7.子猫を拾った後に
茶白のハチワレおじいちゃん猫とは四年近く一緒に過ごした。その間に私は大学を卒業して東京の企業に就職をした。
茶白猫は家主さんの部屋でそうしていた様に窓から外を眺めるのが好きだったので、出窓の天板に猫用座布団を置いてあげたら、ほとんどの時間をそこで過ごしていた。
本当に大人しい猫で、抱き上げても嫌がられたことはあまり無かったくらいだ。必要以上に気を遣う事も無く、ただ側に居てくれる。心地良い感覚だった。
けれどそんな優しい時間は長続きはしなかった。老猫だったので病気が見つかって直ぐに亡くなってしまった。私に介護をさせ面倒を掛けさせたくないとでも言うように、あっという間に息を引き取ってしまった。梅雨の雨の日だった。
茶白猫の存在は私の中で大きかった様で、元彼には申し訳無いが元彼と別れた時よりも心に大きな穴が空いてしまった。残された猫の餌用の器や猫用トイレ、それにずっと出窓の天板に置きっ放しにしている猫用の座布団を見る度に寂しさが込み上げてきて仕方が無かった。だからといって処分も出来なかった。
家主さんから新しく猫を引き取らないかとも勧められたが、茶白猫への気持ちの整理がつかないのでと保留にさせてもらった。
どうにもこの出来てしまった心の空間の埋め方が分からないまま数ヶ月が過ぎたある秋の日、桜の公園を散歩した。春は桜が一杯に咲くが、秋は公衆トイレの周辺に植えられた金木犀が凄い。小さな橙色の花が密生して咲き、落ちた花で地面も橙色に彩られる。
それにしても香りが強い。梅雨に沢山雨が降ると特に金木犀の香りは強くなるなんて言うけれど、今年は梅雨が雨続きだったから本当かもしれないなと思った。
茶白猫は亡くなるまでの数日間を、殆ど動かずに窓から雨を眺めて過ごした。猫だから晴天が好きなのか雨が好きなのかとか聞けないから分からないけれど、最後に晴天を見せたかった気もする。でも家主さんが手入れをしてくれているアパートの周りの植栽は、雨でも元気でお洒落だった。紫陽花が空の代わりに美しい青を見せてくれていた。
そんな記憶を思い出していると、ミーと小さな鳴き声がした。幻聴かと思った。茶白猫が居なくなって寂しさから猫の鳴き声が聞こえてしまうようになったのかと思った。
でもミー、ミーと確かに聞こえてくる。それにこれは猫は猫でも子猫ではなかろうか。茶白猫は老猫だったからこんなにも高い鳴き声ではなかったし。
辺りを見渡すとボソボソと人の声も聞こえてきた。声が聞こえてくる方へ行ってみると、公衆トイレの近くの金木犀の木の陰に人が蹲っている丸い背中が見えた。
何だろうかとそっと近付いて様子を窺うことにした。
『悪いな』
謝っている。もしかして捨て猫現行犯かもしれない。
『何も食べ物が無い』
そうなんだ。
『お金が無い』
だからって捨て猫は駄目。然るべき所に相談するべきではないだろうか。
『水道の水なら汲んでやれるけど、器が無い』
この人、何も無いんだな。
『飼ってやりたいけど家も無いしな』
……本当に何も無いな。ホームレスなんだろうか。
『可哀想にな。こんなに可愛いのに捨てる奴がいるんだな』
あら。どうやらこの人が捨てた訳では無いらしい。勝手に勘違いをしてごめんなさい。
『どうしたもんか。動物愛護センターとか、保護してくれる団体とかに届けた方が良いんだろうけど、この辺の地理には詳しくないし、調べたくてもスマホも持って無いし』
また無い物が増えた。
さて、どうしたものか。
私が代わりに調べるか。それとも家主さんに相談してみるか。もしくはもうちょっと様子を見て拾ってくれる人が居ないか見守るか……。でもこの人、捨て猫から離れそうにない。このホームレス風な人が居たら猫に近付く人も居ない気がするし。
取り敢えず思い切って話し掛ける?
