十
哀れな人だ、と。峰草の話を聞いた贄田は思った。しかしそれを表情に出すことはない。ただ、彼女を見つめていた。
「贄田さん」
峰草と目が合った。視線を逸らそうかと考えたが、贄田は彼女を見続けることにした。
「この子が、ほしいって言っているんです。すごくおいしそうって。おいしそうなのに触れなくて、悲しい思いをしているんです。かわいそうでしょ?」
一歩、峰草が踏み出した。それに合わせて贄田も一歩下がり、口縄に視線を向けた。口縄はやれやれと肩を竦め、口を開く。
「供。見ろ」
じわり、と贄田の黒い瞳に僅かに赤色が滲んだ。痛みが走り、一度目を閉じ開いたときに、ようやく贄田にもそれが見えた。
峰草の腕にはずっとそれが抱かれていた。脈打ち震える肉塊は峰草の腕からこぼれ落ちそうなほど大きく、大小さまざまな赤子の頭が生えていた。その顔のどれもが口を開け、泣き声を上げている。ずらりと並んで生えた複数の腕は、蠢きながら贄田の方に向けられていた。
「……う……」
贄田が顔を顰めた。悍ましい存在への嫌悪と、それが己を求めていることへの僅かばかりの恐怖。あの赤子が求めているだろう感情を抱いてしまっていた。
ぼと、と肉塊から頭が一つ落ちた。うねりながら体を生やし、短い手で這うように贄田に寄っていく。
「なるほど、こうやって分裂して憑りついていたのか。これなら何かあっても本体は無事なわけだ。そして憑いた相手の生命力を吸って、十分吸い上げたら産み落とされて本体に戻ると」
「分析するな。……どうすればいい」
「それはもちろん。受け入れてあげてよ。"全部"ね」
贄田はぐっと言葉に詰まったような顔をし、それから、両手を軽く広げた。視線は地面を肉塊ではなく、峰草が抱えているものに向けられる。
「……おいで」
静かに、低い声で呟く。
ずるり、と峰草の腕から肉塊が滑り落ちた。
子供を取り落としたと考えた峰草が慌てて拾おうとするが、それは存外素早く動き、途中地面を這っていた小さい肉塊をひき潰して贄田に向かって飛び込む。
その、腹に向かって。
「が、ぁ……っ、うぁ……」
衝撃で後ろに倒れた贄田の体に肉塊がへばりつく。全身を覆うように広がり、贄田の体を包み込んでいく。
「え、え?どうして」
「峰草さん。お子さんと話す最後のチャンスですよ。なにか声でもかけてあげたらどうです」
「何を言ってるの!戻っておいで、ほら、ね?」
狼狽え、贄田の体から肉塊を引きはがそうとする峰草を、口縄は喉を鳴らして笑う。
「無理ですよ。彼は、えー、トリモチみたいなものでして。霊を憑りつかせると離れなくなるんです。便利な体質でしょ。見えるものなんでも引き付けちゃうから、普段は見えないようにしてあげているんです。ああ!どうですか。これっていい記事になりませんかね。異常霊媒体質男性、その謎に迫る!なんてどうでしょう?」
「……カ、ガチ、しぬ、はやく……」
贄田が肉塊から弱弱しく腕を上げている。塊が歯のない口で全身を食んでくるのが不愉快で、そのたびに体から力が抜けていた。
つくづく、自分の体質は最悪だ、と贄田は内心吐き捨てる。普段の彼の視界には生者しか映らない。しかし、ひとたび口縄が許可すれば、その視界には取るに足らない霊から、見るだけでも人を殺すだろう異形まで映る。そして、それらは常に贄田を求めていた。その体を自分のものにしたい、と。
幼い頃からこの体質のせいで苦労してきた。異形に好かれ、親に嫌われ。あの厄介な男に捕まるはめになった。
贄田が肉塊の隙間から睨めば、口縄は楽しそうに笑顔を返してくる。
「ああ、すまない。すぐに終わらせるからな」
ぶつん、と線が切れたような音がして、時が止まったように周囲が静まり返った。
未だ混乱している峰草はぎょろぎょろと目を動かし周囲を確認する。そして、目が合った。
巨大な蛇がいた。
体の大半は白いが、ところどころ斑のように黒くなっている。双眸は柘榴のように赤い。舌を何度か出し入れし、トンネル内が少し窮屈なのか嫌そうに頭を振った。
「はぇ……?」
峰草から漏れたのは間抜けな声だった。
白蛇は大きく口を開け、もうほとんど肉塊に覆われている贄田に噛み付いた。牙を深く突き立て、角度を変えて何度も噛みついて、器用に肉塊だけをずるりずるりと飲み込んでいく。時折聞こえる呻き声は贄田のものだろう。
峰草が呆然と見上げている間に、白蛇は喉を膨らませて肉塊を飲み込んでしまった。
――だから、お子さんと話す最後のチャンスだって言っただろう。
口縄の嘲るような声が、峰草の脳内に響いた。
「あ」
峰草が大切に育てた子は、今、この白蛇に食われて消えた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ」
峰草の絶叫がトンネルに響く。
解放された咳き込みながら贄田が立てば、白蛇が顔を寄せ、舌で彼の顔を舐めた。
「ああ、うまいうまいお前を介して食うのが一番うまい」
「くそ野郎……」
「こら、どこでそんな言葉を覚えたんだ」
チロチロと舌を見せてくる白蛇から発せられる声は、口縄のものだ。贄田は白蛇を無視し、峰草の方へと向かう。彼女は髪を掻きむしり、口を大きく開け悲鳴をあげ続けている。
贄田は何度か躊躇った後に口を開いた。
「……峰草さん。あれは、本当にあなたの子供ではなくて、子供を想うあなたの気持ちを利用した別のものだ。だから」
本当の子供のことを考えて、だか、前を向いて、だか。きっと慰めの言葉を続けようとした贄田の口は半開きのまま止まった。
峰草の顔の皮膚がぼこりと盛り上がった。皮膚を裂き、その下にある筋肉と血管を晒したかと思うと、その裂け目からぐるりとひっくり返すように。峰草の体が一瞬で肉の塊と化した。それから溶けるように崩壊していき、最後に血だまりを残して消えた。
「あ……」
「約束を守れなかったからだろう。怪異かどこぞの神かは知らないが、人ならざるものと簡単に約束するものではないよ。なあ、供」
白蛇が愉快そうにその目を細め、それを贄田は憎らしげに睨んだ。
「峰草さんを惑わした奴は」
「こそこそと隠れているだろうが、今日は満腹だから帰る。気が向いたら来てやらんこともない」
「先に、そいつをどうにかすれば峰草さんは助かったかもしれない」
「お前はいつまでたっても優しい、いい子だ。私がわざわざそんなことをしてやるわけないだろう」
冷たく言い放たれたその言葉に反論しようとしたが、すぐに諦め口を閉ざす。
「供、帰ったら目一杯慰めてやろう」
「いらない」
贄田はトンネルの光が差すほうへ歩き出す。その背を白蛇が追うが、瞬きの間にそれは口縄の姿になっていた。




