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【完結】万年桜の生贄婚 〜咲かぬ桜の神と生贄少女の一年契約〜  作者: 葉南子@「ツキヨム」コン大賞・楽曲化
第一章 生贄少女と桜の神

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第五話 対面

 差し出された珀弥の手に触れようとした瞬間、奈珠那ははっとして自分の姿を見下ろした。

 薄い長襦袢一枚。風が吹けば素肌がのぞいてしまいそうな、心許(こころもと)ない姿だ。

 

「……あ、あの、私……こんな格好で……」


 途端に頬が熱くなる。万年桜の下で倒れたときのままの格好だと思い出し、羞恥が押し寄せてきた。


「あ、そうでした!」

 

 珀弥が耳をぴんと立て、慌てたように部屋の隅を指さす。

 

「瓊環様がご用意していった着物があります。奈珠那様のお好きにお召し替えください」


 指の先には、淡い桜色を基調とした衣が丁寧に畳まれて置かれていた。花びらを幾重にも織り込んだように、儚くも艶がある着物。ただの絹ではないのかもしれない。手に触れずとも、その上質さが伝わってきた。


「……着替えて、いいんですか?」

「もちろんです。奈珠那様のお召し物ですから」


 珀弥は、部屋をぐるりと見回して付け加えた。


「この部屋も、瓊環様が『奈珠那様のために』とこしらえたお部屋なんですよ。ですから、どうか気兼ねなく。入り用があればいつでも、なんなりと、この珀弥に申し付けください」


 あまりにも大げさな言葉に、奈珠那は珀弥を見つめることしかできなかった。

 そんなふうに扱われたことなど、一度もない人生だったのだ。なんと返せばいいのかわからず、口を開きかけては閉じる。

 その戸惑いを察したように、珀弥が目元を和らげた。


「ささ、遠慮しないで! オレは外で待っていますから、準備ができたら声をかけてくださいね」

「あ……ありがとうございます」


 珀弥は「では」と一礼して部屋を出ていく。尾がふわりと揺れながら扉の向こうへ消えた瞬間、神域の空気がひときわ静まり返った気がした。

 奈珠那はゆっくりと寝台から身を起こし、桜色の衣に指先を触れる。驚くほど柔らかく、春の空気をそのまま織り込んだような温もりがあった。


 ──着替えたら……あの神様と会うのね……。


 胸が高鳴るのは不安か、緊張か、それとも別の何かか。

 奈珠那はひとつ息を呑み、衣を胸元に抱き寄せた。


 袖を通した着物は、布が肌に吸い付くように奈珠那の身体に馴染んだ。軽いのに、守られているような安心感がある。

 帯を締めるのに少し手間取りながらも、姿見に映る自分を見た奈珠那は、たまらず視線をそらした。


 ──こんなの、私じゃないみたい……。


 滑らかで艶やかな絹の着物は、少し動くだけで光をすくう。

 着物を新調してもらったことなど、一度もない。普段の着物は、継ぎを当てながら何年も着潰したもの。千佳のお下がりでさえ、「贅沢すぎる」ともらったことはなかった。


 だからこそ、今身に着けている衣は自分に似合わない気がしてならなかった。鏡に映る姿は確かに自分なのに、別の誰かのようで落ち着かなくなる。

 しばらく姿見の前から動かずにいると、控えめなノックが響いた。

 

「奈珠那様、ご準備はお済みですか?」


 扉越しの声は先ほどよりも柔らかい。奈珠那は「あ、はい」と小さく返し、扉を開けた。


「うわあ、とってもお似合いです!」


 珀弥の耳が、ぴょこんと立った。年相応の無邪気な笑顔に、奈珠那の緊張が少しだけほどける。


「……そ、そうですか?」

「ええ、お綺麗ですよ」


 ふさふさの尻尾も、言葉に合わせて嬉しそうに揺れていた。


「それでは、瓊環様のもとへご案内いたします。まだ歩くのがつらければ言ってください。ゆっくりで大丈夫ですから」

「……はい。お願いします」


 自然と歩幅を合わせてくれる神使の横を、奈珠那は恐る恐る進んでいく。廊下の先に満ちる光は、桜色の霧のように揺蕩(たゆた)っていた。


 しばらく歩いた先。

 とある部屋の前で、珀弥が足を止めた。ほのかに漂った桜の香りに、奈珠那の胸がわずかにざわつく。

 

「瓊環様。奈珠那様をお連れしました」


 彼の声に応じて、襖が音もなくひとりでに開いた。


「……失礼、いたします」


 促されるように部屋の中へ歩みを進めた途端、視界が開けた。

 部屋の向こうには小さな庭があり、そこには何本もの桜が並んでいる。花びらが舞い散るように、光の粒が浮遊していていた。改めて、ここは現実ではないのだと実感する。


 その桜の前に延びる縁側に、ひとりの男が腰掛けていた。

 風もないのに、かすかになびく長い銀髪。真っ白な衣をまとったその神は、ここが世界の中心であるかのように悠然と庭を眺めていた。


「来たか」


 ゆるりと向けられた視線に、奈珠那の背筋がしゃんと伸びた。無表情なのに、こちらへ向けられた視線は容赦がない。その一瞥(いちべつ)だけで息が詰まるほどに神は美しく、そして冷たかった。


「瓊環様、お待たせいたしました。奈珠那様には……」

「下がれ、珀弥」


 低く、自然に命じる声。逆らうという概念すら存在しないような響きだった。


「かしこまりました。では、オレは準備をば。奈珠那様、また後ほど」


 にこりと微笑む珀弥。その笑みは先ほどまでと変わらない、ごく普通の少年的なものだった。

 瓊環の冷淡な声も、命令口調も、彼にとっては日常なのだろう。奈珠那が息を呑む間に、珀弥は襖を閉めていった。


 二人きり──そう思うより早く、空気が変わった。

 桜の香りが濃くなる。背筋が粟立つほどの、妖しい気配。逃げ道を塞ぐように、部屋そのものが奈珠那を囲い込んだようだった。


「こっちへ」


 短く発せられた言葉には、「来い」という命令の匂いを孕んでいる。奈珠那の身体は何を考えるよりも先に、瓊環のほうへと動いていた。

 逆らわないほうが身のためだ、という感覚が骨の髄まで染み込んでいたからだ。自分の意志より相手の言葉に従うほうが波風も立たず、心も身体もすり減らずに済む。そうやって生きてきた記憶が背を押した。


 おそるおそる瓊環の隣へ膝をつく。桜の香りを含んだ甘い空気が、さらりと肌を撫でた。

 瓊環は、その金色の瞳で奈珠那を見つめた。正面から受け止めるには、あまりにも強い。


「あの、神様……。こんな上等な着物を、ありがとうございます」


 目を逸らすように、奈珠那は両手を膝の前に揃えて深く頭を下げた。

 

「あのままの格好でいられても見苦しいだけだ」

「……お部屋まで、ご用意していただき……なんとお礼を申せばいいか……」

「礼もいらない」

「ですが……」


 か細い声で続けようとした奈珠那のあご先に、瓊環の白い指が添えられた。指先は逃げるように伏せた奈珠那の顔を、ゆっくりと上向かせる。

 視界いっぱいに、金色の瞳が迫っていた。


「言っただろう」


 奈珠那の背が畳に触れる。押し倒されたのだと、一瞬遅れて気がついた。桜の香りが、息ができないほど近い。


「俺を愛せばいい、と」


 淡く甘い声。けれど、奈珠那から選択肢を奪うような強さが潜んでいた。

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