最終話 泡沫
『大好きだから。あなたのことが』
胸がぎゅんと痛くなる、これ以上ない嫌な言葉を受け取ってしまった。その上、笑ってよなんて言ってきた。あなただけのアイドルだからって。
だから別れ際、彼に嘘をついた。
『私ね、付き合ってる人がいて、プロポーズされたの』
プロポーズされるほどの魅力がないくせに、そう言ってしまった。でも、先に嘘をついたのはそっちだからお互い様だなんて言い聞かせる。
私の言葉を飲み込んだ彼は、控えめに微笑んだ。
『おめでとう』
その瞬間、わずかに濡れた目を見て後悔した。
私はここに行くべきじゃなかった。彼の前に、また立つべきじゃなかった。
「響くん、ごめん」
サイン会が終わって、響の車に乗った。
静かな車内で口を開き、その続きも言おうと思っていたが、遮られてしまった。
「最初から分かってたよ。俺は晴香の1番になれない」
目を逸らして、どこか遠くを見ながら言った。そして鍵を差すのをやめ、ごつごつした右手で握りしめる。
「今日、初めてこの目で本物を見て…思い知らされた。碧斗には敵いっこないって」
涙をこらえるように顔を歪ませ、ふぅと息を吐く。響はそのまま俯いて、震えた声音で呟いた。
「あれが幼馴染だったら、そりゃあ惚れるよな」
私も響も、苦しいと分かっていながら片思いに手を出した。絶対同じにしちゃいけないけど、その結果は、想像より傷ついて報われない。あまりにも残酷だ。
「ごめんね。自分勝手で」
響の目が私の方に向くことは、もう二度とない。
嫌いになりきれないし、好き以上の感情も出てこなかった。私は中途半端で弱いから、はっきりさせるのが怖かったのかもしれない。
どっちみち、壊すのは私。壊したのも私。
「一緒にいられて、私はすごく楽しかったよ。今までありがとう」
最後の最後に何を言ってるんだろうと、体が冷めていく。
さよなら。
そう言って私は車から出た。一瞬聞こえた名前を呼ぶ声も、気づかないふりをした。バタンとドアを閉めて、人が多い方向に歩き出す。
ビルが並ぶ通りには、PRISM CLOWNの広告が大きく貼られている。これだからいつまでたっても忘れられない。
履きなれない靴をコツコツと鳴らしながら、帰り道を探した。
3年経って、ようやく画面越しの碧斗に慣れた。遠いのが当たり前で、抱きしめられない距離を保っている、ただのファンになった。
若いと思っていた私も、気が付けば30歳に近い。たった数年で体の衰えを感じた。
今日も適度に肩を回しながら仕事をしていた。
「す、すみません!コピー機壊しました!」
「えぇ…嘘でしょ」
慌てた声を聞いてすぐに駆けつけるが、紙を詰まらせていただけだった。しわくちゃになった紙を抜くと元通り。
「はぁ、詰まってたのか…マジで焦った。鳴海っち…じゃなくて鳴海先生、ありがとうございます!」
大学生になってから塾講師のアルバイトを始めた七海は、相変わらず元気な子だ。
「コピー機使うの初めてじゃないでしょ?」
「すみません。久々だったからテンパっちゃって」
照れ笑いで誤魔化そうとする七海を、軽く睨んでみた。
「わー睨まれたーパワハラかもー」
「ちょっと、変なこと言わないでよ!」
「嘘でーす!鳴海先生大好き!」
七海が職場とは思えない空気を作って、ふと生徒返りする。
「働いてくださーい」
「はーい」
いつもの調子で仕事を終えて帰路に就いた。
眠気に襲われながら歩き続けて、やっと自宅が見えてきた。けど、そこで足が止まってしまった。
とっくに太陽は沈んでいるし、街灯も申し訳程度についているだけ。それなのに、なぜだろう。
好きな人がそこに立っていると、はっきり見えてしまった。
私の隣の家の前で、インターホンに手を伸ばしては引っ込めて、時々引き返そうと足を逆方向に動かしている。
こんな妙な行動をする人は、あの人しかありえない。
でも、声はかけない。プライベートを邪魔しちゃいけないから。
知らんぷりして一直線に家まで早歩きしていると、
「晴香」
大好きな声で名前を呼ばれてしまった。
ゆっくり振り向くと、幼馴染の碧斗がいた。間抜けな顔をして、口を抑えて、焦った様子で私を見ている。だから、つい吹き出してしまう。
