第十五話 変化
珀弥に促された奈珠那は、一度自室へ戻った。
障子を閉めると一気に肩の力が抜ける。外の空気が遠ざかったように、部屋には静寂が満ちていた。
それなのに、心だけが落ち着かない。胸に残った瓊環の言葉が、何度も反芻されていたからだ。
“──愛は得られないし、与えられない”
意味を考えようとするほど怖くなり、身震いがした。奈珠那は身体を抱きしめる。
一年以内に瓊環のことを愛す──そういう契約で、神域へ連れてこられた。だが、周囲からも、果ては肉親からも愛を知らずに育ってきた奈珠那にとって、それはあまりにも途方もない使命に思えた。
──私に……できるのかな……。
いや、それよりも。神域に来る前の自分は、生きることも死ぬことも、どちらでもよかったはずだ。明日が来なくても構わない。だから一年後、瓊環に命を奪われようとも──そう思っていたのに。
ふと、珀弥の屈託のない笑顔が脳裏をよぎる。それから、つむじを曲げながらも菓子を差し出した天寧の横顔。そして何より、契約という形で命を繋ぎとめてくれた瓊環の存在。
彼らが与えたのは、奈珠那以外の人間からすれば、きっと特別な優しさではない。
鳥のさえずりとともに目覚める心地よい朝。ご飯や団欒の温もり。生きていることを責められない場所。
その“当たり前”は、いつの間にか奈珠那の心に根を張っていた。
死んでもいいと思えていたはずの心が、ここに留まりたいと願ってしまっている。恐ろしくもあり、同時に、どうしようもなく温かかった。
──私に、愛なんて……。
できるかどうかは、まだわからない。けれど少なくとも、今の奈珠那は「生きたい」と思ってしまった自分を否定できずにいた。
⁂
珀弥に「休んだほうがいい」と言われても、奈珠那は部屋でじっとしているのが耐えられなかった。
何かをしていないと落ち着かない。それはいつもの癖のはずなのに、今日は少し違う。ただ与えられるだけで終わりたくない、そんな思いが奈珠那を突き動かした。
部屋を出ようと障子に手をかけた、そのとき。
空気が変わる。部屋の奥がわずかに歪み、数刻ほど前に奈珠那の頬を叩いた、あの生暖かい風が渦を巻いた。
「贅沢な部屋ね」
低く艶を含んだ声。奈珠那は声を聞くより先に、訪れたのが誰なのか悟っていた。
「天寧、様……」
翠の髪をゆるくまとめ、腕を組んだその姿は、昼間の眩しさとは打って変わって艶やかに見える。神としての威圧と、女としての苛立ちが、あからさまなほどに浮き彫りになっていた。
「なに、その顔? 化け物でも見るような顔しちゃって」
「……申し訳、ございません」
「はあ? 本当に化け物として見てたわけ?」
「あ……いえ、そんなつもりは……」
言ってしまった、と肝を冷やした。本心では、そんなふうに思ってなどいない。それなのに口をついて出たのは否定でも説明でもなく、いつもの謝罪だった。
波風を立てないために、相手の機嫌を損ねないために、先に頭を下げる。そうすることで、これまで何度も自分を守ってきた。だが今は、その癖がかえって誤解を生んでいるのだと、はっきりとわかる。
言葉を探す奈珠那を天寧は一瞥し、蔑むようにため息をついた。
「ったく。本当に、なんで瓊環はこんな人間なんかを……」
吐き捨てるような言葉に、胸がきりっと小さく軋む。それでも奈珠那は、俯かなかった。
「あの……私は、どうしたらいいのでしょうか?」
それは許しを乞う言葉ではなく、与えられたものをどう返せばいいのかを探す問いだった。
淡くも生きたいと思ってしまった以上、庇護されるだけの存在ではいたくない。
けれど奈珠那には、ここで生きるために何を差し出せばいいのかが、まだわからなかった。救われた命をどう返せばいいのか。瓊環たちに与えられたこの日々に、どんな意味を持たせればいいのか。
その答えを欲していた。だから目の前に立つ女神に、無意識のうちに問いを投げてしまったのだ。
「はあ!? そんなの、なんで私に聞くわけ?」
「……すみません」
「うざったいわね」
苛立ちを隠そうともせず、天寧は舌打ちする。
「でも、そうね。どうしらって聞くなら……」
一拍置いて、唇が歪んだ。
「神域の奥にある、『紅玉の果実』を取ってきなさい」
「……紅玉の、果実?」
「ええ。それを取ってこれたら、私はあなたのことを少しだけ認めてあげる」
天寧は一歩、奈珠那へと詰め寄った。彼女の身からあふれる神気に触れ、肌にピリピリとした痛みが走る。
「神域の奥は神しか近づけない場所よ。空気は濃いし、道も歪む。人間には毒でしかない。運が悪ければ、そのまま消えるわ」
あえて突き放すような言い草は、脅しには聞こえなかった。神としての、慈悲のない事実の提示だ。
「私はね、納得してないの。人間なんて簡単に壊れる。愛を知らない神を救えるほど、強くない」
きつくなった天寧の視線が、奈珠那を射抜いた。
「あなたに、できるはずがない」
それは試練のことを指していると同時に、奈珠那が瓊環の契約者であることを否定する言葉でもあった。
深く息を吸う奈珠那。かつての自分なら、何を考えるでもなく、漠然と「申し訳ございません」と視線を伏せていただろう。
けれど、今は違う。ここで頭を下げ、「やりません、できません」と口にすることは、命を繋いでくれた瓊環の恩と、自分を「奈珠那様」と明るく呼んでくれる珀弥の真心を、根底から否定してしまう気がする。
何より、あれほど希薄だったはずの自分の心が今、「ここにいたい」と叫ぶように鼓動している。ただ生きるのではなく、瓊環が生かしてくれたことに意味を持たせたい。
「……やります」
言葉は短く、そして揺らぎがなかった。自分でも不思議なほど、奈珠那は落ち着いている。
返事を聞いた天寧の目が、一瞬だけ見開かれた。驚きというより、想定外のものを見たときの反応のように。
「へえ……」
値踏みするような視線で、奈珠那を上から下へとなぞる。瞳には、先ほどまでの苛立ちとは異なる色が混じっていた。
「逃げないんだ。てっきり怖気付くとでも思ったのに」
試すような口調。受けた度胸を褒めるでも、かといって認めたわけでもなさそうだ。しかし、突き放すにはどこか甘い。
「決行は夜よ。寝静まったと思わせて、屋敷を抜けなさい」
当然のように告げられ、奈珠那は小さく息を呑む。
けれど、もう迷いはなかった。覚悟を決めたように奈珠那は大きく頷く。初めて、生きることを前提にした選択をしたのだ。
「後悔しても遅いんだから」
最後に言い捨てて、天寧の姿は風に溶けるように消えた。
残された空気が、わずかに甘い。その甘さは、試練を課した女神の本心を、ほんの少しだけ覗かせているように思えた。
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