第25話「本物」
飯のあと。
みなは、座って、話している。
曜吾郎は、ものを元に戻し、薪をととのえ、米袋を、積みなおす。
それが、習慣だった。毎日やる。手は、止まらない。
米袋を、わきへどけて、たまった埃を、払う。
袋のへりの、よく見える所に、ひとつ、印が、あった。
大きくはない。四角い形。じっと、見た。
太史府の、印。
はっと、気づいて、へたりこんだ。
そうか……。
さっきまで忙しかった手が、止まった。
小屋では、ほかの面々が、まだ話している。声が、外から、入ってくる。玄墨が、また、わけもなく腰を伸ばしはじめ、ブルースが笑って転げ、智也が、はやし立て、蒼鷹の声が、低く「もういいだろ、もういい」と――
だが、その声は、みな、遠くなっていくようだった。
そこに座って、その印を、見ている。
ここへ来た、あの日のことを、思い出す――
薪も、鍋も、米も、すべて、きちんと、置いてあった。
あのとき、この窪地をぐるりと見渡して、思った。こんな所に、ひとりきりで座っているべきじゃない、と。
あれは、誰か前の者が、残していったものだと、思っていた。
あの小屋は、自分が、見つけたのだと、思っていた。
あの湧き水の湯気、あの場所の静けさ、「そう、ここは、正しい」と思わせる、あの感じ――
自分で、見つけたのだと、思っていた。
そこに座って、その印を、長いこと、見て、動かなかった。
涙が、こぼれた。
自分でも、気づかなかったかもしれない。
ただ、こぼれて、その太史府の印の上に、落ちた。
手の甲で、ひとつ、ぬぐって、また、その印を、見た。
袋ごと持ち上げて、重たそうに、立ち上がった。
松影が、いつのまにか、軒の上に、座っていた。
その印を、見た。曜吾郎の目を、見た。曜吾郎の手の甲の、いまぬぐった跡を、見た。
何も、言わない。
ただ、そこで、付き添っている。
夜風が、谷から吹き、湧き水の湯気が、夜の色のなかで、曜吾郎の胸を、焼いた。
曜吾郎は、薪をととのえ終え、顔を上げて、軒の上を、ひと目見た。
松影は、まだ、いる。
曜吾郎は、うなずいて、何も言わなかった。
松影も、何も、言わなかった。
曜吾郎が、その米袋を、取り出した。
「これを、見てくれ」
その印を、机のまんなかに、押しやった。
六人が、その印を、見た。
玄墨が、まっさきに、わかった。表情は、変わらない。背を、うしろへ預けて、目の色が、ひとつ、沈んだ。
蒼鷹。摺扇を、止めた。何も言わない。
ブルースが、その印を、長いこと、見た。「これは……」
「太史府の、印だ」曜吾郎が言った。「米袋に、ついていた」
智也が、眉を、ひそめた。「じゃあ、この小屋は――」
「誰かが、仕組んだ」
誰も、口を開かない。
その沈黙は、どんな怒りより、重かった。
窓の外、松影は、軒の上で、じっとしている。
小屋のなかの、その六人を、見ている。
また、六人だ。
松影は、その顔を、見ている。
いま、自分が仕組まれていたと知って、まだ、どうするか決めかねている――そんな顔。
その顔を、知っている。
ずっと、ずっと昔。
松影も、同じ顔を、していたことがある。
「このたびは、誰が、残るのだろうな」
声は、ごく低く、小屋の誰の耳にも、届かない。
風が、その一言を、軒の影に、吹き散らした。
それから、ブルースが、口を開いた。声は、低い。
「あのトウファは、本物だ」
みなが、見た。
「小杏がくれた、トウファ。誰も、仕組んじゃいない」ひと呼吸おいて、「本物だ」
智也も、すこし考えて。「団子は、本物だ。婆さんがくれた。あの人は、仕組まれてなんか、いない」
蒼鷹。「藤介は、本物だ。『舞台で、試してみろ』――あれは、あいつ自身が、言った。誰かに、言わされたんじゃない」
瑛子が、窓の外の光を、見た。「あの光は、本物。あの角度は、誰にも、仕組めない」
玄墨が、長いこと、黙った。
それから、ごく低く。「書は、本物だ。あの字は、真実の記載だ。何千年もの文字を、偽れる者は、いない」
最後に、曜吾郎。
その印を見て、ごく低く、言った。
「飯は、本物だ。僕が、自分で炊いた。誰にも、教わっていない。僕の、手だ」
三秒、沈黙。
ブルース。「ああ。あれは、本物だ」
太史府の印が、あの小屋の静けさを、破った。
だが、あの笑い声、あの道、あの声は――
本物だった。
誰ひとり、否定しなかった。
――第二十六話〈小さな、合音〉へ――




