第三十五話 奉納の儀
「共に生きよう」
瓊環の真剣な眼差しに射抜かれた瞬間、奈珠那の胸に身を焦がしてしまいそうなほどの熱が灯った。
そして、そっと額に落とされた口づけ。以前、契約の証として口づけされたときとは、まるで違う温度感。彼から伝わるのは、どこまでも優しく切実な熱。
瓊環の温もりに全身が包まれたとき、眩いほどの白銀の光で視界が埋め尽くされた。
光が溶けたとき、汚れきっていたはずの身体は、月光を織り込んだように神々しく、夜桜のように華やかな巫女装束をまとっていた。手には、星の瞬きを宿した一振りの神楽鈴。
──私が……舞う。
いつか訪れる儀式のためにと、幼いころの奈珠那は人知れず舞の練習を繰り返していた。けれど六歳のとき、それを見つけた両親から返ってきたのは、無慈悲なまでの拒絶であった。
「余計な真似をして、これ以上怒らせるな」
頬を叩かれ、腕を掴まれ、無理やり舞を止めさせられる。舞など、祟り子に許されるものではない。そう言われた気がして、奈珠那はそれきり何も言えなかった。
それ以来、彼女は舞を忘れた。正確には、忘れたふりをして、憧れごと心の奥底に封じ込めた。
誰にも望まれず、誰にも許されなかった舞。
それが今。奈珠那だけを求めた、たった一柱の神のために解き放たれようとしていた。
神楽鈴を握り直す。
鼓笛の調べはない。目の前で起きたこの世ならざる異変と、瓊環が放つ圧倒的な神威に気圧され、誰もが音を鳴らすことさえ忘れて呆然と立ち尽くしていた。
音はなくとも、奈珠那に迷いはなかった。あるのは、身体の奥に消えずに残っていた記憶と感覚。
奈珠那は、静かに腕を上げた。
チリン──と澄んだ音が夜の帳に反響した瞬間、凛とした風が奈珠那を中心に広がった。重く淀んでいた夜気が、嘘のようにほどけていく。
奈珠那は右足を一歩踏み出し、袖をひるがえす。今度は、春の息吹のような風が通り抜けた。
チリン。
二度目の鈴の音が響いたあと、辺りを覆っていた黒い花弁が、淡い光を放ちながら宙へと舞い上がりだした。闇だったものが光へと変わりだす。
一歩、また一歩。次いで半歩、二歩と、奈珠那は迷いのない足運びで舞を紡いだ。凍りついた夜が、鮮やかな色彩に彩られていく。
千佳が舞ったときには、あれほど脆く朽ちていた万年桜が、今は奈珠那の一挙手一投足に応えるように次々と蕾を結びはじめた。
皆が皆、息を呑み言葉を失う。
『天女』
そう呼ぶことさえ、恐れ多い。
背中に注がれる瓊環のまなざし感じながら、奈珠那は舞い続けた。
くるりと円を描き、最後の鈴を鳴らす。しなやかに身を留めた、その刹那。
しゃらん、と数えきれないほどの蝶が羽ばたいたように、桜が一斉に花開いた。
咲き誇ったのは、夜を塗り潰すほどの清らかな輝き。神に選ばれた唯一の少女だけが咲かせることのできる、万年桜だった。
誰一人、すぐには声を上げられなかった。自分たちが何をしていたのかも忘れ、呆然と万年桜を仰ぐ。あまりにも神々しい光景に、言葉というものが追いつかないようだった。
やがて、震えるような息遣いがあちこちからもれはじめた。
「……咲いた……」
「万年桜が……本当に……」
「桜神が、応えた……」
驚愕は、次第に確信へと変わっていく。そして人々の視線は奈珠那へと向けられた。
「……奈珠那様!」
「本物の、巫女様……!」
誰かが膝を突くと、なだれを打って平伏し始めた。奈珠那を祟り子と呼び、蔑み、見下してきた者たちが、手のひらを返したように敬意と畏怖を宿した眼差しで崇めだす。
その中で、千佳だけが取り残されていた。
「そんな……」
巫女装束の裾を握りしめたまま、唖然と千佳は万年桜を見つめている。その目はだんだんと鋭さを増し、怒りが沸々と湧き上がるように、爪が衣服へと食い込んでいった。
「こんなの……嘘よ……! 私の舞は、ずっと完璧だった……! なのに、どうして、あんな子に……!」
「理解したか」
突如落ちた声に、千佳の喉がひくりと鳴った。息を吸うことさえ許されないような圧が奉納台を満たす。
千佳の前へと降り立った瓊環は、一歩ずつ彼女へと近づく。距離が縮まるほどに、空気が張り詰めていく。すでにここは人の領域ではないのだと、知らしめるようだった。
