第7章:その世界の唯一の名(7)
神との決戦が、始まった。
アルファズルが右手をかざすと、闇の魔力で生成された球が打ち出され、左手を振れば、無から生み出された破獣が襲いかかる。
戦士達は闇の球をかわし、破獣を斬り伏せて、神に迫る。だが、敵は大きな赤黒い翼をばさりと羽ばたかせ、嘲るような笑いを洩らしながら縦横無尽に闇を駆け巡り、なかなかこちらの攻撃を捉えさせない。予想以上の素早い動きに、位置を見失って立ち尽くせば、たちまち背後から放たれた魔力が、あるいはその翼が武器となり、叩き飛ばされた。
数では圧倒的に勝っているはずのこちらが、翻弄され、圧倒され、決定打ひとつ与える事さえかなわない。
四英雄の武器をもってしても。
「ユリシス・リードリンガー。一度は我が下僕に呑まれ、聖王槍に認められなかった者が、笑わせてくれる」
ユリシスが繰り出したロンギヌスは、敵に届く寸前で、がちりと嫌な音を立てて翼に阻まれる。
「恩を仇で返すとは、まさにこの事かな? アスラン・レジュハ」
咄嗟にアッシュが助太刀に走ったが、かつて命を救ってくれた男の顔と声で言われ、たちまち怯んだ。
「白銀聖王剣クラウ・ソラス。かつてその刃を手にした者へ向けるとは、愚かなものだ」
振り下ろされた翼が、二人を同時に地へ叩き伏す。
「イノ・エルバドール。お前の祖父が我が封印を解く切欠を作った。私からは最高の栄誉を与えてやりたい所だが、同胞からは、最悪の謗りを受け続けるだろうな」
「うるっさい! アタシはアタシだもの、じいちゃんがどうだったとか、ママがどうだとか、関係あるか!」
イノは精一杯怒鳴り返したが、動揺までは隠せない。魔法防壁の制御を崩して、あっと言う間に後方へ跳ね飛ばされた。
「かつて共に戦った者に剣を向けるか?」
闇が空間を裂いて大人達を薙ぎ払い、
「我が意志に刃向かう愚か者に、未来は無い」
魔力の球は子供達を容赦無く弾き飛ばす。
「ヴァーンの子孫。温存し続けた鋼鉄の技も、我が前には無意味」
マキシムの放つ銃弾が貫通したかに見えた穴は、そのそばから塞がって、響く銃声を空しくさせるばかり。
エシャラ・レイが渾身の歌を放って倒れた者達の傷を癒すが、それさえもくだらぬ事とばかりに、アルファズルは嘲笑した。
「残念だったな、フォモールの王。お前が時を費やして待ち続けたこの決戦も、初めから、我が勝利と定められていた」
「それはどうかな」
それでも尚、エシャラ・レイは、不敵な笑みを神に向ける。
「ボクは信じる。ボクらの子孫を、人間達を。彼らの持つ心と可能性を」
その言葉に呼応するように、戦士達は立ち上がり、強大な敵に向かってゆく。アルファズルは明らかな不快感を顔に満たし、獣のように吼えて、次々と彼らを叩きのめした。
「やめてよ、もう、やめて!」
そんな光景を前に、イリスは竜王剣を中途半端に握ったまま、ただただ混乱する頭を振って、呻き続けた。
もう父ではないと言ったのに、身体に流れる四英雄の血は、始祖種の魂は倒せと告げているのに、心のどこかは、目の前の敵を討つ事を躊躇っている。
「貴方を見たら、母様が悲しむ! クラリス達が戸惑う! 私が……辛い!」
血を吐くような叫びを絞り出す娘に、クレテスの姿をした何かは、ふっと攻撃の手を緩め、穏やかに笑いかけた。
「イリス、お前はやっぱり、エステルに似たな。優しい子だ」
その笑みが、一瞬にして狂気じみたものへとすり替わる。
「だから、脆弱なまま逆らう事無く、滅びを受け入れろ!」
闇が、幾つもの刃の形を成してイリスに襲いかかる。それが王女の身体を貫く寸前、魔力によって編まれた防壁が、ことごとくを弾き返した。
「イリス、しっかりしろ!」
エシャラ・レイによって助けられたのだとわかったのは、フォモールの王が、苛立ちすら含んだ声で叱咤してきたからだった。
「ヴァロールの呪いを跳ね返した君が、ここで屈してどうする。アルファズルがクレテスの中にある内に、討て!」
力無くうなだれていたイリスは、その言葉に一つのひっかかりを感じて、顔を上げた。
「あなたは知っていたの。神が、アルファズルが、父様に憑いた事を?」
