第20話、旧友来たり
平原の相としての劉備の奮闘は続いていたが、その表情には次第に疲労の色が濃くなっていた。大耳箱に寄せられる民の声は、彼の理想を支える力となる一方で、応えきれない願いや、人間の持つ複雑な感情の渦は、彼の心を重くしていた。
財政難、役人たちの抵抗、そして張飛の過剰な「正義」による摩擦…。問題は山積みで、眠れない夜も少なくなかった。
関羽は黙って劉備に寄り添い、張飛は苛立ちながらも劉備の指示に従い、石や陳も懸命に支えようとはしていた。しかし、劉備が一人で抱え込むには、平原の相というのものは大きすぎる。それは傍から見ていても明らかだった。
そんなある日の昼下がり。執務室で山積みの木簡と格闘していた劉備の元に、衛兵が困惑した様子で報告に来た。
「国相様、その…面会を求める方が来ております。ご自身を、国相様のご友人だと…。」
「友人? 私にか?」
訝しみながら劉備が応対に出ると、そこには、見慣れた顔が、実に飄々とした様子で立っていた。
「よう、玄徳。久しぶりだな。ずいぶんと思い悩んだ顔をしてるじゃねえか。」
「け、憲和!?」
劉備は、思わず大きな声を上げた。目の前にいるのは、古くからの友人、簡雍 憲和、その人であった。簡雍は、劉備が平原相になったという噂を聞きつけ、はるばるここまで訪ねてきたのだという。
劉備は、人目もはばからず簡雍の手を取り、旧友との再会を心から喜んだ。その夜は、久しぶりに質素ながらも酒を用意させ、二人きりで語り明かした。劉備は、これまでの苦労、黄巾賊での経験、そして今、平原で直面している統治の難しさを、気心の知れた友人に洗いざらい打ち明けた。
簡雍は、黙って相槌を打ちながら聞いていたが、やがて酒をぐいと飲み干すと、いつもの飄々とした口調で言った。
「はっはっは! 相変わらずだな、玄徳は。昔から、お前さんはそうやって一人で抱え込む。皆のため、民のため、と自分の身を削ってな。まあ、それがお前さんの良いところでもあるがな。」
その言葉には、揶揄する響きはなく、劉備への深い理解と温かい友情がこもっていた。
「だがな、玄徳。水清ければ魚棲まず、とも言うだろう? 正論ばかりじゃ世の中は動かん。時には、相手の欲につけこんだり、裏をかいたり、そういう駆け引きも必要だぜ? お前さんには、そういう泥を被る役が似合わん。だから…」
簡雍は、にやりと笑って続けた。
「見てるだけじゃつまらん。この簡憲和、微力ながら、お前さんの手伝いをさせてもらうぜ。お前さんのやろうとしてることは、間違っちゃいないんだからな。泥を被るのは、俺の役目だ。」
「憲和…!」
劉備の目から、熱いものが込み上げてきた。これほど心強い言葉はなかった。武においては関羽・張飛という無二の存在がいる。
だが、政の細々としたこと、特に人間関係の機微や交渉事においては、自分一人では限界を感じていたのだ。簡雍の存在は、まさにその穴を埋めるものとなるだろう。
「ありがとう…本当に、ありがとう、憲和!」
劉備は、友の手を固く握りしめた。
翌日から、簡雍は早速、劉備の幕僚として働き始めた。彼は、持ち前の物怖じしない性格と、巧みな弁舌、そして鋭い人間観察眼を駆使して、これまで劉備が手こずっていた役人や在地豪族たちとの交渉に臨んだ。
時には相手をおだて、時には弱みをつつき、時には利で誘い、時には冗談で煙に巻く。その老獪とも言える手腕で、簡雍は膠着していた状況を少しずつ動かし始めた。役所の雰囲気も、彼の加入によってどこか明るくなったように感じられた。劉備の肩の荷も、少し軽くなった。
内政に改善の兆しが見え始め、劉備が少しだけ安堵の息をついていた、そんなある日のこと。城門がにわかに騒がしくなり、報告の兵が駆け込んできた。
「国相様! 北平の公孫瓚様からの使者の方が、お見えになりました!」
「なに、公孫瓚殿から?」
劉備が慌てて城門へ向かうと、そこには、一人の若武者が、白馬に跨り、凛として立っていた。
年の頃は二十代半ばか。銀の鎧を陽光にきらめかせ、背筋をすっと伸ばし、その手には一本の槍が握られている。涼やかな目元には知性が宿り、全身からは一点の曇りもない、清廉な気が発せられているかのようだった。
その姿は、戦場の猛々しさとはまた違う、洗練された強さと気品を感じさせた。
劉備も、傍らにいた関羽、張飛、そして簡雍たちも、思わずその若武者の姿に目を見張った。
(なんと…見事な若武者だ…。)
劉備は、その人物がただの使者ではない、非凡な何かを持っていることを、一目で感じ取っていた。
若武者は、馬から静かに降り立つと、劉備に向かって、丁寧な拱手の礼をとった。
「平原相、劉玄徳殿におかれましては、ご壮健のこととお慶び申し上げます。私、公孫瓚様が配下、常山真定の者、趙雲、字は子龍と申します。」
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