第一話:朧なる星影、幼き胸に宿りて
春霞の庭で太古の星影に触れたあの日から、綾の世界は一変した。
三歳の誕生日を間近に控えた綾の小さな頭脳には、まるで誰かが絶え間なく囁きかけるように、膨大で、そして途方もなく進んだ知識が流れ込み続けていた。それは、硝子と金属で編まれた摩天楼、夜空を翔ける鉄の鳥、指先一つで万象を映し出す掌中の板。そして、それらを自在に操り、新たなものを創造し続ける人々の姿。とりわけ鮮明なのは、白い研究衣を纏い、複雑な計器に囲まれた一人の女性――名は思い出せないが、その思考、感情、そして何よりも彼女が抱いていた「創る」ことへの情熱が、綾自身のもののように感じられた。
「綾、ぼうっとしてどうしました?お菓子ですよ」
母、藤乃の柔らかな声が、綾を現実へと引き戻す。目の前には、色鮮やかな州浜と干菓子が品よく並べられた高坏があった。いつものように、綾は小さく頷き、母に促されるまま州浜を一つ、小さな口に運んだ。
(甘い……でも、この甘味の生成方法、もっと効率的なものが……いや、今は違う)
頭の中で勝手に始まる思考の連鎖を、綾は必死で押しとどめる。この世界の何もかもが、彼女の脳裏に浮かぶ「あるべき姿」からかけ離れている。その落差は、時に眩暈を覚えるほどだった。
以前はただ退屈で、早く時間が過ぎればよいと思っていた大人たちの会話も、今ではその内容の素朴さに驚きを禁じ得ない。病が流行れば神仏に祈り、日照りが続けば雨乞いの儀式を行う。それら全てが、綾の「記憶」の中にある科学的知見からすれば、あまりにも心許ない対処法に思えた。
(違う、そうじゃない。もっと確実な方法があるはず……)
そんな言葉が喉まで出かかるのを、綾はぐっと堪える。
母の言葉が、以前にも増して重く綾の心に響いていた。
「良いか、綾。お前は父の、そしてこの藤原の血を引く娘。常に慎み深く、人とは違うところを決してお見せしてはなりませぬ」
幼い頃から繰り返し聞かされてきたその言葉は、今や綾にとって絶対の戒律となっていた。この溢れ出る知識も、周囲との決定的な差異も、全て隠し通さねばならない。もし、この「記憶」の片鱗でも人に見せれば、きっと自分は「普通ではない子」として、どこか遠くへ追いやられてしまうだろう。それは、綾が最も恐れることだった。
幸い、綾は元々口数が少なく、感情を表に出さない子供だった。周囲の大人たちは、綾が少しばかり物静かで利発な姫君であるとしか認識していない。綾は、その「普通」の仮面をより強固にする必要性を感じていた。
乳母や侍女たちが綾の身の回りの世話をする時も、綾はただ静かに微笑み、求められるままに行動した。彼女たちの何気ない会話、貴族社会の噂話、季節の移ろい。それら全てが、綾にとっては貴重な情報源となった。この世界で「普通」に振る舞うために、この世界の「常識」を正確に把握しなければならない。
夜、寝所に入り、帳が下ろされると、ようやく綾だけの時間が訪れた。灯りを消した暗闇の中で、綾は目を閉じ、脳裏に広がる星々の記憶――太古の超文明の映像を繰り返し再生した。それはまるで、壮大な絵巻物を紐解くようでもあり、複雑な絡繰を分解しては組み立てるようでもあった。
最初はただ圧倒されるばかりだった知識も、繰り返し追体験するうちに、徐々に整理され、綾自身のものとして吸収されていく感覚があった。特に、あの技術者の女性が見ていた設計図や数式、物質の組成やエネルギーの変換といった分野は、綾の知的好奇心を強く刺激した。まるで、遠い昔に自分がそれらに関わっていたかのような、不思議な既視感さえ覚えた。
(この知識を、どうすればいいのだろう……)
使い道など、今の綾には想像もつかない。けれど、この宝のような知識を、ただ胸の内に秘めておくだけではいけないような気がした。いつか、何かの役に立てる日が来るかもしれない。そのためには、まず、この知識を誰にも知られず、安全に探求できる場所が必要だ。
そんな想いが、三歳の綾の心に、小さな種のように蒔かれた。
翌朝、綾はいつものように母に手を引かれ、庭を散策していた。陽光が庭石に落ちる様を眺めながら、綾はふと思った。
(光にも、影がある。どんなものにも、見えない裏側があるのかもしれない)
それは、彼女がこれから築き上げることになる、誰にも知られない秘密の世界への、ほんの小さな、しかし確かな一歩であった。
周囲の大人たちは、今日もまた、物静かで愛らしい姫君の姿に目を細めるばかり。その幼い胸の内に、世界のありようを変えうるほどの星影が宿っていることなど、誰一人として知る由もなかった。