始祖種の王は応えなかった。ただ俯いたまま、びくりと肩を震わせただけだ。そういえば、魔王が倒れた後アルファズルがどこへ行ったかと訊ねた時、エシャは明確な言及を避けたではないか。
「……そうだよ」
しばらくの間の後、エシャはイリスに背を向け、ぼそりと宣告した。
「魔王という依代を失ったアルファズルは、アティルトの策略でクレテスの遺体に憑いた。これまでは、クレテスの四英雄としての血が、かろうじて奴を抑え込んできた。だけど、それももう限界なんだ。今討たねば、奴を倒す機会は二度と無い」
「知っていたんだ、あなたは!」
イリスは度を失ってエシャにつかみかかった。そのがらあきの隙を敵が逃すはずが無く、闇の球が二人を打ちのめす。
「討てだなんて……あなたは他人だから、そんな簡単に言えるんだ!」
地に倒れ伏しても尚怒りをぶちまけるイリスの耳に。
「――ボクだって!」
負けないくらいの怒声が返ってきた。
「無慈悲に、無感情に、彼を殺せと言っている訳じゃあない!」
今度はイリスがすくみあがる番だった。すくんだ拍子に相手の顔を真正面から見てしまい、王女は驚いた。
エシャラ・レイは泣いていた。そこには、かつて共に戦った仲間を、神への贄にするような事態になるまで、事を止められなかった後悔と、己自身への激しい憤怒が溢れている。
それを見て、イリスの中にあった熱も急速に冷めていった。
イリスはしっかり地を踏み締めて立ち上がると、ドラゴンロードを握り直した。先程までのような、力無い構え方ではない。
エシャラ・レイの言う事が真実ならば、もう一刻も早く父を、アルファズルとのせめぎ合いという苦しみから解放してやらねばならない。そしてそれが出来るのは、娘の自分以外にいないのだと。
イリスの覚悟が固まったのに気づいたか、敵も感情に訴えかけて揺さぶるのは諦めたようだ。冷徹な笑みを顔に満たし、ゆったりとこちらに向き直る。
が、数瞬の後、その表情が、唐突に固まった。視線はイリスを通り過ぎて後方、一点を見つめている。イリスも肩越しに振り返り、そして、驚愕に翠の瞳を限界まで見開く羽目になった。
何故、この人がここにいるのか。最も今の父の姿を見せたくなかった人が。
「クレテス」
ユウェインに支えられ、地下洞の入口に立っているのがやっとという状態のエステルは、しかし、彼の腕を振りほどくと、イリスの予想に反したしっかりとした足取りで進み出る。
「もう、良いんですよ」
『勇女王』ではなく、その母であった『優女王』ミスティを思わせる穏やかな微笑で、彼女は己の片翼に呼びかけた。
「私は知っています。貴方が誰よりも優しい事を。私やイリス達を巻き込まない為に、自ら遠ざけたのだと」
「……違う」
初めて、アルファズルの顔に動揺が浮かんだ。何かを恐れるような震えた声で、一歩、後ずさる。
「貴方の中の神にも、情が残っていたのでしょう? だから貴方は、いつか神の狂気が消えるまで、独りで抑え込む事を選んだ」
「違う!」
エステルが一歩踏み込む。神がまた一歩後ずさる。
「英雄と呼ばれた人間ごときが、わかったような口を利くな! わかるものか、『我々』の気の遠くなるような時間の絶望を!」
アルファズルから全方位に衝撃波が発せられた。イリス達四英雄の武器を持つ者は、青白く光る神器を眼前にかざす事でそれを逃れたが、始祖種の加護無き者はことごとく吹き飛ばされる。エステルも例外ではなく、この空間の隅まで地面を滑った。
「母様!」
イリスは青ざめて母を振り返る。痛みに襲われているのか、エステルはしばらく突っ伏したまま動かなかった。まさかの確率に唇が震え始めた頃、母はようよう顔を上げて、「……イリス」と娘に呼びかけた。
「救ってあげて。あの人を。そして、神を」
全ての元凶まで救えと言えるこの人は、確かにこの大陸の守護者だ。イリスは一瞬目を閉じ、そして開くと、力強く頷き返し、神を振り返った。
「『我々』は……誓ったのだ……この世界の生命に復讐すると……!」
クレテスの声で、クレテスではない者が呪詛を吐く。しかし彼はにわかに胸を押さえて低く呻いた。
