プロローグ:フルダイブ
——VRゲーム《ネオイロス》へのログイン
視界が暗転する。
次の瞬間、探偵は重力のない空間を漂うような感覚に包まれた。
まるで、身体の輪郭が曖昧になり、現実とデータの境界が溶けていくような感覚。
耳の奥で、微かに波のような音が響く。
それはノイズのようにも聞こえたし、心臓の鼓動のようにも思えた。
《システムチェック完了》
《脳波接続安定》
《ダイブプロセス開始》
電子音と共に、無数の光の粒が視界に浮かび上がる。
まばらに散らばったそれは、まるで星のように瞬きながら、次第に形を成していく。
次の瞬間——世界が切り替わる。
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【ログイン完了:初期地点】
探偵の視界が開けた。
そこは広々とした村の広場だった。
木造の家々が並び、石畳の道が整然と敷かれている。
遠くでは風車がゆっくりと回り、川のせせらぎが心地よい音を響かせていた。
陽光が優しく降り注ぎ、風が木々の葉を揺らしていく。
まるで現実と見紛うほどの精細な映像。
空気の匂いすら感じるような、圧倒的な没入感があった。
探偵は、ゆっくりと手を握り、軽く足を踏みしめる。
(……なるほど、これがVRMMOか。)
直感的な操作が可能で、違和感はない。
自分の身体とこの世界の境目が曖昧になるような感覚があった。
だが、周囲を見渡す間もなく——
「ようこそ、《ネオイロス・オンライン》へ!」
突然、軽快な声が飛び込んできた。
探偵の肩ほどの高さに、白く光る小さなマスコットのような存在がふわりと浮かんでいる。
丸みを帯びたフォルム、デジタルの光を帯びた輪郭。
人型ではないが、表情豊かな目と身振り手振りの動きには"人間らしさ"がある。
「オレの名はエコー! プレイヤーサポートAIにして頼れる相棒さ!」
宙をくるりと回転し、誇らしげに胸を張る仕草をする。
「この世界で冒険を支え、時に案内役として、時に会話相手として、まさに万能のAIナビゲーター!」
「…………」
ノリのいい、エコーの様子を探偵はコメントせずに見守る。
「ま、まあ、質問があれば何でも聞いてくれ! ……と言いたいところだけど、まぁ、ゲームの基本くらいは知ってるよな?」
エコーは楽しげに目を細めた。
そして、探偵の反応を待たずに、勝手にゲームの説明を始めた。
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【ゲームの基本説明】
「まず、基本操作だけど、このゲームは直感操作だ! 手を動かせば手が動く、足を踏み出せば歩ける! シンプルだろ?」
実際、探偵が視線を動かしただけで、HUDがぼんやりと浮かび上がった。
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《システムログイン完了》
プレイヤーネーム:???(未設定)
レベル:1
HP:100%
装備品:なし
所持金:0G
ミニマップ:未更新
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(……なるほど、こうやって確認するのか。)
だが、探偵はその情報を深く見ることなく、視界から消した。
そんな様子を見て、エコーは少し呆れたように浮かぶ。
「おいおい、まずは装備だろ? ほら、そこに"木の剣"があるから、ちゃんと装備しろよ。」
探偵は、足元に転がっていた初心者用の木の剣を見やる。
「……邪魔だろ。」
「は?」
「こんなもの持ってどうする。」
「"どうする"って……戦うんだろ!?!?」
エコーが驚愕の表情を浮かべる。
「いやいやいや、"剣"を装備しないでどうやってモンスターを倒すつもりだよ!? お前、まさか素手で殴る気か!?」
「……そうだが?」
「そうだが? じゃねぇよ!? え、マジでゲームやったことないの!?!?!?」
エコーは宙でのけぞる。
「お前、もしかして"RPGの基本"すら知らないのか……?」
探偵は軽く肩をすくめ、聞き流す。
「まぁ、必要になったら装備すればいいだろう。」
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【村の外へ向かう探偵】
「ま、細かいことは置いといて! 何はともあれ、せっかくの《ネオイロス・オンライン》デビューだ! まずは村を歩いてみようぜ?」
エコーは前に浮かび、村の広場を指さす。
「村人と会話して、クエストを受けて、装備を整える! それが基本だろ?」
だが、探偵はその言葉を適当に流しながら、視線を外へ向けた。
「そうか。」
「そうだよ!」
「なら、行くか。」
「お、わかってきたか? じゃあ、まずは——」
エコーが次の説明を始める前に——
探偵は、まっすぐ村の外へ向かって歩き出した。
「……は?」
エコーは、その場で静止する。
次の瞬間、猛スピードで探偵の前に回り込んだ。
「ちょっと待てぇぇぇぇ!!!」
探偵はエコーを無視して歩こうとするが、目の前でバタバタとエコーが宙を舞う。
「おいおいおい、聞いてたか? ここ、RPGだぜ? 村のNPCと話をして、情報収集して、装備を整えて、ポーションのひとつでも買って、それから冒険に出るのが基本ってもんだろ?」
