契約
僕は勇者だった。
だった。そう、過去形だ。
平和な世界に過ぎた力は要らない。
世界が平和になった途端、僕は厄介者になった。
誰もが羨望の眼差しで見ていたはずなのに、今では恐怖の対象だ。
なにせ、魔王より強いことが立証された人間を、怖く思わないものがいるのか?
子供に石を投げられ、商店に行くと怯えた接客。
僕は行き場を無くして彷徨った。
そして思った。
もし、もう一度魔王が復活したら。
もし、魔物がまた現れたら。
みんなは僕を認めてくれるだろうか。
そう思って首を横に振る。
何を考えているんだ、僕は。
あの苦しい旅の果てに達成された悲願を、僕個人の願いでまた人間を恐怖に陥れていいのか?
「いいんだよ」
背後から声が聞こえた。
慌てて振り返ると、全身黒ずくめな青年が立っていた。
「君は……」
「俺は悪魔。単なる悪魔さ。なぁ、お前、救ったはずの世界を、憎んでいるんだろう?滅茶苦茶にしてやりたいとは思わないのか?」
悪魔の甘言が僕を誘惑する。
その唇が弧を描く。
「僕は仮にも勇者だった男だ。人間を危険に晒すなんて、そんなこと……」
「だけど、思っただろう?願っただろう?」
悪魔は続ける。
「お前の憎しみは正しい。あんなに頑張ったのに、不必要になったら手のひらを返してお前を怖がる。まるで魔王のように」
その言葉に目の前が真っ赤になった。
心の奥底で思っていたことを言い当てられたからかもしれない。
仇敵だった魔王のような扱い。
僕は、多分、それが一番耐えられなかったんだろう。
だから声高に叫んだ。
「悪魔と契約?するさ!なんだって!この憎しみが果たされるなら!」
僕がそう言うと、悪魔は微笑んだ。
美しい造形のそれは、天使の慈愛に似ていた。
「契約成立だな」
とても楽しそうなのに、その目は笑っていない。
そして僕の左手の薬指に唇を寄せたかと思うと、眩ゆい光がそこから発せられて、あまりの眩しさに目を閉じて再び開くと悪魔の目の色と同じ色の石が嵌め込まれた指輪がそこにはあった。
その光を境に、僕はもう人間ではいられないと直感した。
「これは……」
「契約の証さ。これからよろしく、勇者様」
相変わらず笑っていない瞳で見つめる悪魔は、僕にとっての天使だった。