「イ、リス!」
イリスは直感的に悟った。父の姿をした他の何かではない。彼女の知る、父の声だと。その父が叫ぶ。その身体が闇に呑まれゆく。
「始祖種の意志を継ぐ四英雄として、神を討て! いいな、アルファズルは……」
完全に闇に呑み込まれる寸前、クレテスは己の胸――心臓の位置――を、はっきりと娘に指し示した。
「ここだ!!」
己が創り出した生命を乗り継ぎ、辿り着いた最後の器を取り込んで、闇がひとつの形を成す。
それは決して、神などではなかった。神々しくも、美しくも気高くもない。確かに巨大で強大だったが、先程までの脅威など、微塵も感じられない。ただ、無茶苦茶に魔力の球を打ち出し、仄暗い意志の触手を振り回して、消されたくないと、自分が絶対者として君臨していたいと叫び続ける、酷く惨めでちっぽけな存在。それだけなのだと、ドラゴンロードを通して流れ込む始祖種の意識が、イリスに気づかせる。
これが、世界の神の正体か。気づいた途端、イリスは怒りを越えて、ただ哀れみしか覚えなかった。
竜王剣が静かに、だが一段と強い輝きを放った。それはイリスの全身を包み込み、アルファズルのあらゆる攻撃を遮断する。イリスが竜王剣を一振りすると、闇の一部が瞬時にして吹き飛んだ。
ドラゴンロードに呼応するように、アッシュのクラウ・ソラス、ユリシスのロンギヌス、イノのカデュケウスも次々と光を強める。三人の周囲もアルファズルの攻撃から守られ、また一撃で確実に闇を退けた。
『お前達は、神を殺すのか!』
アルファズルの絶叫は、ひとの耳には聞こえない。ただ、四英雄の武器を介して、四英雄の脳内にのみ響く。
『世界の生命は、我々によって導かれ、我々の意志で進化するのだ。その神を討てば、お前達は指標を失って、争い合い、滅びゆく道しか無くなる』
「それはお前の驕りだろう」
ユリシスが声に出して反論し、聖王槍を薙ぎ払った。
「お前が封印され、ここに眠っている間にも、世界は発展し、進歩してきた」
「確かにみんな、いろいろ喧嘩も戦争もしてきたけどさ」
たたみかけるように、イノが魔刃を振り回す。
「仲良くしようって思うひとたちも、沢山いたじゃん。それを勝手にかき回して、余計に事態ややこしくさせといて、今更何言ってんの!?」
『お前達は神を否定するのか。我々を否定するのか』
闇が裂かれ、はがれ落ちてゆく度に、アルファズルの狂気にも似た悲鳴が、四人の全身をがんがんと叩く。
『嫌だ、消されるのは嫌だ。忘れられるのは嫌だ!』
「誰だって嫌だよ、そんな事は」
アッシュが同情を一切差し挟まぬ声で同意を示し、白銀聖王剣を振り抜く。更なる悲鳴と共に闇が大きく退き、その中心に、クレテスの姿が、見えた。
父娘の視線が交わる。
父が微かに笑った。幼い頃、自分を抱き上げて見せてくれた、あの笑顔で。
流れ落ちる涙で視界がぼやけていたが、イリスはドラゴンロードを手に、神を名乗りし者の中枢へ、しっかりと足を踏み出した。
「私達は忘れない、貴方達の存在を」
最後の抵抗とばかりに、闇はイリス目がけて滅茶苦茶に迫る。自棄気味の攻撃が竜王剣の守りを破り、腕をかすめ、脚を斬りつけ、鎧まで貫いても、イリスは歩を緩める事は無かった。
「世界に生命が続く限り、私達は語り継ぐ。貴方達の名と物語を」
アルファズルが困惑し、狼狽するのが、手に取って感じられた。
イリスにはもうはっきりと見える。父の身体の奥底に隠れて、狂った叫びをあげながら震え続ける、酷く小さく、しかしあまりにも黒ずんだ意志が。
決して、その存在が忘れられる事は無い。忘れてはならないだろう。だが、神として存続するには、それはあまりにも弱く、邪悪すぎた。
「――だから、消えろ!」
一声と共に、イリスはドラゴンロードを振り下ろす。竜王剣が父の胸に吸い込まれるように突き刺さり、ひときわ輝きを放った。
光と断末魔の絶叫で、イリスの五感は真っ白に吹き飛ぶ。
神を名乗りし闇が完全に消滅する様も。
最期に父が自分の頭を抱き寄せ、「……ありがとう」と告げた、その声も。
全てが一瞬にして光の中に呑み込まれ、そして、遠ざかってゆくのだった。