「桜が応えたのは、血でも、家柄でも、見せかけの信仰でもない」
嘲笑うように細められた金の瞳が、千佳を見据える。
「お前では、桜を咲かせることができなかった。それだけのことだ」
「……ふざけないで……」
千佳の唇が歪む。
「ふざけないでよ!」
絞り出すような叫びが、ひどく場違いに響いた。
「私が……! 私がどれだけ、この日のために舞を磨いてきたと思っているの!? 藤ノ宮の誇りとして、誰よりも称えられるために……!」
千佳の睨むような視線が、桜の下で崇められている奈珠那へと向けられる。
「あの女が……祟り子がまだいるから……!」
「口を慎め」
刃のような一言が千佳の喉を塞いだ。
万年桜の枝が、ざわりと大きく揺れる。神の不快に共鳴したような、妖しい揺れだ。
「まだわからないのか。お前が蔑んだその女こそ、俺が選び、共に生きると決めた存在だ」
「選ん、だ……?」
顔を引きつらせる千佳。理解を拒むような、わななく声がこぼれ落ちた。
「そんなはずないわ!」
割れた悲鳴とともに奉納台へ駆け上がってきたのは千佳の母、沙都子だった。必死の形相で千佳の肩を抱く。
「この子は……千佳は、藤ノ宮家の正統な娘よ! あんな出来損ないに万年桜が応えるなんて、何かの間違いに決まってる!」
「黙れ」
あまりにも平坦な声音。だが、滲みだしている怒りは、指一本触れることすら許さぬほど凄まじい。
さらに一歩、前へ出る瓊環。迫り来るような圧に、沙都子はぐっと喉を鳴らした。
「貴様らがやってきたのは、信仰ではない。ただの支配だ」
冷ややかに断じる瓊環。
「神を名目に奈珠那をいたぶり、恐怖で従わせ、生贄として差し出した。それを『祈り』と呼ぶか?」
沙都子と千佳の顔から、みるみる血の気が引いていく。反論しようとした沙都子の口は、乾ききっていた。
「そ、それは……一族のため……村のため……!」
必死に絞り出した言い訳は、あまりにも薄く、白々しい。
「違う」
瓊環は間髪入れずに切り捨てた。
「己の地位と欲のためだ」
神の堂々たる発言に、ざわっと周囲が揺れた。これまで藤ノ宮家に従ってきた者たちが、動揺したように互いの顔を見合わせる。考えたことすらなかった現実を、否応なく突きつけられたようだった。
「……そうだ」
「去年だって……奈珠那様を……」
「生贄にすれば咲くって……」
囁きはやがて声になり、波紋のように千佳たちにまで広がっていった。
「違う……違うわ……!」
千佳は首を振り、後ずさる。
「藤ノ宮の娘として、私はずっと役目を果たしてきたでしょう!? 舞も、祈りも……何一つ、手を抜いたことなんてないわ!」
自らの正当性を必死に訴えながら、千佳は奉納台の下を睨みつけるように視線を落とす。
「それに……あなたたちだって言ってたじゃない。姉様は祟り子だって……! だから桜が枯れ果てたって……!」
千佳の叫びに、誰一人として即座に言い返す者はいなかった。人々の視線が散らばる。地面を見つめる者。隣の顔色をうかがう者。皆、責任の行き先を探すように目をさまよわせている。
事実を否定する声は上がらなかった。だからといって、奈珠那に向けて謝る者もいない。行き場のない非難。それを、桜を咲かせた巫女に向けるわけにはいかない。
ならば──。やがて、すべてを千佳ひとりの罪にするかのような視線が、奉納台に集まっていた。
「なによ……私が悪いっていうの!?」
甲高い声が虚しく跳ね返る。千佳は奉納台の上で立ち尽くし、恨めしそうに周囲を見回した。
千佳の視線が、満開の桜に抱かれるように立っている奈珠那に留まる。現状のすべてを受け止められないように、千佳が奥歯をぎりっと噛みしめる。
膨れ上がった怒りと屈辱が、醜い言葉となって噴き出した。
「全部……! 何もかも全部、祟り子がいるせいよ……! あんな女、さっさと死んでいれば……!」
「いい加減にしろ」
完全に冷え切った瓊環の語調が、千佳の呪詛を断ち切る。ぎしりと、万年桜の枝が不穏げに軋んだ。
「貴様らは、神に祈る資格すらない」
ひとつ指を鳴らす瓊環。ぱちんと乾いた音と同時に、千佳と沙都子の足元にどす黒い影が浮かび出した。




