序章:朧なる胎動
綾が三つになった年の春のことである。
父が任ぜられた中務省の役宅の庭は、遅咲きの桜が淡い紅の霞を広げ、そよ吹く風に花びらがはらはらと舞っていた。綾は、母の藤乃に手を引かれ、その庭をそぞろ歩いていた。絹の合わせに包まれた小さな体は、春の陽光を浴びて心地よい温かさに満たされていた。
「綾、ご覧なさい。綺麗なお花ね」
母の柔らかな声が降ってくる。綾はこくりと頷き、母が見せた一輪の桜を見上げた。淡い桃色の花弁、その中心にある繊細な蕊。それは確かに美しい。けれど、綾の心には、それ以上の何かは響かなかった。物心ついた頃から、綾はどこか醒めていた。同年代の乳兄弟たちがきゃあきゃあと騒ぐのを見ても、何がそんなに楽しいのか理解できず、ただ黙って隅の方で彼らを眺めているような子供だった。
そんな綾を、母は少し心配そうに、けれど厳しく躾けた。
「良いか、綾。お前は父の、そしてこの藤原の血を引く娘。常に慎み深く、人とは違うところを決してお見せしてはなりませぬ。それが、この世を恙無く渡る術なのですよ」
母の言葉は、幼い綾の心に深く染み込んだ。綾は母の期待に応えようと、ますます口数を減らし、感情を表に出さず、ただ静かに微笑むだけの娘となっていった。
その日も、綾はいつものように母の隣で、人形のように静かに庭を歩いていた。ふと、足元の石畳に落ちた一枚の花びらに、陽光がきらりと反射した。その瞬間だった。
―――ぐにゃり、と。
視界が歪んだわけではない。音も、匂いも変わらない。けれど、綾の頭の中に、奔流のように何かが流れ込んできたのだ。
それは、見たこともない風景だった。
天を衝く硝子と金属の塔々。夜空を滑るように飛ぶ、鳥ではない何かの影。手のひらに収まる薄い板に触れると、瞬時に色とりどりの絵や文字が浮かび上がる。そして、それら全てを設計し、作り上げ、操る人々の姿。その中で、ひときわ鮮明に映し出されたのは、白い清浄な衣を纏い、複雑な光の計器盤を前に、真剣な眼差しで何かを操作する一人の女性の姿だった。その女性の視点、その女性の思考、その女性の知識が、まるで自分の体験であるかのように、綾の小さな脳裏に焼き付いていく。
それは、遥か太古、この星にあったという超文明の記憶。そして、その文明を支えた一人の技術者の、鮮烈な追体験だった。
「……あ……?」
綾の口から、か細い声が漏れた。
「どうしました、綾?どこかお加減でも?」
母が心配そうに綾の顔を覗き込む。綾は慌てて首を横に振った。
「なんでも……ありませぬ、母上」
いつものように、感情を押し殺して微笑む。
けれど、綾の世界は、その瞬間を境に一変した。
今まで当たり前だと思っていたこの平安の都の何もかもが、ひどく未発達で、非効率で、そして何よりも――脆く見えた。木と紙でできた家々。牛がのろのろと引く車。手で書き写される書物。夜の闇を払うのは、頼りない灯明の光だけ。
(どうして……こんなにも……)
頭の中に流れ込んできた知識は、それら全てに対する明確な「解」と「改良案」を綾に示していた。
綾の瞳の奥に宿る、三歳児には到底持ち得ぬ深い理知の光に、周囲の大人たちは誰一人として気づかなかった。彼らにとって綾は、少々物静かではあるが、歳相応に賢く、美しい姫君であった。その微笑みの裏に、世界を揺るがすほどの知識が隠されているなどとは、夢にも思わずに。
母の「人とは違うところを決して見せてはならぬ」という教えは、奇しくも綾にとって好都合だった。この溢れ出る知識と、周囲との圧倒的な差異を隠すために、綾はますます殻に閉じこもった。
三歳の春。太古の叡智という名の種子は、綾という名の幼子の心に、静かに、しかし確かな胎動をもって芽吹いた。
それは、やがて来るべき世界の変革と、魑魅魍魎が跋扈する動乱の時代に、誰にも知られず闇を裂く一筋の光明となる、そのほんの始まりの出来事であった。