九
…まさか。そんな訳がない。相手は いかに美しくあろうとも、自分と同じ雄だ。つがいになど成り得ない。雄が雄に発情するなんて、聞いたこともない。
未知の領域に足を踏み入れてしまいそうで 一人 恐れ驚いていると、涙を流したままの獣人が ぽつりと何かを囁いた。
「な、なんて?」
とっさに、聞き返す。今は 己の愚かな妄想に翻弄されている暇はない。目の前の獣人に誠心誠意で向き合わなければ。
閉ざされていた獣人の唇が再度ゆっくりと動き、シャイルは それを一瞬でも見逃さないように じっと見つめる。
「…嬉しい、って言ったんだ。そんな優しい言葉をかけてもらえるとは思ってなかったから。嬉しかった」
言って、赤が滲んだ目元を緩めて笑う。
綺麗だと思った。自分が見惚れている事にも気付かずに、シャイルは ぎこちなく首肯を返す。
「でも 俺は優しい言葉をかけてもらう資格がない」
くしゃり、と美しい顔を歪める獣人。
「駄目なんだよ。俺は 優しくて可愛くて、大切にしていた あの人を傷つけたんだ。自分の勝手な思い込みと一人よがりな正義感で。それが あの人を幸せにするんだと思ってた。あいつよりも、あの人を大切にしてくれて、絶対に あの人に似合いの やつがいるって思ってたんだ」
興奮して語り出す獣人にシャイルは戸惑ったが、悲しげに語られるそれは獣人の懺悔のようで、シャイルは静かに耳を傾けた。
「あいつが 目をつけた時には、俺は軽い気持ちで傍観者を決め込んでた。でも、あいつが本気で追いかける度に、あの人は悲しい顔をして、皆に分からないように泣くから…だから、あいつが憎くなっていった。絶対に あいつじゃあ幸せに出来ないって。里で一緒に暮らしても、他のやつらに嘲笑われて あの人を傷つけるだけだと思ったから。だから、二人の行き違いに気付かないふりをしてた。それだけじゃない。わざと、二人を遠ざけていたんだ
」
シャイルは、ひくり、と眉をつり上げた。
…いつぞや聞いた、あれの話と少し似ていやしないだろうか?と。いや、まさかと思えど、獣人は 更に懺悔を続ける。
「あの人が里を出た時、俺は もう これで あの人を悲しませるものは無くなった。もう大丈夫だと思った。外に出れば 良い雄がいるって。外の雄が つがいになれば、嫌な事を言う連中ばかりの里に帰らなくてもいいだろうって。でも――」
「…でも?」
シャイルは言葉を切る獣人の背中を優しく撫でさすってやり、続きを促す。ここに味方がいると、しっかりと 分からせるように。
「…あの人が里を出てから、あいつは生きた屍になった。まるで死んだみたいに、脱け殻みたいになっていった。それから暫くして、あいつは成人前に急に里から消えた。…怖かった。俺が、あいつを殺した様なものだと思った。怖くて怖くて、あいつが贈った物とか文を引っ張り出して、それを拝み屋に供養してもらおうと思った。そうしてしまい込んでいた物を出していたら、一枚の文が目についたんだ 」
「文?」
シャイルは 首を傾げた。
「その文だけ、くしゃくしゃになってたんだ。他は綺麗なままなのに。それが気になって、中を見た。封は切られてなかった。人に宛てた文を勝手に見るなんて悪いと思ったけど、その時は その文を見れば救われると思ったんだ。だけど、だけど、その文には…」
嗚咽が混じる獣人の言葉を、シャイルは聞き続けた。
「その文には、あの人への想いと…二人で どこか遠くで暮らそうと…書いてあった。その時、おれは…わ、わたしは、気づいた。とんでもない間違いを犯したんだって。無知な私は、あいつは里で生きて里で死ぬと思っていた。でも それじゃあ あの人を幸せに出来るはずないって決めつけていた。あの里に生きても、姉さんは苦しい思いをする。だから あいつじゃあ駄目だった。里の外で生きる雄じゃないといけないと思い込んでいた」
