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36 越境(3)

 ”絶望”その二文字が瞬時に頭を過る。直登の視線の先に据える、ひとりの男。腰に携えた剣は革製の鞘に納められている。男は瞳を覆い隠すように伸びた前髪を左手で搔きむしり、何かを叫んでいるようだった。標高2000メートル超、山の切れ目を渡して掛かる橋の上、その声は節々が直登達の耳に入るだけで大半は大気が生み出す轟風の音によって掻き消される。

 静寂とも錯覚するほどの轟音の嵐の中、直登の脳裏に一抹の不安がよぎり隣に目を移した。


「(———よかった、生きてる)」


 共通の敵を凝視する白い横顔を目にして、安堵のような感情と共に自責の念が押し寄せる。十年前に、これが出来ていたら———


「いまさらなにを……」


 目の前に広がる凄惨な光景も、百人以上見殺しにしてしまったという確信も、不必要な後悔も、今はその全てから目を逸らす。退路は断たれたのだ。

 振り返ろうと回転運動を始めた首元に一筋の旋風———


「危ない———ッ!!」


 ルネの甲高い声が届く前に直登は身を翻(ひるがえ)す。瞬く間もなく走る衝撃。斬撃を掠(かす)めたコートの半身が一瞬の内に弾け飛んだ。

 もしもこれが、体を掠めでもしたら……


「オイオイオイッよそ見ったァいい度胸じゃねえか!!死期が早まるぜえ、なあ東洋人!!!」


 今度は男のがなり声の全てが耳に届く。男は徐々に近づいて来ていた。


「とんでもないな……あいつ」


「…………そう、だね。でも———」


 殆ど崩れた土壁を足元に、彼女は答える。目は、合わせない。合わせる余裕も無い。防ぐだけで精一杯の攻撃が二度。男に隙は見えない。ただ二人の間にはこの圧倒的な実力差をどうにかして打開しなくてはという思いのみがあった。 

 逃げ場の無い真直ぐな道。じわりじわりと近づく得体の知れない男。男の腰の剣は抜かれて———


「———抜かれてないッ!?」


 予想外であった。先の二撃を、少女は剣(つるぎ)にあらかじめ込めていた魔力を剣自身の『切る』という特性に乗せて開放したものと考えていた。それでも、かなりの実力者であることに変わりは無いが、しかしそうであれば、あの破棄的な攻撃はそう何回も来ない。あの規模のものは多くて3回、いや4回であろうか。だが、剣は抜かれていない。


 では、先の斬撃の出所は。全長100メートルを超える鋼鉄を切り裂いた、あの攻撃は彼自身の魔力の放出なのか、もしくは……

 可能性はいくつか思い浮かぶ。しかし、あの威力。短いスパンでの攻撃。いくつもの因子が希望的な予測を一つまた一つと潰してしまう。そして残るのは絶望的な予測のみ。


「(まさか、『魔剣(まけん)』……あれがその13本のうちの一つだというの!?……もし、もしそうだとしたら……)」


 赤髪の少女の内側から胸を叩く鼓動が一層大きくなっていた。


「……勝てない。まずいよ、ナオトくん。こんなの勝てっこない。あの攻撃は威力が衰えることなく何回も、何回も、私たちが防げなくなるまで無限に飛んでくる。いや、むしろ今までよりもずっと強い魔力になるかもしれない。どうにかして、逃げる方法を考えなくちゃ———」


「へ?逃げるって、どうし———」


 言いかけたところに、三度閃光。視界を一瞬にして白に染めるそれは、何の憂いもなく二人を飲み込む。


「はい、どーん。……ってオイオイッもう一人脱落かァ!?」


「ナオトくんッッ!!」


 反射的に練りだした一人分の防壁、ほとんどが崩壊したその先には東洋人の姿は見えない。微かに残る魔力の残絵から悟った。落ちたのだろう。

 悟りと同時に浮かぶ『死』の一文字。それは目の前から消えた憎たらしい東洋人にむけてか、それとも彼女自身に向けてか。


 もう、何もかもが無駄に思える。あの攻撃は、幾度となく繰り返されるのだ。勝つことまでは出来ずとも、二人なら、せめて生きて逃げることくらいはできるだろう。そう一瞬でも思った自分が馬鹿らしい。

 震える足に、うつろな目。頭は眩暈(めまい)のようにくらくらとして、難しいことは考えられない。無意識にはめていた手袋に、なんの意味があったのかすら思い出せなかった。


「そうだ、死のう……」


 不思議と足の震えは止まっていた。少しでも楽に、できるだけ安らかに。痛いのは嫌いだ。

 少女の体は一直線に橋の脇へ。


「オイオイオイオイッ興ざめじゃねえかッ!!もっと楽しもうぜぇッ??」


 男が一太刀振ると今度は少女の体をちょうど翻すくらいの風が起こり、踏ん張りの効かない華奢(きゃしゃ)な身体は線路に戻され、いとも簡単に倒される。


「(ああ、それすらも許されない……)」


 これから起こるであろう近い未来の絶望から目を逸らすように首を90度傾け、レールの上に広がるパノラマに目を向ける。


「オイッ!!!早く立てよォ!、早く!!、早くッ!!!さっさと立ち上がれやァ!!!」


 そう言いながら男は目の前に横たわる体を弄ぶように、服を切り裂きその白い肌が傷つく程度の斬撃を繰り返す。このくらいの攻撃なら彼女でも防げるだけの魔力は十分以上に残っているが、如何せん気力が出ない。どうせ立ち上がった所で、あの攻撃が無慈悲に何度も襲い来るだろう。


 もう、今はこの絶景を眺めていたい。切り開かれた木々の間に、鋭く尖り堂々と鎮座する山々。空が晴れてないのはこの際許すとして、あとは、この数秒おきにくる痛みと、耳障りな金属音が無ければ最高———


「———きんぞくおん……?」


 微かに残っていた自我が少女に首を起こすだけの力を与えた。


「あれは———」


 それは確信に至るほどのものでは無かった。しかし、その一連の動作は奇妙なものがあった。

 男が剣の柄に手を掛けたかと思えば、その体の前に一瞬の光が生まれ金属音と共に魔力が飛んでくる。


「まさか……」


 少し前に自分で潰した一つの希望。そして気力、怒り。間欠泉のように溢れるそれらを内に、少女は立ち上がるほか無かった。

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