47 熱闘と逃走
そうして『三ツ目』は、森から毛むくじゃらの巨体を出現させた。
全身闇に沈むような濃い焦げ茶の剛毛に覆われ、両腕両脚とも人の胴体に勝りそうな太さに見える。片手に握っていた腕より太い丸太を、いきなり軽々と振り回す。
周囲の木々が、いちどきになぎ倒された。
逃げ遅れていた野鼠が、必死に駆け出していく。
太枝を払った丸太が、振り戻される。
その刹那に、ライナルトは横手へ呼びかけた。
「今だ、撃て!」
「おう!」
向かって右手に、ケヴィンとイーヴォ。左手に、オイゲンとマヌエル。標的の両横に回っていた四人の男がライナルトと同時、とりどりに腕を振るう。
魔法の火が三つ、水が二つ、球形で宙を飛んで魔獣の顔面に弾けた。
もとより、威力が小さいのは承知の上、だ。
この場の目的は、時間稼ぎなのだから。
魔法の有効射程距離は約二十ガター以内。身長十ガター近い相手の顔面を捉えるには、水平距離十五ガター程度に接近しなければならない。しかし太い丸太の振回しで、それも思うに任せない。
それでも何とか、魔獣は不快そうに三つの瞼を瞬き顔面を手で拭っていた。
ほんのわずかな足止めは、奏功した格好だ。
「よしいけ、もう一丁!」
「おう!」
続けて、火と水が飛び。
太い腕が煩わしげに顔面前に振られる。
「もう一丁!」
「おう!」
さらに続けて、二度三度。
小さいながらも火と水の球が弾け。
煩いとばかりに太丸太が振られ、メキメキと木が倒れた。
「わあ!」
左横手の男二人が飛び退る。
幹の直撃は避けたが、マヌエルが枝に足を払われて転倒していた。
「大丈夫か?」
「や――足をやられた」
「起きられるか?」
「済まん、すぐには無理――」
「くそ、待ってろ! みんな、もう一丁だ!」
「おう!」
愚図愚図してはいられない。
さらに火が三つ、水が一つ、飛ばされる。
次々弾け、大きな手が煩そうに顔前に振られる。
足が止まった、と見て、ライナルトは素速く前進に移った。
続けて火が二つ、水が一つ、飛ぶ。大きな手がそれを払う。
その隙に、太い膝元へ飛び出し。思い切り、愛用の大剣を振るった。
ガシーーン、と鉄鋼を引っ叩いたような轟音と、手応え。
ギウアーーーー!
一声吼えて、巨獣は撲たれた足を押し返してきた。
呆気なく力負けして、ライナルトは地面に横転した。
そのまま必死に背を庇い、四つん這いで距離をとる。
残念ながら、毛むくじゃらの臑に傷一つつけられていない。
「続けろお!」
「おう!」
両脇から火が二つ、水が一つ。ひと息遅れて、ライナルトも火球を放つ。
もう頓着せずに、魔獣は大きく丸太を振るった。
わあ、と悲鳴を上げて、オイゲンが地面に転がった。大きな負傷ではなさそうだが、そのまま立ち上がれず呻いている。
「大丈夫か?」
「な、何とか――いや、足が立たねえ」
「何とか、少し離れろ!」
残る仲間は、二人。火と水が一つずつ。
それでも、続けるしかない。
「もう一丁だ!」
「おう!」
右横から火が一つ、水が一つ。ひと息遅らせて、ライナルトも火球を放った。
初撃を大きな手が払う。時間差で、火球は額に見開く眼を直撃した。
ギウアーーーー!
さすがに効果はあったようで、三つの眼が強く閉ざされ、やや間を置いて開かれる。
わずかに動きが鈍った、と見てとり。
「オータ!」
中央の眼の前に、イェッタがレンズを出現させた。
即座にライナルトが光を放つ。
ギウアアアーーーー!
狙い過たず、光は額の眼を射貫いた。
続けて放った火球が、眉間に炸裂。
グウアアアーーーー!
大きく仰け反り、巨体が傾く。
ここぞ、と大剣を両手に握り、ライナルトは突進した。
さすがの図体で、レンズと光でも致命傷を与えられていない。それでも額の眼を潰すことはできただろうか。
顔を仰け反らせ、掌で三つの眼を覆っている。その無防備になった片脚に、全力で大剣を叩きつける。
ギウアーーーー!
さらに咆哮し、魔獣の脚が跳ね上がった。
やはり剣で傷つけることは叶わず、ライナルトは地面に転がった。
片手で顔を庇った形で、巨獣は向き直ってきた。完全にライナルトだけを相手にするつもりになったようだ。
その背の方向で、オイゲンとマヌエルが脚を押さえ蹲っている。
「ケヴィンとイーヴォ、二人を連れて林に逃げ込め!」
「おお!」
「分かった!」
こちらに標的を定めている間、四人が逃げる余裕はできるだろう。
ライナルトは逆の林に逃げ込み、時間を稼ぐ心積もりになった。
魔獣が眼を庇っているので、レンズ攻撃を続けることができない。むしろ今まで以上に顔を左右に振っていて、狙いの定めようはなさそうだ。
すぐに、丸太が振られる。
周囲の木々がなぎ倒される。
丸太が一方へ振りきられた瞬間を狙って、イェッタが風魔法を使い、ライナルトは顔面向けて火を放った。
しかし魔獣の動きが大きく、火は空中で弾ける。
丸太が逆方向に振られる。
倒れてくる大木を避け、ライナルトは低い姿勢で飛び退った。
林の中に駆け込むが、魔獣は太い木をなぎ倒しながら追ってきた。
「くそ、動きが速い」
「狙い、定めれない」
林の中では木々が邪魔をして、ますますレンズも火も狙いに届かせられなくなっているのだ。
それでも振り返り、牽制のために風と火の魔法を放つ。やはり距離的に足らず、火は大きな顔の手前で弾けた。
近づかなければ、届かない。近づけば相手の丸太の射程に入ってしまう。これでは有効な攻撃のすべがない。
大きな歩幅で追ってくる、その行く手を紛らわせるべく、ライナルトは大木の陰へと逃げ道を折った。
一度たたらを踏む仕草で、魔獣は苛ついたように大きく丸太を振り回した。
バキバキ、と大木がへし折れ。
「わあ!」
倒木を避けて、ライナルトは横手へ身を躍らせる。
その足が脇の木の根に躓いた。
背中の娘を庇って転がりを堪え、地面に両手をつく。
途端、左脚の上に大きな木が倒れ落ちてきた。
「ぐわあ!」