シャイルの中で、推測が確信になる。しかし シャイルは何も言わなかった。獣人が全てを吐き出すまで、静かに受け止める覚悟であった。
「間違いを知って、私は姉さんを探した。姉さんは あいつが好きだったんだ。隠していても分かっていたよ。そして あいつも 堪らなく姉さんを好いてた。…それを邪魔していたのは私だ。だから、姉さんに真実を伝えたい。そして、謝りたいんだ」
全てを語った獣人は…サナンは、顔を伏せた。虚ろな目には後悔の念が感じられた。サナンは ずっと、一人きりで重く暗い感情を背負っていたのだ。
「――大丈夫。例え どんな障害や邪魔があっても、真実 互いに強く惹かれて想い合う つがいは、如何なる苦難も乗り越えて、結ばれるものなんだから」
穏やかな笑みを見せるシャイルを、サナンは 眩しいものを見る様に見ていたが、しかし 再び昏い闇が宿る。
「もう遅いんだ。いくら想い合っていても、もう…あいつは…」
悲痛な表情を浮かべる獣人に、
「大丈夫って言ったでしょ。ほら、あそこ。窓の外を見てみてよ」
怪訝な顔をしながらも、シャイルに従って少し離れた場所にある窓の外に目をやれば、そこには寄り添うように立つ つがいがいた。
サナンが 涙ながらに過去を語り出した時、窓の外に気配を感じたのだ。シャイルは すぐに それがニイシャとヒゼンだと分かった。化け物の様に 嗅覚が鋭いヒゼンなら、サナンが町に来た時には既に匂いで正体も分かっていたはず。雌一人で旅をし 若い雄に人探しを邪魔されない為か、変装や性別を偽り、多少 香水をつけて匂いを誤魔化していたていたようだが、そんな子供だましな手法ではヒゼンには通用しなかったのだろう。
だがしかし、良い意味でも悪い意味でも 己の つがいしか目に入らない この雄は、さして重要でもないだろうと、ニイシャに教えなかったのだろう。
しかし、シャイルとサナンが接触したと知り、そこで初めてニイシャに伝え、ニイシャの希望で ここまで来たのだろう。そうして、聞き耳をたてていたと。全く、あの雄は本当に質が悪い。
感涙にむせぶニイシャの横で、憮然として佇むヒゼンを睨み付けるが、ヒゼンは ニイシャの涙を 拭ってやるのに忙しい。
本当に、恐ろしくもあり憎たらしい雄だ。
ふと、シャイルは窓を見たまま一言も発しないサナンに気づき、そっと獣人を見やる。
そこには、目を見開いて硬直するサナンがいた。信じられない、という思いが ありありと顕れた顔をしている。
「…大丈夫?」
心配になって、シャイルが声をかけると。
「ぼ、ぼ…」
ヒゼンを指差し、サナンは叫んだ。
「亡霊が!…亡霊が そこに!お、おがみ、拝み屋を…」
と、サナンは半狂乱で叫ぶなり、棒立ちのまま ばたりと床にひっくり返った。
「ちょ、ちょっと…?!」
「サナン!?」
慌て ふためいてサナンに駆け寄るシャイルとニイシャ。
「どうしたの?!大丈夫?!ねえってば!」
「サナン!サナン!目を開けて!サナンっ…」
サナンを抱き起こす シャイル、ニイシャは頬を軽く叩いてサナンの覚醒を試みる。揺さぶられても頬を叩かれても目を開けないサナンに焦燥が募る二人だったが、一人平然として歩み寄るヒゼンは、サナンを見るなり
「心配せずとも良い」
と言い切った。
「で、でも、こんな、倒れてしまって…心配せずにはいられません…」
涙を溜めた瞳でニイシャが見やれば、ヒゼンは 初めて表情を変え、憂いを見せる。目の前で人が倒れても顔色一つ変えないくせに、ニイシャの涙で やっと感情を動かすとは。この雄は、やはり頭が おかしい。