でも何か物乞いとかされたり、怒鳴られたり、何かされたりしないだろうか。
いやでも、この猫に話し掛けている雰囲気からはとても人が良さそうに感じる。
でもでも、猫に優しいからと言って安全とは言い切れない。
どうしたものか……。
そうやって思案していたら突然ホームレス風の人が振り返ったので油断していた私とバッチリ視線が合ってしまった。
『…………』
『…………』
何とも気不味い空気が流れた。お互いがお互いを探るような視線を投げ合っていた。
でもその人をじっくり見て驚いた。若い男の人だったのだ。下手したら二十五歳の私よりも若いかもしれない。
もしかしてホームレスでは無いのか?
『……猫、ですか?』
『え?』
『猫を、拾いに来たとかですか?』
『いえ、猫の鳴き声が聞こえてきたので気になって』
『捨て猫みたいです』
そう言ってホームレス風の人は蹲っていた体を開くと、段ボールに入れられた子猫が見えた。ねずみ色のトラの様な模様だ。確か似た模様の猫が家主さんの部屋にもいた。子猫はこのホームレス風の人にとても懐いているのか、一生懸命に鳴いて近寄ろうとしている。でも段ボールの壁が高くて乗り越えられない様だ。
『この辺りに猫を保護してくれる所があるかどうか、分かりますか?このままここに居たら食べ物も無いですし、カラスとかに狙われるかもしれませんし』
お金も家もありませんもんね。すみません、勝手に話を聞いてしまいました。
この人と子猫は同じ境遇なんだな。
『調べないと分かりませんが、相談に乗ってくれそうな方は知っています』
『本当ですか!』
『でも、人が良いので引き取ると言ってまた猫が増えてしまう気がして……それでは押し付けるみたいになってしまうので気が引けると言いますか……』
『そうですか……』
家主さんなら引き取ると言ってしまいそうだ。だから猫が増えているのだと思う。保護してくれる団体を知っているのならあんなに増えない筈だ。
でも取り敢えずは一旦この子猫を一時保護して、家で引き取ってくれる所を探した方が良いかもしれない。恐らくこの子猫は何も口にしてない気がする。段ボールの中には何も無い。ミルクもタオルも何も無い。
『取り敢えず、私が一時保護します。それでどこか探します』
『ありがとうございます!』
ホームレス風の人はとても嬉しそうに私にお礼を言う。この人が私よりも先にこの子猫を見つけたというだけで、私にお礼を言う程の責任は感じなくても良いと思うのに。子猫に『良かったな』と言って沢山撫でてあげている。
そして私に子猫が入った段ボールを渡してきた。受け取ろうと近付くと、ウッとした。さっき若くてホームレスでは無いのかもと思ったけれど、暫くお風呂に入っていないのか金木犀の香りに混ざって臭いが漂って来た。やっぱりホームレスかも。
軽く息を止めて段ボールを受け取り、さり気なく一歩後退った。けれど子猫は私の顔を見ようともせず、ホームレス風の人を見つめて鳴き声をあげ、必死に縋り寄ろうとし、段ボールを乗り越えてしまいそうに見える。
『危ないよ。落っこちちゃうよ』
危ないせいか、優しく子猫に話し掛けてなかなか離れられないホームレス風の人。ミーミー泣くものだから、私が誘拐でもしている様な気分になる。やはり私一人ではどうにか出来る自信が無くなる。家主さんに相談させてもらおう。そして、臭い。
