5.猫の名付け親
彼から電話があった後、ベッドに入っても眠れなかったから公衆電話について調べた。
まず、どこの公衆電話から掛けたのかは個人では特定出来ないらしい。だから彼が今どこにいるのかは分からない。
それと、通話途中のブーという音は恐らく電話がもうすぐ切れるという通知音だったらしい。だから彼はあの音を聞いて通話が終わってしまうと分かって慌てたのでは無いだろうか。
それから料金について。時間だけでなくどこからどこへ掛けるかでも金額は違ってくるらしい。それに呼び出し中も料金が掛かるらしいのだ。つまり、私は直ぐに電話に出なかった。彼がいくらお金を投入したのかは分からないけれど、その間も料金は取られていたから通話時間が短くなってしまったのではないかと思う。
あの時、早くに電話に出ていれば。
そう思ってしまうのは、彼への気持ちが断ち切れないからだろうか。
「えっ!電話があったの!?」
ランチの時間に彼から電話があったことを同期に報告をした。それはもうかなりの驚きっぷりだ。前のめりで話の続きを促してくる。
「公衆電話から───」
「今時公衆電話!?スマホは??」
話の続きを促されたのに、一つ目の単語でもう遮られた。仕方ない。何しろ公衆電話なんだから。
「持ってなかったの。だから多分今も持っていないんじゃないかな」
「えっ!ありえない。今時小学生でも持ってる子は持ってるよ」
全くその通り。でも彼は同棲していた頃、お金が無いから契約出来ないと言っていた。
「まあ、だから公衆電話だったんじゃないかな」
「よく神田の番号分かったよね。私、スマホの電話帳見なきゃ分からないよ」
「多分、前に何かあったらって番号をメモして渡してたからまだ持ってたんじゃないかな」
「時代に逆行するアナログ人間だね」
「否定出来ない」
私が彼を擁護するのも何だかおかしな話だし、全肯定するのが早いだろう。話を進める為に態とらしく咳をした。
「ずっと連絡しなくてごめんって言われた後、ハチは元気かって───」
「待て待て!ハチって?」
今度はそこに引っ掛かったらしい。
「猫」
「えっ、猫なのに蜂?」
「ハ、チ」
「神田の猫って確かねずみとか何とか生き物の名前が羅列してなかったっけ?」
「ああ、ねずみ色のサバトラ猫」
「さらに、蜂?」
「そうだね。ねずみ色のサバトラ猫の、ハチ」
「蜂……どういうセンスよ」
「アクセントは“ハ”でお願いします。“チ”だと昆虫になってしまう」
「……そうだね」
呆れながらも引っ掛かった部分は消化出来た様子だ。なので話を進める為にまた態とらしく咳をした。
「話を戻すんだけど、久し振りに電話をくれたかと思えば私よりも猫が元気かって言われたのがちょっとショックだったんだよね」
「ああ、成る程。確かに、それはショックかも」
「でしょ?そりゃあ飼い猫を大切に思ってくれているのは嬉しいけどね。でも何だか二番手感がしてさ、私のことは心配じゃなかったのかとかさ、私はハチの飼い主でしかない様な感じがしてさ、モヤモヤした感じがある訳よ」
「モヤモヤねぇ」
「そう、モヤモヤ」
「つまり猫にヤキモチ?」
「ヤキモチ!?」
同期に言われた言葉に吃驚してしまう。それは名前の通りの醤油をつけて海苔で巻いたりする美味しい焼き餅では無く、嫉妬という意味のものかと考えてそんな筈無いだろうと思った。
「違うよ」
「何で?猫だけ心配して自分は蔑ろにされた様な気分だったんでしょ?自分も心配されたかったんでしょ?」
「心配はされたかったけど」
「猫よりも自分の方を気に掛けて欲しかったんでしょ?」
「……うん」
「つまり、彼のことをまだ好きなのね」
予想外のことを言われて思わず同期を見つめて固まってしまった。
ずっと忘れたい、でも忘れられない自分がいた。いつか忘れられるだろうと期待した矢先に彼からの電話。お陰で忘れられる日は遠退いただろう。昨夜からモヤモヤした感情に支配され、ずっと彼のことを考えてしまっている。
これらの根底にある感情には目を向けないようにしていた。口にして認めたくなかった。
突然居なくなったのだから、私は捨てられたんじゃないかと思った。プライドなのか何なのか、捨てられた女だと思うのは惨めに思えてしまう。それなのに怒りもせずに何事もなく帰って来てくれることを期待した。ごめんねって言って元通りの日々に戻るんじゃないかって考えた。