しかし、そんな頭の おかしい この雄よりも。
「心配しなくて良いって、どういうこと?」
発言の意味を知りたい。早く述べろ、とヒゼンを睨むと、ヒゼンは溜め息をつき、
「妹君は寝ているだけだ」
と、言った。
「「…………………………………え?」」
たっぷりの沈黙の後、シャイルとニイシャがサナンを見ると。二人の騒がしさで掻き消されていたが、サナンは すやすやと寝息を立てて寝転けていた。
「「…………………………………」」
「 恐らく、成人の日を過ぎて すぐに出立し 昼夜を問わず ニイシャを探していたのであろう。十分な休息もとらずに動き回り、かなり消耗していたと見える。目の下のくまや やつれを 気づかせぬよう それとなく化粧で誤魔化しているようだが。そして、燻して虫は払ってある様だが 少し衣服が黴臭い。土の臭いと枯れ草の臭いもしている。良い寝床は得られなかった様だな」
すらすらと話すヒゼンをシャイルとニイシャは呆けて見ていた。香水の香りには気づいていたが、化粧や白粉の香りには気づかなかった。その他も言うまでもない。それはニイシャも同じ様で、驚いた顔をしている。
改めて、こいつは恐ろしい観察眼と嗅覚を持っていると再認識させられた。ヒゼンは ニイシャ至上主義の性格に難の有る変人であるが、一級の能力を持ち得る獣人でもあるのだ。
「でもさ、やっぱり医者に診てもらわないと駄目だよ。この子、雌なんだから身体を大切にしないといけないよ」
シャイルがサナンを労るような眼差しで見つめながら言うと、ニイシャが ハッとして、
「私も、あなたを疑う訳じゃないけれど…サナンが無事か、しっかり診てもらいたいです」
規則正しい呼吸を繰り返すサナンを見て 安堵したニイシャだったが、やはり妹が目の前で倒れてしまっては心配するなと言う方が無理がある。
サナンの髪を撫で付けながら、ヒゼンに懇願する。
ヒゼンは ニイシャを見つめ、次いでサナンに目をやると。
「…頑丈な狼族は これしきの事では死なない。しかし、ニイシャが そこまで気を揉むのならば 、私も手を貸そう」
すっ、と音もなくサナンの側まで近づき膝を折ると、ヒゼンはサナンに手を伸ばし、未だ眠り続けるサナンを肩に担ぎ上げた。
「なっ…」
突然の行動にシャイルとニイシャは面食らった。
「あの、もう少し 労ってあげて…」
まるで荷物を抱えるようにサナンを肩に担ぐヒゼンに、ニイシャは 戸惑いながら提言する。ニイシャ以外を労る事を知らないヒゼンからすれば、ニイシャ以外は 雄でも雌でも、それがニイシャの妹でも 労るに値しない存在なのだろう。
しかし、ヒゼンがサナンに触れて サナンを担ぎ上げた時から、シャイルは激しい嫉妬を感じていた。
見るな。
触るな。
その雌は僕のモノだ。
そんな声が己の内から聞こえてきて、シャイルは 酷く戸惑った。しかし、ふと気づく。サナンは、雌だ。それならば、シャイルが サナンを求めるのも自然なことなのだ。こうまで強く惹かれ、胸を焦がすのも自然の事。自分は おかしくなかった。知らぬうちに本能で彼女を欲していたのだ。
「僕が連れていく」
そう言うなり、奪うようにヒゼンの肩からサナンを下ろすと、力なく投げ出された四肢を どうにか支えながら、シャイルは サナンを背負った。
密着する雌の柔らかさと体温に、シャイルの身体も熱くなる。
しかし、ぴたりと重なりあう熱が不思議と心地よい。静かな吐息を背中に感じながら、空虚であった己の心の内側が、じわじわと暖かい何かに満たされていく気がした。
シャイルは、 この感覚を手放したくないと思った。