『あの、もし宜しければ、その相談に乗ってくれそうな人の所まで一緒に行きますか?子猫も離れ難そうなので』
『いいんですか!?』
臭いのは子猫の為に我慢することにした。きっと慣れるだろう。麻痺すると言う方が正しいだろうか。納豆だって食べている頃には臭いは感じ無くなるのだから。
そして連れ立ってアパートに向かった。
近くでよく見るとそこそこのイケメンだった。臭いさえ無ければホームレスには思えない。
隣を歩きながら会話に迷う。気になることは沢山あるけれど、聞くに聞けない。ホームレスなんですか?どうしてですか?何歳ですか?最後にお風呂に入ったのはいつですか?……聞けない。
このホームレス風の人も特に何かを話し掛けてはこなかった。辺りをキョロキョロとしながら、時々子猫に『良かったな』とか話し掛けていた。
公園からアパートは直ぐで、気まずさを感じる前に到着した。
『ここです』
『!?、猫、多!?』
アパートに着いて直ぐに家主さんの部屋のあの額縁猫の窓を見て驚いていた。
窓からこちらを見つめる猫達を見つめ返しているホームレス風の人をそのままに、私は家主さんの部屋のインターホンを鳴らした。直ぐに家主さんが部屋から出て来てくれた。
『突然すみません。ご相談があるのですが』
『あら、何かしら』
『そこの公園に捨て猫が居たんです。一時保護をしたんですけど、どうしたら良いかなって。保護団体とかに心当たりありませんか?』
『あらまあ。その猫は?』
『あそこの男の人が持っている段ボールの中です』
そう言って額縁猫の窓の前に立っているホームレス風の人に視線をやった。家主さんは迷い無く近付いて行って段ボールの中を覗き見た。
『子猫じゃない。秋生まれなんて珍しい』
『珍しいんですか?』
『春から夏にかけて生まれることが多いから』
さすが、詳しい。
『それにしてもお兄さん、臭うわね』
『すみません……』
家主さん、はっきり言っちゃうんだ。金木犀が無いここは余計に臭いを感じる。
『体や服洗ってないの?』
『……お金が無くて』
『司ちゃんのお友達?』
『いえっ、そういう訳では……!』
友達どころか初対面です。
『可愛い子猫ね。お兄さんに懐いてるみたい。そうね、先ずは迷子猫じゃないか確認しないとね。それと動物病院でマイクロチップが付けられていないかや健康状態を確認してもらいましょう』
『は、はい!』
的確にアドバイスをしてくれる。なんて頼りになるんだ。
家主さんは警察や保健所に連絡をしてくれると言って、そして私は動物病院に子猫を連れて行くことになった。
ホームレス風の人から動物病院に連れて行く為に段ボールごと子猫を受け取ると、『よろしくお願いします』と言って、子猫の鳴いて引き留めようとするのを振り切って去って行った。
その後、迷子猫の届け出は無く、マイクロチップも付けられていないことが判明した。健康状態も特に問題は無く、ミルクをあげると元気に飲み始めた。
どこか保護してくれる団体を探そうかとしたが、家主さんに『司ちゃんが引き取ったらどう?』と言われた。『猫が招いてくれた縁かも』とも。まあ、確かに猫グッズは一通り揃っているので飼えなくもない。ただ、私にはあまり懐いていない。メスだから?同性だから?
