09 ベネチア事変(3)
サン・マルコ広場はベネチアのほぼ中心に位置する広場で、その奥に構えるサン・マルコ寺院や100m近くの鐘楼、広場の周りをぐるりと囲む柱廊などのバランスからその美しさは世界一と言われる。
深夜11時、人気のないその広場に一人の少女が現れた。見るものを魅了する優美な立ち姿は、暗闇の中でも変わらなかった。隙は無い。張り詰めた空気が広場一帯を漂っていた。
「遅かったな」
上空から聞こえたその声は、声量こそなかったが広場中に響いていた。
「あなたが爆破予告を?」
アリアはそう言いながら上空を見回した。月明かりの中、鐘楼の頂上にある人影。声の主は見下すように立っていた。
「ほう、娘一人か。呑気なものだな」
彼はどこか遠くを見てそう言った。
「まぁいい。あと一時間、些か余興としてはつまらんがな」
———
直登は細い路地を凄まじい速さで駆け抜けていた。呼吸は荒く、レンガ造りの住宅と緑色の川に挟まれた細い路地には激しい足音が響いていた。
刹那、交じわる異質な音。水面に落ちる爆発的な怒りと殺意に満ちた影。
「逃がすわけねえだろっ!!!」
背後から木霊す怒号と共に右を走る川の水が浮き上がり、水は即時に氷の壁となり彼の前に立ちふさがる。直登は走ったまま氷を破ろうと右足を突き出した。
「ど素人っ!!!」
「うそぉっ!?」
氷が一瞬にして水に戻り、さらにもう一度氷に戻った。
直登は自分の身に何が起こったのか理解できないでいた。
「(踵は入れた……けど、抜けない!)」
「あまり引っ張らない方が良いわよ、足ごと持ってかれるから。ま、そのままでも壊死してくだけだけど」
そう言われ、直登は足の力を抜き上を向く。少女の顔はすぐ間近に迫っていた。その開ききった瞳孔には狂気の色。垂れ下がる銀色の髪は彼の頬をなぞり、吐息までもが顔にかかっていた。
少女の顔は、直登が思っていたよりも幼かった。頬のふくらみ、髪の艶からして彼よりも4~5歳年下であろうか。
「ナオトとか言ったか、あんたが最も苦しむこと……そうだァ!」
ニタリと笑った少女は、直登のもう片方の足を石畳ごと動かし同じように氷に埋める。そして宙に浮いたままの直登の頭を両手で支えた。
「今、お前の首筋に棘を作った。お前の結界を貫くことなんて容易い鋭い棘だ。私が10秒後、手を離すと同時に腹筋で耐えろ。30分耐えたら見逃してやる」
少女はケタケタと楽しそうに笑った。冗談ではない。背後にひたひたと感じる殺気に直登はそう思った。悪魔じみた彼女の行動は、ただ自分の怨みを晴らすためだけのものであった。
「そんなことやって、何にな———」
「じゅーう」
少女は聞く耳を持たず、カウントダウンを始める。
「きゅう」
「(ヤバい、こいつはマジでヤバい。両足首までしか固定されてない状況で耐えれるわけがない。腹筋とかそういうレベルじゃないことをこいつも知っているはずだ)」
そう、少女には見逃す気など毛頭なかった。ただ、目の前にいるこの男をなぶり殺したい。自身が愉悦に浸りたい。それだけしか頭になかった。
「ごお、よん」
着々と進むカウントは彼が死に近づくことを意味する。しかし、華奢な手によって支えられたその顔は目を瞑り、力が抜けていく。諦めのようにも見えるその表情は、死が近伯しているこの状況にしては穏やかであった。
「さん、にい、いち」
確信した勝利に一瞬笑みがこぼれる。
「死ねぇええ!!!」
「簡易結界『籠』ッ!!」
直後、甲高い音と共に何かが潰れた。
———
「詠唱が必要ない魔術を、詠唱して出したらどうなんの?」
直登はアリアの話を遮り質問をした。窓の外には暗黒が広がり、そろそろ授業も終わりになる頃である。
「威力と精度の上昇」
彼女は眠たそうな瞼をこすりながら、そう答えた。
———
「どうしてっ!?」
沈み切った目の前の男は未だ生きていた。結界の強度は最初の攻撃で把握したはずだった。そして、それよりも強い強度で棘を作ったはずである。暗闇に散る火花。それと同時に、彼女は次弾に備えようと腕を上げる。
「簡易結界『障子』」
しかし、直登の手は彼女の額に達していた。
詠唱と共に少女は後方に吹き飛んだ。それを見て彼は体をよじり起き上がる。足元の氷は結界によって切れていた。
「(……殺意がこもり過ぎなんだよ)」
長い道のほぼ突き当りまで飛んだ少女を見て死んでないかと心配になったが、魔術師は存外丈夫であるはずという希望的観測の元、彼は振り返って走り出した。少女の意識が途切れたからか、氷の壁は水へと変わり川に流れている。
薄暗がりの街の中、駆け出す彼はサン・マルコ広場のすぐそこまで迫っていた。




