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【完結】万年桜の生贄婚 〜咲かぬ桜の神と生贄少女の一年契約〜  作者: 葉南子@「ツキヨム」コン大賞・楽曲化
第一章 生贄少女と桜の神

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第二話 不穏

 それから数日が過ぎた。

 奈珠那は、いつもと変わらぬ日々を過ごしている──つもりだった。

 

 春先とはいえ、まだ冷たい井戸水は指先をじんと痺れさせる。冬から治らないひび割れは、水に触れるたび針が刺さるように傷んだ。

 だからといって、手を止める理由にはならない。家事を始めて十年。身体はもう、考えるより先に動く。朝起きれば掃除をし、食事を作り、汚れたものを洗う。

 いつもと同じように、淡々と。


 少なくとも奈珠那は、そうしていればいいのだと思っていた。これまで通りに振る舞うことが、自分の役目なのだと。

 けれど──家の中の空気だけは、どうしても以前と同じようには感じられなかった。

 

 沙都子は奈珠那にほとんど声をかけなくなった。いつもの叱責はおろか、些細な小言さえない。さらには、視線さえも。そこに奈珠那など存在していないかのように、沙都子は黙っている。

 それは怒号よりも重く、逆に胸をざわつかせた。


 千佳は千佳で、いつになく機嫌がよく見える。鼻歌まじりに歩きながら、扇子をひらひらと揺らしている姿が増えた。

 千佳の態度は、奉納の儀が近いからだと奈珠那は思っていた。花が咲かないとはいえ、村人の視線を一身に浴びる日。自尊心の高い千佳にとって、それだけで十分に愉悦(ゆえつ)なのだろう。

 それに、咲かなければ咲かないで、あとは奈珠那のせいにでもすればいい。

 

 ──私の存在意義なんて、それしかないもの。


 そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷えた。この役目から解放されるわずかな希望さえ、どこにも残されていないような気がした。


 しかし、それだけでは終わらなかった。

 ふとした折に、千佳の視線が奈珠那の首すじや手首に落ちる。撫でるような、値踏みするような、ねっとりとした視線。嫌悪とも恐怖ともつかぬ寒気が、肌に薄く張りついた。


 ──なに? どうして、急に……?


 問いは喉まで上がるのに、声にはできない。不吉なざわめきだけが広がっていった。


 ⁂


 奉納の儀の三日前。


「ごきげんよう、奈珠那姉様」

 

 井戸の前で水を汲んでいる奈珠那に、背後から千佳が声をかけた。

 

「姉様も、当日はちゃんと儀式へいらしてくださいね」


 その声は親しい友人を誘うかのように、何の悪意も含まれていないようだった。不気味なくらいの猫撫で声に奈珠那は汲み上げた桶の手を止め、ゆっくりと振り向いた。

 

「……え? 私は今年も留守番では……?」


 例年、巫女役を務めるのは千佳一人。奈珠那はその場に立ち会うことすら許されていなかった。

 だが千佳は楽しげに笑う。

 

「ふふ。今年の姉様にはね、特別なお役目があるんですよ」

「……どういう意味?」


 数日前からくすぶっていた不吉なざわめきが、大きく波立った。

 

「あら、言ってませんでした? 姉様、今年は神様に一番近い場所に立つんですよ」


 声色は煮詰めた砂糖のように甘いのに、ひと口舐めれば毒に犯されてしまいそうな邪気が混じっていた。


 ⁂


 儀式当日の朝になっても、奈珠那はいつもと同じように家の掃除を続けていた。

 箒を手に、土間の隅から隅まで丁寧に掃き清める。長い廊下には塵一つすら残さぬよう、何度も雑巾をかける。

 

 普段は淡々と雑役をこなす奈珠那だったが、この日はどうにも手の動きが遅かった。千佳が告げた「特別なお役目」という言葉が気になっていたからだ。

 それがどういう意味を持つのか、奈珠那はまだ沙都子にも千佳にも訊ねていない。問うたところで、真実が返ってくるとは思えなかった。

 

「あらあら、奈珠那姉様。朝から精が入りますこと」


 廊下で雑巾を絞っている背のほうから、鈴を転がしたような千佳の声が響いた。こんなふうに話しかけられるのは、決まって嫌な予感のするときだけだ。


「ねえ、姉様。あなたの役目も最後ですし……せいぜい、綺麗に磨き上げておいてくださいね」


 千佳は扇子で口元を隠しながら、目だけをいらやしく細めた。


「あらあら姉様、まだ汚れがありますよ」


 奈珠那のすぐ横に置いてあった桶に視線を落とす千佳。すぐさま近づき、わざと足先で桶を蹴り倒した。


「……っ!」


 がしゃんと跳ねた水が奈珠那の裾を濡らし、磨き上げたばかりの廊下一面に広がっていく。


「まあ、姉様ったら。こんなところで水浴びだなんて」


 薄手の着物はたちまち水を吸い、肌に張りついた。そこから伝う冷たさが、じわりと奈珠那の体温を奪っていく。

 千佳はわざとらしく口元に手を当て、くすりと笑っていた。


「……千佳、どうして……」

「はあ? 私、汚れがあるって言いましたよね?」


 ぱちりと扇子を鳴らし、千佳は奈珠那を見下ろした。

 

「それにしても、汚れってなかなか落ちないものね。まあ、仕方ありませんわ。だって、姉様が穢れそのものなんですもの」


 あははと高笑いだけを残して、千佳は濡れた廊下とは反対のほうへと優雅に歩き去った。


 ⁂

 

 昼過ぎ、奈珠那は千佳の命で買い出しに出た。

 本来であれば、祟り子を隠したい藤ノ宮家は、奈珠那を家から出すことを好まない。人の目に触れるのは、滅多にないことだった。


 ──やっぱり、最近おかしい……。

 

 そう思いながらも、久々に吸った外の空気と眩しいくるいの陽光は、身体に心地よく染み込んだ。

 村の通りは普段よりずっとざわついていて、みんな浮き立ったように賑わっている。

 年に一度の、奉納の儀の日。その熱気が村全体を包んでいた。


 賑わいの中、ふと誰かの会話が耳に入る。

 

「今年こそ、桜神のお怒りが鎮まるように……」

「ああ。捧げものさえあれば、きっと咲くに違いない」


 よくある万年桜の噂話だ。

 桜が十七年間咲かぬままなのも、干ばつも、不作も、果ては嵐や雷までも──すべてが桜神の怒りだと結びつけられ、いつしか村人たちは疑うことさえやめていた。


「おい、緋の目の女だぞ……!」


 こちらに気づいたようで、慌てた様子で距離を取る。

 奈珠那の姿、名前までは知らなくとも、その異質な緋色の瞳の存在だけは十分に知れ渡っていた。


「なんて不吉な目だ」

「本当、早く夜になればいいのに……」


 そんな声は、今に始まったことではない。奈珠那は俯き、自分の足元に視線を落とした。

 一刻も早くこの場から立ち去ろうと、歩みを速める。見なければ、聞こえなければ、傷つかずに済む。そう覚え込むしかなかった十七年だった。

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