沈黙の色
沈黙には色が付いている。それが純粋なものであればあるほど籠められた想いは研ぎ澄まされて、僕の胸に二度と消えない痕を残す。
僕と彼女、それに彼の遺体を乗せたエレベーターは緩やかに下降を始めた。
葬送専用のダストシュートはここから1000階程下にある。その間の十数分が僕と彼女と彼にあてがわれた最後の時間となった。高熱滅菌処理を施された彼の遺体を前に、壁際の座席に座る。程なくして、彼女も隣に腰を下ろした。四肢切断され、透明な真空パックに包まれた彼の遺体は白かった。何一つ残さない無言の白だ。
高熱滅菌処理の名残で、コンビニの店内程の広さをもったエレベーターの中は蒸せるような暑さだった。服と肌が密着して、頬をゆっくりと汗が伝う。下降するエレベーターから何から、これまで何の障害もなく流れていた時間が這うようになり、じわじわと速度を落としていた。唐突に音を立てて、彼女が上着を脱いだ。続いて大きく、そして深く息を吐き出した。暑かったからというより、このまま停止へと向かう時間に逆らうかのように。僕はそのまま彼女が何か喋ってくれるのを期待したが、彼女の動作はそこで終わりだった。彼女は彼の遺体の先、彼と同じ白色の壁を睨み、脱いだ上着を握りしめた。僕は頭を垂れた。時間は訪れた沈黙に絡め取られ、それきり僕も彼女も動かなくなった。
ふと単調だったエレベーターの駆動音が変わって、身体に強烈な重力がかかった。顔を上げてドアの前の階数表示を見やると、最後の時間は数十秒も残されていなかった。やがて低い電子音が響いてドアが開いた。ドアの先もまた白かった。僕はしばらく開いたドアの向こうをぼんやりと見つめていたが、おろむろに立ち上がった。ひどくふらついた。身体が重さを何処かに忘れてしまっている。白い壁を睨み続けていた彼女もゆっくりと立ち上がり、2人がかりで彼の遺体を順々にエレベーターから運び始めた。彼の遺体はその大きさに違わず巨大な質量を伴っていた。真空パックの両端を彼女と持ちあって腕と首を、2人では持てなかった足と胴はカートに乗せて運び出した。葬送室もエレベーターの内部と同じくらいの広さだった。空調が効いていて、汗は瞬く間に引いた。
部屋の中央には白い柩があった。柩のそばまで彼を運び終えると、エレベーターのドアが閉まった。駆動音が遠ざかり、無音が耳朶を打つ。柩の蓋を開けると、果てしなく下方へ続く暗い闇があった。葬送用ダストシュート。呼吸しているかのように、微風が頬に当たった。彼女と目を合わせた。彼女が頷いた。
左足を抱え上げ、柩の中へと入れる。彼の足は人1人分の入り口よりひとまわり以上大きく、膝を畳まなくてはならなかった。真空パックを手放すか細い音を最後に、彼の左足は永遠に僕と彼女の前から消えた。
「彼はマクロソミアだったのですか」
葬送用のエレベーターから抜け出て、僕と会ってから初めて彼女が口を開いた。今の今まで喉の使い方を忘れていたかのような、深くひび割れた声色だった。僕はそこで彼女を初めてまともに見た。幼い顔立ちだった。成人してから間もないのだろうか。
「これ、君は今回が初めてだったのかい」
肩がぴくりと震えたように見えた。数瞬遅れて彼女が首肯する。
身元不明や引き取り手のいない遺体は、男女一人ずつランダムで選ばれた成人した市民の手で弔われる決まりだった。葬送業者によって滅菌され真空パックに包まれた遺体をダストシュートに放り込む――確率として一生に何度もある義務ではないが、それでも自分がそうなるかもしれないまでに幾らかは他者の死を間近で見ることになる。
無骨な通路を歩きながら、息を吐き出して答える。「巨人症患者は僕も初めてだ」
原因不明の過度成育症。第二次性徴期に平均をはるかに逸脱して身体が巨大化し、結果として日常生活に著しく支障をきたす。有効な治療法は確立されていないらしい。何層何万階にも連なり挟まれた部屋は大きくすることはできない。壁を広げようにもどこもかしこも満員だった。市民一人ひとりにあてがわれた部屋の容積に個人差をつけようとしても、彼の周囲に住む住人がそれを許さなかったに違いない。
立とうとしても天井につかえて立てず、動こうとしても動けず――
「周囲の全てに拒まれて、彼は息絶えたのですか」
肩を震わせて、搾り出すように彼女は小さく呟いた。その僅かな空気の振動は僕の前で儚く霧散した。僕は何も返さなかった。何も返せなかった。僕と彼女の周りが白い沈黙に包まれた。痛いほどに白い。
事前に指示されていた幾つかの作業用エレベーターを乗り継いだ後、僕と彼女は普段の雑踏の前に出た。彼の死によって出会った僕と彼女は本当の他人同士に戻るのだ。
彼女は上着を羽織り直し、ぼんやりと立ちすくんでいた。軽く手を上げて僕は一足先に人混みの中に帰り、誰かへと還った。しばらく歩いた後でふと振り返ってみると、遠くのほうで彼女が僕のいる辺りを視界に収めているのを見つけた。別れた場所から一歩も動かずに、その瞳は僕が溶けている群衆を映していた。そこで気付いた。彼女はまだ沈黙の前に自身を晒しているのだ。立ち止まり、彼女の方を見た。気付くと意識の中から雑音が遠ざかり、僕の外側へと追い出されていた。急に辺りが白く染まったように感じた。彼女の中で僕の姿が像を結び、僕は彼女に会釈した。彼女がぎこちなく頭を下げる。
人の流れは次第に重く速くなっており、幾つかの波が引いたとき彼女の姿はもうそこにはなかった。身の回りの雑音が息を吹き返し、気付くと僕の意識は白ではなくなっていた。