「何その反応。呼んだのは碧斗でしょ」
「うん、そうだけど、声に出すつもりじゃなかったから」
「じゃあ口閉じとけばよかったじゃん」
「ごめんって!疲れてると口が勝手に動いちゃうから」
意味不明な言い訳すらおもしろくて、しょうもないと思いつつ笑いがこぼれた。
「っていうかさ、晴香も帰省中?俺はまだ家入れてないけど」
そういえば、サイン会で碧斗にプロポーズされたって言った記憶がある。つまり、碧斗の中の私は既婚者で、夫と仲良く同居しているはずの幼馴染ということか。
「別れた。碧斗のせいで」
「お、俺のせいなの?」
「うん、碧斗のせい」
こんなの八つ当たりでしかない。アイドルの碧斗を好きになったのは私で、そのうえ欲張ったのも私。自業自得。でも、そんな自分を隠したいと思うほど、私はバカだ。
会話が止まって、しばらく続いた沈黙を破ったのは、碧斗だった。
「ごめんな。晴香には幸せになってほしいんだけど…」
本当に自己責任だと思っているような表情で、碧斗は目を伏せた。
何でそんなに優しくできるのか、私には分からない。私みたいな悪い人にもそうやって優しい心を持てるのか、理解できない。
「いいよ、何も考えなくて。本当は碧斗のせいじゃないし、プロポーズもされてないから」
さらっと言ったからか、碧斗はまた驚いた顔をした。
「あと、私ちゃんと幸せだよ?」
痛い時もあるけど、碧斗が笑ったら私も笑いたくなる。碧斗が頑張ってる時は、私も頑張れる。
私にとって碧斗は、大好きなアイドルだから。
「ねえ、もう寒いから入っちゃいなよ。どうせ話し声で分かってるだろうし」
「…うん、そうだな。そろそろ押さないとな」
碧斗は口を真一文字に結んで、真剣な顔でインターホンを押した。その途端、嬉しそうにこっちを見た。まるで折り鶴ができるようになった小学生みたいに自慢げだった。
「じゃあね。またライブ見に行くから」
「おう!待ってる」
その言葉を最後に、私は家の鍵を開ける。明かりの灯った玄関を見た直後、足の力が抜けて、ドアを背もたれに小さく丸まった。
足音が聞こえて正面を見ると、毛玉だらけのパジャマを着た母がいた。
「おかえり…どうしたの?」
私は無理やり立ち上がり、笑顔を作った。
「ただいま。ちょっと疲れただけだから大丈夫!」
靴を脱いで母の横を通り、自分の部屋でスプリングコートを脱いだ。
今日は、お互いにフェンスを越えようとしなかった。だから、ただお隣同士が喋っているだけ。この距離ならただのご近所付き合い。そう考えると、無性に寂しくなってしまった。
私の中の空白は、もう誰にも埋められない。一生抱えていくものだと思う。
できることなら、隣の家にいるあの好きで好きで仕方ない人の忘れ方を知りたい。どこへ行っても、何をしていても、あの人が付きまとうから。
「…あれ?」
何年かぶりに視界が滲んで、泣いていたんだと気が付いた。忘れたいなんて考えてたのに、忘れないでとでも言ってるみたいだ。
頬に伝う涙を手の甲で拭い、スマホを起動してイヤホンをつけた。
儚く脆い歌声を耳に焼き付けるために。
君がいなくなってから
時計が動かない
僕の心音すら
静かに今を刻むだけ
嫌われていても
会いたくなるんだよ
追いかけていたい
また君の隣がいい
繋いだまま離さないで
この想いが溶けきるまで
葵と申します。このたびは、この作品を最後まで開いて読んでいただき、誠にありがとうございました。
今作は、アイドルと一般人の“報われない恋”をそれぞれの視点で描きました。途中から急に出てきた人もいますが、ふたりの人生において必要だったため急遽生みました。すみません。
私が注目してほしいのは、碧斗と晴香のずれです。職業、時間、物事の捉え方…色々ありますが、少しずつずれていったことでふたりの関係が形を変えていきました。結局、両片思い状態で終わりましたが、 “忘れたくない”気持ちが強いふたりらしいエンディングだと考えています。
改めまして、この作品に最後まで目を通してくださったこと、感謝申し上げます。これから精進してまいりますので、見守ってくださると幸いです。




