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美しい草原、穏やかな風に揺れる湖畔。傍には色鮮やかな花畑。まったく人の手が入っていない自然の美しさは、ある種の神聖さがある。彼が連れてきてくれたのは、そんな場所だった。
「きれい・・・。」
車椅子がないため、ルインはまるで子供のようにウィシュスに抱き上げられていた。いつもとは比べ物にならないほど高い視線。そして動けない制約で何年も見ていなかった美しい自然。滑らかな毛並みの首に抱きついてバランスをとりながら、ルインは目の前の景色に見入った。
「気に入ったか。」
無骨さが目立つウィシュスが、このような場所を知っているとは思わなかった。
「とてもきれいな場所ね・・・。確かにここなら、竜でしか来れないわ。」
好戦的とはいえ、ルインはいつでもイライラしているわけではない。むしろ苛立って喧嘩をしているときのほうが少ないのだ。・・・この男を目の前にしているとそうではないようだが。
「ここまでの道は傾斜が厳しく、馬ではとても無理だ。人でも限られた者でしか踏破できないだろう。」
「でも、あなた達獣人にとっては?」
「成人した男なら簡単だろうな。」
穏やかに喋りながら、ウィシュスは片手で敷物を敷き、ゆっくりとルインを下ろした。
「いま準備をする、待っていろ。」
ルインを抱えていた手とは反対の手で持っていた大振りのバスケットをあけると、中にぎっしりと美味しそうな食事が詰まっていた。
「待って。私も手伝うわ。」
敷物の上もずりずりと移動し、バスケットの中身を受け取り並べていく。手際よく動く彼の手に感心ながら手伝っていると、ウィシュスは驚いたように言った。
「意外だな。何もできないかと思っていた。」
やけに険のある言い方だが、彼にとってはこれが普通だ。いちいち突っかかっていては面倒だ。
「将来、結婚しないことを見越して少しは身の回りの事が出来るように練習していたの。いつまでも頼りっきりなんて、本当に何にも出来ない子みたいじゃない。」
まだ暖かい紅茶を大きめのカップに注ぎながら、ルインも口を開く。
「それより、あなたこそこういったことはすべて傍仕えがやってくれるんじゃないの?」
彼はなんたって公爵様だ。従者もつけずに外出などしないと思っていた。
「俺は軍人だ。軍の遠征ともなれば、従者など邪魔なだけだ。自分でやったほうが効率がいい。」
「ふうん。」
二人で準備したからだろうか。支度はあっという間に終わった。外でも食べやすく、また冷めても美味しい料理ばかりだ。
食膳の祈りを捧げ終わると、それを待っていたウィシュスと共に食べ始める。
「懐かしいわ・・・。怪我をする前、よくこうやって別荘地の森でピクニックをしていたの。」
とても幸せだったころ。何も怖いものなどなかった。なにもかもがうまくいくと本気で信じていた。
「今では行かないのか?」
「私の治療費のために売ってしまったの。それに、この脚じゃあんなところまでいけないわ。」
新鮮な野菜とハムの塩気が柔らかなパンによく合う。ソースも絶品だ。美味しい。
押し黙ってしまったウィシュスに、ルインは軽く笑いかけた。
「だから、今日はとても楽しいの。連れてくる方法には多々言いたいことがあるけれど、連れてきてくれた場所は最高。ありがとう、ウィシュス。」
「・・・・・ああ。」
いかんせん頭が獣な彼の表情は読み取れないが、眉間のしわが取れたこと。そして目をそらしたこと。なにより・・・
「しっぽ・・・・・・」
「!!!?」
そう、尻尾だ、尻尾がばっさばっさと揺れている。どうやら嬉しいらしい。
「獣人っていいわねー。尻尾見れば何考えてるか一目瞭然。」
「さ、触るな!!」
尻尾が動いているなど気がついていなかったのだろう。動揺の隙をつかれ、尻尾を掴まれたウィシュスは慌ててルインの手を外した。
「き・・・・きもちいい・・・・・・・」
「だから触るなと!!!」
じりじりと近寄るルインから距離をとりつつ、ウィシュスは尻尾を外套の隙間へと隠した。
「あーーー!」
「煩いさっさと食べろ。」
非難の声を上げるルインを無視し、ウィシュスは紅茶をがぶりと飲んだ。
ここにムーメイがいればこういっていたであろう。
「あんた等なにイチャイチャしてるんすか・・・・。」と。