきで静かに告げる村正に、百合はこくりと頷いた。
その空気にただならぬものを感じて、杏子はアリアを守るように抱き締めた。抱き締められたアリアも、理由はわからないが妙な不快感に襲われて、杏子の服の裾を強く握った。
村正と百合が同時に車を降りる。
村正が前に出て男の視線を自分に集めるように、車を背にした形で歩く。
その間に百合はゆっくりとトランクの方へ行き、極力音を立てないように少しだけ開けた。
そして、トランクが開いていることになるべく気がつかれないように素早く手を入れると、中から竹刀袋を取り出した。
男が百合の方に目を向けている様子は、ない。
「どうかしましたか?こんなところに立っていては、危ないですよ」
村正は警戒を怠らないように、周囲をよく注意していた。
雪に覆われたアスファルトは滑りやすいため、足下に気をとられないように注意する必要がある。これは、厄介だった。
「――――」
「なにか?」
男が、小さく何かを呟いた。
焦点の合っていない黒い瞳孔が、ぼんやりと村正を捉える。
村正はその異様な気配に、警戒心を最大限まで引き上げた。後ろに手を回して、ハンドシグナルを送る。百合は頷くことなく、いつでも懐のホルスターに手をかけられるように、身構えた。
「【左腕部接続・因子転換・承認】」
男の言葉を聞き取ると、村正は自分の後方へ手を伸ばした。
百合がそこへ竹刀袋を投げると、村正はそれを器用に掴み取って自分の正面へ持ってきた。男はそこで初めて、狂気に満ちた笑みを浮かべた。
「【モンキーシフト】」
左腕が、茶色の毛で覆われる。
長く鋭い猿の手が、不意打ち気味に村正を襲う。村正はその一撃を、直感でタイミングを計り、竹刀袋で防いだ。だが、想定していたよりも強い衝撃に身体が少しだけ浮き上がって、二メートル程後ろへはじき飛ばされた。
「シフターか!」
村正は確認するように叫ぶと、竹刀袋から素早く中身を取り出す。
漆黒の鞘の日本刀、それをスーツのベルトに刺すと、素早く抜いた。
「周囲を警戒。仲間がいる危険性があるぞ!」
百合は懐から小さめのリボルバー、ニューナンプと呼ばれる拳銃を抜き取ると、周囲に宙をする。
道幅は車二台が通れる程度で、周囲は寂れた民家ばかり。都市開発で立ち退きがあったため、今この周辺には誰も住んでいない。
心置きなく戦えるが、それは向こうも同じと言うことだ。
シフターの犯罪者でも、正体が広まることは恐れている。だから、ここにさえ来られないようにしたら、敵のシフターも存分に非常識な力を振るうことが出来るのだ。
戦闘を始めた村正の後方で、百合は周囲に動きがないか注意を払う。
いつでも発砲することが出来るように、安産装置を外しておく。
普通の生物よりも生命力が高いシフターを抑えるには、実弾を用意するしかないのだ。
百合も特課の一員だけあってシフターだが、彼女は支援が得意なシフターで、直接戦うのは苦手だった。
緊張に息が圧迫されるような、感覚。
そんな感覚に折れる程、経験がない訳ではない。
だが、あまり経験がある方ではない杏子が心配だった。
百合は、どこかで物音が聞こえた気がして、銃を構える。
どこに照準を合わせるか、周囲を見ましていると、足に伝わる振動に驚いて、後方に下がった。
――ドンッ
土煙が上がって、アスファルトが砕ける。
出てきたのは、巨大な爪と茶色の腕――モグラのものだった。
「避けたか――特課相手に一筋縄とはいかないなぁ」
そう言いながら地面から出てきたのは、小柄なスキンヘッドの男だった。
百合はニューナンプを手に、ゆっくりと間合いを計る。拳銃は、撃てば当たる程簡単なものではない。適当に撃つ訳にも行かず、確実に当てていく必要があった。
跳弾して仲間を傷つけることにでもなったら、下も子も無い。
さらに、襲撃はこれだけでは終わらなかった。
風を切る音に、眉をひそめる。モグラ男から注意を逸らさぬようにしていると、跳んできた何かが車の上に着地した。
七三分けに営業スマイルのサラリーマン。
留置所にいるはずの男――遠藤京次が、蛙の足で跳ね上がって、車に着地したのだ。
シフターに襲われている中、車の中に居続けるのは得策ではない。
自分の戦う手段も減らされてしまうし、爆破でもされたら二人ともそこで終わりだ。
だから杏子は、アリアの手を引いて車外に飛び出した。そして、アリアを背に隠してニューナンプを構えた。
三者三様の状況で、すぐに身動きを取ることが出来ない。
その泥沼に発展しそうな硬直を破ったのは、第四の敵の影だった。
高速で空中から滑空して、誰も捉えられないスピードで、杏子の背後のアリアを浚う。
あっさりとシフターが入り乱れる空間から浚っていったのは、巨大な鴉だった。
鴉はその足でアリアを掴み取ると、そのまま飛んでいく。
すぐに追いかけようと村正達も動こうとするが、京次たちはそれを許さなかった。
「くっ……通させて貰うぞ!」
事態は、最悪の方向へと、走っていく――――。
†
昼間の内から酒を飲むとなると、開いている店は限られてくる。
繁華街の裏道、そこをまっすぐ進んだ暗がりに、営業時間外のため光の消えた、寂しげなネオン。閑散とした場所に佇む一件のバー。ここは、颯真の友人が経営している店だった。
半地下になっているため、右側から少し階段を下りて、何も言わずに店に入る。