でも一ヶ月が経ってもそんな日は来なくて、怒れない代わりに、寂しくて泣きたい代わりに忘れてやろうと思った。忘れて何年か経ってからこんなこともあったなって懐かしむことが出来るようになりたいと思った。
でも忘れるのは簡単なことでは無かった。彼と共有した時間は決して多くは無い筈なのに、ふと思い出してしまう。その時に感じる喉が詰まり焦点が狭まってしまう現象を生み出してしまう感情にも気がつかない様にしていた。気がつかない筈は無いのに。余計に惨めに思えてしまうから気がつきたくなかったんだ。
なのに、同期は簡単に言葉にしてしまう。
「…………」
私自身で言葉にしたら駄目な様な気がする。でも否定する言葉も出て来ない。
「他には何を話したの?」
黙り込んてしまった私に気を遣ってなのか、それとも単に話の続きが気になったのか、同期は先を促してきた。
「……他は、何も……。やらなきゃいけないことがあるって言って、それで話途中だったけど切れちゃった」
「えー。じゃあ連絡先も分からないまま?」
「うん」
「連絡の取り様が無いんだ?」
「うん」
「神田はどうするの?」
「どうって……?」
「またいつ来るか分からない連絡を待つの?」
通話は途中で切れてしまったけれど、最後、彼は“またきっと連絡する”と言おうとしていた様に思う。それは忘れようとしていた私を引き止め、完全に留め置いてしまった。
「取り敢えずは……」
「まあ、神田がそれで良いなら良いんじゃない」
良いのかどうかは分からない。同期が言った様にいつ連絡が来るのか分からないのだ。今日また来るかもしれないけれど、明日来るかもしれない。来週かもしれない。けれど一ヶ月後かもしれない。もっとずっと先かもしれない。もしくは、本当に連絡が来るのかどうか、それも分からない。確証は無い。ただ、彼を信じるだけ。
いや、あまりに放っておかれたら私だって分からない。誰かに心を惹かれることもあるかもしれない。
(竜泉くんは、私がいつまでも待ち続けられる女だと思っているのだろうか)
連絡が来たということは、連絡をしようと思えば出来たという事ではないだろうか。刑務所に入っていた訳でも無いだろうに。電波の届かない海外の辺境にでも行っているとでも言うのだろうか。
(そもそも、私に待っていて欲しいと思っているのだろうか)
ずっと待ち続けた結果、彼はすっかり忘れて待ち続けた私を嘲笑ったら……?
私の知っている彼はそんな人では無い。でもそんな人では無いと思いたいのに、自信が無くなっていく。
「ところで、ハチって、神田がつけたの?」
マイナスな思考に引っ張られいた私を引き戻すように同期が尋ねて来た。私ははっとして、今職場にいて、ランチ中で、まだ午後も仕事があるのだということを思い出した。
「ううん。彼だよ」
お弁当を食べる為に手を動かした。じきにお昼休憩が終わってしまう。いつの間にか同期は殆んど食べ終わり、野菜ジュースを飲んでいた。
「なかなかのセンスだよね。ハチなんて犬っぽい名前を猫につけるなんて」
“犬っぽい”という言葉、私も彼に言った様な気がする。
「家の猫、ねずみ色のサバ柄なんだけど、彼にはシルバーに見えたらしくて、銀蜂みたいに綺麗だって」
「銀蜂?」
「針の無い蜂らしいよ」
「……昆虫博士なの?」
「さあ?」
最初聞いた時、昆虫が好きなのかと軽く思っただけだった。同期みたいに昆虫に詳しいのかとまでは疑問に思わず、私はそれ以上踏み込まなかった。それにその頃はまだ彼とは距離があったし。
「その銀蜂から取ってハチになったの」
「センス独特」
「……そうだね」
「突然居なくなるしスマホは持ってないし名付けのセンスは独特だし、聞けば聞く程不思議な人だね」
「……そうだね」
「大丈夫なの?」
その大丈夫は騙されているんじゃないかとか、本当に好きなのかとか、これからも連絡を待つつもりなのかとか、沢山の意味を込めての大丈夫なのだろうか。何がと聞き返したい気持ちもあるけれど、否定されてしまうのも怖いし、ご飯をさっさと食べてしまいたくて「そうだね」と曖昧に答えてしまった。