「そうか。」
「"そうか"じゃねぇよ!!! お前、何考えてんだよ!?!?!?」
エコーの表情が、「信じられねぇ……」と言わんばかりに引きつる。
「お前、まさか"初期装備なし"で村の外に行く気か!?!?」
「……それじゃダメなのか?」
「ダメに決まってるだろ!!!!」
そのまま探偵は、装備なし、回復アイテムなしで村の外へと出ていった。
【初戦闘、そして死亡】
村の外へ踏み出すと、風景が一変した。
広場の整然とした石畳から、踏みしめるたびに柔らかく沈む土の感触へ。
草が茂る小道は、遠くへと続き、やがて森の入り口へと繋がっている。
探偵は静かに足を進めた。
(……違和感。)
ふと、周囲の空気の流れが変わった気がした。
風の音が僅かに乱れ、地面の草がざわつく。
遠くの枝が不自然に揺れ、足元の小石が僅かに転がった。
(……何か、いるな。)
探偵は即座に身構えた。
次の瞬間、茂みの奥から素早い影が飛び出してくる。
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【敵出現:スカーレットウルフ】
《スカーレットウルフ LV.3》
素早い動きと鋭い爪を持つ狼型モンスター。
単体では脅威ではないが、群れで行動することが多い。
赤茶色の毛並みを持つ狼型モンスターが、低く唸りながら探偵に向かって疾走してきた。
探偵は即座に判断する。
(まずは避ける。)
狼が飛びかかる瞬間、探偵は軽く身体を捻った。
爪が風を裂き、寸前で空を切る。
探偵は体勢を崩さず、次の動きに移る。
(……カウンター。)
回避と同時に、反撃の蹴りを放つ。
——だが、その瞬間、妙な違和感が走った。
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【攻撃が"当たらない"】
探偵の蹴りは、狼の側頭部に的確にヒットした。
手応えはある。衝撃も伝わる。
だが、敵の体力は微塵も減らなかった。
(……?)
探偵は一瞬だけ混乱する。
確かに、蹴りは命中した。
敵は僅かにバランスを崩した。
だが、システム上では"何も起こらなかった"。
(どういうことだ?)
疑問を抱く暇もなく、狼はすぐに態勢を立て直す。
探偵は再び蹴りを放とうとするが——
その時、背後から別の気配を感じた。
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【囲まれる】
(まずい。)
探偵が察知した瞬間、左右の茂みから新たな二匹の狼が飛び出してきた。
挟まれた。
最初の一匹が前方から飛びかかり、探偵は瞬時にバックステップで距離を取る。
だが、それを見越していたかのように、側面の二匹が同時に飛びかかった。
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《ダメージ! HP -35》
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鋭い爪が、探偵の肩を裂いた。
避けきれなかった。
そして、さらに——
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《ダメージ! HP -30》
《ダメージ! HP -40》
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背後からの衝撃で地面に転倒する。
そして——
《YOU DIED》
探偵の視界が、白く弾けるように消えた。
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【リスポーン地点】
——次の瞬間、探偵は村の広場に立っていた。
石畳の冷たい感触が足元に伝わる。
周囲は相変わらず穏やかな村のままだった。
(……リスポーン、か。)
VRMMOの"死亡"とはこういうものか、と探偵は考えながら静かに息をつく。
そして、そんな探偵を見つめる影が一つ。
「……ぷっ……」
探偵が顔を上げると、目の前でエコーが肩を震わせていた。
そして——
「あっはっはっは!!! お前、何やってんだよ!?!?」
宙を転げ回るように笑い出した。
探偵は何も言わずにエコーを眺める。
「なになに!? まさかとは思ってたけど、マジで"装備なし"で外に行ったのか!??」
「……ああ。」
「……いや、お前、蹴り入れてたよな? なんで"武器持ってねぇのに攻撃できる"って思ったんだよ!?!?」
「……当たっていただろ?」
「当たってただけだ!!! ダメージ入ってなかっただろ!!!」
エコーは腹を抱えるように宙で転がる。
「いやぁ、見事な"初心者ムーブ"だったなぁ!! 初ログイン即死亡!! 記録更新レベルのスピードだぜ!!!」
探偵は淡々とエコーのはしゃぐ様子を眺める。
「笑いすぎだ」
「いやいやいや、さすがに笑うしかねぇよ……あー、お前マジで面白ぇな。」
エコーは笑いすぎて小さく震えながら、探偵の方を向いた。
「……で、次はちゃんと装備するよな?」
探偵は少し考えた後——
「……考えておこう。」
「おいおいおい!!!???」
エコーの絶叫が村の広場に響き渡る中、探偵は改めてこのVRゲームの仕組みを学ぶ必要があると、ようやく思い始めたのだった。