自分の店の時は、準備中に入ってくる客に辟易としているくせに、自分も同じことをしていた。この男は、基本的には自分本位である。
洒落た彫金が施されたドアノブは、客の入りが颯真の店ほどではなくとも少ないのだろう、新品のそれのように堅くて重い。開ける時も木製のドアが軋む音がして、どこか危うげだった。
「邪魔するぞ」
五人から六人程度しか入れないであろう、狭い店内。
カウンター席しかなく、寂れた居酒屋のような雰囲気だった。
カウンターの向こう側に所狭しと並べられた酒類は、洋酒和酒だけでなく紹興酒なども置かれている辺り、節操がない棚だった。
この店のモットーは“来る物拒まず、去る物追わず”……物、つまり酒については、なんでも取り入れて、客に出すのだ。だから“者”ではなく“物”としていた。
「あらン?颯真ちゃんじゃない」
店の奥から、裏声のような甲高い声が聞こえてきた。
声の主は酒棚の奥にある扉から、木製の床を軋ませる音と共に入ってきた。
金色の馬模様が輝かしい、銀色の派手な着物。
結い上げたプラチナブロンドは、赤いトンボ玉が不自然に二つ付いたかんざしでまとめ上げられている。頭の一.五倍ほどの大きさがあって、妙な迫力がある。
体つきは、一言でいうと……“山”だ。筋骨隆々のがっしりとした肉体は、胸元の双丘をより不自然に演出していた。
顔もまた、大きい。真四角のエラばった顔立ちと、剃りたてなのか青々とした口周り。大きく見開かれた目は、ブルーで、紫色のアイラインが毒々しい。
その割りにぷるぷるとした唇に引かれたルージュが、その人物を“妖怪”のごとく仕上げていた。
「西口、前よりひどくなってねぇか?」
「やぁン。エミリーって呼んでチョウダイな。そ・ー・ま・ちゃん♪」
弾ませて出てくる言葉は、声で人を死に追いやるという妖怪、鵺のようにおぞましい。
彼――――いや、“彼女”の名前はエミリー=西口。颯真の旧友である。
「きめぇ……いいから酒よこせ」
「もウ、イケズなんだからァ」
エミリーはくねくねと腰を動かしながら、見た目に似合わない滑らかな動作で熱燗をつくる。和洋折衷もここまでくると、本人の見た目もあって、まるで魔界である。
そんなエミリーを、颯真は慣れた様子であしらう。
左手で頬杖をつきながら右手でしっしっと手を振る動作が、板に付いていた。
エミリーは、しなやかな動作でお猪口に酒を注ぐ。
熱い湯気を立たせてお猪口に渡る透明の液体は、颯真の心を癒す程澄んではいなかった。
その理由は、水面に映る颯真の顔が波紋で揺らぎ、物悲しそうに歪んで見えたからだろう。
「で、どうしたの?颯真ちゃん」
相変わらず、奇妙な裏声だ。
だがその声は、暖かい。顔さえ直視しなければ、落ち着くことが出来るだろう。
もちろん颯真は、エミリーの顔を直視しようとは、しなかった。賢明である。
「なんでもねぇよ」
颯真はそう呟くと、不機嫌そうな自分の顔ごと、熱燗に注がれた酒を飲み干した。
喉を通る熱は心地よく、身体を芯から温める。その熱に身をゆだねてしまえば楽になるのだろうが、颯真はそんな気分になれず、空いたお猪口ただ眺めていた。
「思うようにすれば、いいと思うワ」
見透かしたようなエミリーの言葉に、颯真は苛立たしげに頭を掻いた。
エミリーと颯真は、同じ釜の飯を食べた友人。付き合いが長すぎるのだ。
そのため、表情から、仕草から、颯真の心情を読み取っていた。本当に女だったら、エミリーは“佳い女”だっただろう。まともならいい男、で済んだのだが。
「俺は思うように生きてるよ。今までも、これからも」
「曲げられた“思うように”は、違うンじゃないかしら?」
間髪入れずに出てくる言葉。
そのタイミングに、やはりエミリーは“男”だと、颯真は小さく苦笑した。
笑えるような心境ではなかったはずなのに、その表情は先ほどまでよりも晴れている。
颯真にとって解決していることは何もない。
けれど、暗鬱とした気持ちは消えていた。
「解ってるよ。今度こそ……適当にやるさ」
颯真がお猪口を差し出すと、エミリーは穏やかな笑みを浮かべながら注ぐ。
今日は飲もう、そう意気込んで、お猪口を傾けていた。
そんな、落ち着き始めた空気を壊すものがあった。
最初の購入時から換えていない、機械音。携帯電話の着信音に、颯真は眉をひそめた。
面倒な表情を隠そうともせずに、携帯電話を開く。
そこに表示されている名前は、ここに来る前に別れた相手……村正の、ものだった。
「なんだ?」
短く口火を切る。
電話の向こうの村正は、そんな颯真に憔悴した声で要件を告げた。
『――――』
「は?お、おい」
『こちらで解決をしたいとは思うが、現状では――っ』
慌ただしく切られた電話。、
小首をかしげて目を丸くするエミリーの様子を一瞥することなく、颯真は苛立たしげに天を仰いだ。
――すまない。アリア君が拐かされた。
事態は、大きく変動しようとしていた……。
次回、第五話を短めに挟んで、スパートです。
そろそろ忙しくなるので、ちょっと時間がかかるかもしれません。
ご意見ご感想のほど、お待ちしております。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
次回も、よろしくお願いします。
七月十二日、追記
五日目、と構成していた話を見たら、四日目の時間軸だったのでタイトル変更。
次回も四日目です。