そんなことで飼うことにした。
子猫は凄く元気だった。以前の老猫は大人しかったけれど、子猫は部屋を走り回った。これはオモチャを色々と準備しないとかもと次の休みの日に買いに出掛けた。一緒に遊んであげたら私にも懐くかもしれないと、ちょっと下心もあった。
オモチャを買って帰宅をすると、家主さんの額縁猫の窓の前になんとあのホームレス風の人が居た。猫達とにらめっこでもしている様にじっと見ていた。
スルーして部屋に入るのも気が引けて、『あの……』と声を掛けてみた。
『あっ!どうも……!』
『どうも』
私に気がついて慌てて挨拶してくれた。
『あの子猫、どうなりましたか?』
『ウチで飼うことになりました』
『お姉さんが!ありがとうございます』
そんな風にお礼を言われると、この人が捨てたみたいではないか。
『心配して様子を窺いに来たのですか?』
『そうです。押し掛けてすみません。この窓の猫達も可愛かったですし』
確かにこの額縁猫は可愛い。
『子猫、連れて来ましょうか?』
『いいんですか!?』
『あまり私に懐いてくれなくて。お兄さんに会ったら喜ぶかもしれません』
私は一旦部屋に戻り、子猫を連れて行った。子猫はホームレス風の人を見ると激しく鳴いて縋っていた。母親とでも思っているのだろうか。『ちょっと大きくなったな』と嬉しそうに子猫に向かって言って、沢山撫でてあげていた。今日買って来たオモチャでも少し遊んでくれた。優しい人なのだろうなと思った。今日も臭いけど。
アパートの前で暫くそうしていたが、『長居してすみません』と言って、離れまいと服に爪を立てて抵抗する子猫を私に戻すと、お礼を告げ去って行った。子猫はずっと鳴いて呼び戻そうとしている様だった。
それから三日後、秋らしく台風がやってきた。電車が運休するかもしれないからと、仕事は午前業務のみで帰宅するよう通知が出た。
雨の日は以前の老猫を思い出してしまう。新しく子猫を引き取ったけれど、そう簡単に心の空間は埋まり切らない。老猫の存在が大きかったからか、私が未練がましい女だからか。そんな私の為に老猫はあの子猫を私の元に遣わしたのだろうか。悲しむ暇も与えない様に、暴れ回る子猫を。
会社から駅まで雨も風も強かった。傘は差してみたけど吹き飛ばされそうだった。ビショビショで電車に乗るのも迷惑になるかと頑張って差したけれど、一応レインコートを着ているし最寄り駅に着いたらアパートまでは傘を差さない方が安全かもしれないなと思った。
電車も濡れた傘を持った人で一杯だった。電車の中も床が濡れ、湿気でむわっとしていた。そして電車が走り出して、雨粒が電車の窓を激しく打ち付けていた。窓の外の景色が見えない程だ。
最寄り駅に着いて駅構内を歩いていると、浮浪者が角に座り込んでいるのを見つけた。台風の雨風を凌ぐ為だろうか。
ふと、あのホームレス風の人を思い出した。あの人はどうしているのだろうか。桜の公園にいるのだろうか。この人の様にどこか屋根のある所に避難しているのだろうか。つい三日前に会ったけれど、もうどこか別の地域に行ったりしているのだろうか。
平日の通勤時は公園の中を横切らないので、公園で会うことは無かった。
まだ若い人だった。行き先が決まったり知り合いの所にお世話になっていたりしてもおかしくはない。
駅を出て外を歩き始めるが、風が強くて歩きにくい程だった。傘は無理なのでレインコートのフードを押さえながら歩いた。
台風だし寄り道せずに早く帰るべきなのに、足は桜の公園の中を進んでいた。気になってしまって仕方無かった。居ないと分かればそれで良い。公園に遊具は無い。台風の風に煽られ耳が恐怖を感じる程の音を立てている木々ばかり。こんな雨風では木の下でもびしょ濡れになるだろう。唯一の屋根がある場所は公衆トイレだ。
居ないと分かればそれで良い。
そう思って公衆トイレを覗いたのに、顔を伏せて床に座り込んでいるあのホームレス風の人を見つけてしまった。
古い公衆トイレだ。綺麗とは決して言えない。風に飛ばされたのか金木犀の花が公衆トイレの床に散らばっているので、香りだけは良い。
『……大丈夫ですか?』
突然話し掛けられ驚いたようにこちらを見た。
『お姉さん!?』
取り敢えず生きてはいた。
でも体は濡れている様に見える。秋、濡れれば寒いことだろう。濡れた体を拭く物も無いのだろうか。座り込んでいる様子はとても小さく頼りない少年に見えてしまう。
『頼れる人が誰も居ないのですか?』
『……はい』
『ここ、寒くないですか?』
『……ちょっと』
『ウチに来ませんか?』
『え?』
自分でも驚いた。そんな言葉を言うとは思いもしなかった。
私は猫だけでなく男の人まで拾ってしまった。
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